第2章 奈落の谷
ドラグナー峡谷は、公国領内でも最も危険な難所の一つとして知られていた。切り立った岩肌は鋭く、渓谷を流れる濁流が地の底から不気味な音を響かせる。特に、峡谷にかかる吊り橋へと続く細道は「旅人殺し」と恐れられ、無数の命を飲み込んできた。
吊り橋は朽ち果てかけた木製の橋桁を太いロープで支えていたが、腐食が進み、一部は完全に抜け落ちている。風が吹くたびに、ロープが軋む音が鋭く峡谷に木霊した。晴明は足元を見て、喉を鳴らした。
「こ、これが吊り橋…!」
京の都からほとんど出たことのない晴明にとって、ここまでの道のりは既に地獄の試練だった。しかし、これから先が本番だった。吊り橋は風を孕んで揺れ、まるで意志を持つかのように軋んでいた。
「こ、この吊り橋を渡るのですか?」
震える声で問いかけると、ニュイが苦笑しながら振り返る。
「怖いか? さすがの魔術師様も、こればかりは不得手か?」
「飛んで渡れば?」
シャロンが肩をすくめながら皮肉を言う。
(私一人なら術を使うが……この人数では…さすがに無理だ)
晴明は渋々ながらも前へ進む決意を固めた。
一行は、ニュイを先頭に一人ずつ等間隔で渡り始めた。晴明はマルグリットの後ろ、殿はシャロンが固める形だ。風が強くなり、吊り橋の揺れが激しくなってきた。
「か、かなり揺れますね……!」
慎重に足を運ぶ晴明を、後方からシャロンが励ます。
「もう半分だ、頑張れ!」
(あと半分、あと半分……)
晴明は歯を食いしばり、一歩一歩を確かめるように進む。足元の板が軋み、谷底から吹き上げる風が衣をなびかせる。
しかし、次の瞬間、晴明の表情が強張った。
(この臭い……?)
焦げ臭さが微かに漂っていた。五感の鋭い晴明だけが察知できる危険の匂い。
「どうした、セーメー?」
シャロンが異変に気付き、声をかけた。その表情に緊張が走る。
「敵が来ます。それも……両方から!」
晴明の警告と同時に——
「敵襲!」
ニュイが前方で剣を抜きながら叫んだ。
闇の中から現れたのは野盗の群れだった。黒装束に身を包み、短剣や斧を振りかざしながら、吊り橋の向こう側を封鎖している。その目は獲物を捕らえた狩人のように輝いていた。
そして、対岸にも黒いフードを被った小太りの男が立っていた。その指先から漂う魔力に、晴明は身震いした。
「クリムゾン・オクスプリム……!」
晴明の言葉に、男は不気味に笑みを浮かべた。
「よく知っているな」
「森の中では、してやられたが、今度はそうはいかんぞ!」
「あれは、お前だったのか!」
シャロンが怒りを込めて叫んだ。剣を握る手に力が入る。
「炎の修道士、ノクスとは俺のことよ!」
ノクスの声が峡谷に響き渡る。
「くそっ、撤退だ!」
シャロンが叫んだが、すでに退路は塞がれている。前後の道を完全に封鎖され、逃げ場を失った一行。
「お前たちは教団にとって目障りだ。ここで始末する!」
ノクスが合図を送ると、野盗たちは橋のロープを掴んで大きく揺らし始めた。橋全体が大きく左右に揺れ、足元が不安定になる。
「うわっ!」
立っているのがやっとの状態で、護衛の騎士の一人がバランスを崩した。彼の指先はロープにわずかに届かず、悲鳴とともに谷底へと消えていった。
「ピエール!」
マルグリットの悲痛な叫び声が響く。
「まだ足りんか。ならば……」
ノクスは両手を高く掲げた。掌から漆黒のオーラが立ち昇る。
「闇の炎!!」
黒い炎弾がいくつも放たれ、空気を切り裂く音とともに飛来した。護衛の騎士たちは次々と炎に包まれ、叫び声を上げながら奈落へと落ちていった。燃え盛る体が落下する様は、まるで流星のように見える。
「死ね、王女!!」
ノクスは再び詠唱し、複数の炎弾をマルグリットに向けて放った。黒い炎が空気を切り裂き、獲物を求めて襲いかかる。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前、結界発動!」
晴明が素早く詠唱する。瞬間、透明な障壁がマルグリットを包み込み、炎弾が次々と弾かれていく。衝突の衝撃で結界が青白く輝く。
「ちっ、まだまだ!」
ノクスはさらに炎弾を連発した。結界がほとんどを防ぐが、その数があまりに多く、一部の炎弾が結界をすり抜け、護衛の騎士たちに直撃する。
「クソっ!!」
シャロンが歯ぎしりする中、また一人、また一人と騎士が炎に包まれ、谷へと落ちていく。その悲鳴が峡谷に響き渡る。
「このままでは、全滅する……!」
シャロンの焦りに満ちた声。彼の視線は王女へと向けられている。
晴明は決意を固め、魔力を集中させる。周囲の空気が震え始めた。
「急急如律令、魔力還元!」
晴明が飛び交う炎弾に向かって叫ぶ。次の瞬間、空中で炎弾の軌道が反転し、放った側の野盗へと襲いかかる。
「ギャアアアアアアアアアアアア!!!」
ノクスや野盗たちは火だるまになり、のたうちまわる。黒い炎が彼らの体を包み込み、苦悶の叫びが峡谷に響き渡る。
だが、火炎に包まれながらも、ノクスは怯まなかった。その目には最後の決意が燃えていた。
「このままで死ぬか。ならば道連れじゃ!!」
炎に包まれたまま、ノクスが最後の力で炎弾を放った。その目標は晴明ではなく——空中へと向かう。誰もが明らかにミスだと思った瞬間。
「奈落の谷底へ落ちろ! ぎゃあああ!!」
ノクスは断末魔の叫びとともに焼け死んだ。しかし、彼が放った渾身の炎弾はある方向へと飛んでいた。
次の瞬間、シャロンが絶叫した。
「吊り橋に火が!!」
「しまった!」
晴明もノクスの真の狙いに気づくのが遅かった。吊り橋を支えるロープが次々と燃えている!太いロープが焼け切れ始め、橋全体がきしむ音を立てる。
ノクスは最後の力で、吊り橋のロープを燃やしたのだった。その狙いは完全に的中していた。
バラバラと崩れる木の板。支えを失った吊り橋は一挙に崩れ、ニュイや残りの騎士たち、そしてマルグリットまで谷底へ落ちていく。
「姫様!!!!」
シャロンは絶望的な叫びを上げながら、マルグリットを助けようとしたが、その手は届かなかった。
晴明は最後の力を振り絞った。
「急急如律令!急急如律令!急急如律令!天翔縁舞、発動!」
晴明が呪文を詠唱すると、マルグリットの落下速度は遅くなり、まるで羽に乗るかのようにゆっくりと落ちていく。
「急急如律令!急急如律令!急急如律令!天翔縁舞、発動!」
「急急如律令!急急如律令!急急如律令!天翔縁舞、発動!」
晴明は連続して呪文を詠唱した。マルグリット、ニュイ、残りの騎士たちの落下速度が緩やかになる。このままいけば地上に大したダメージもなく辿り着けるはずだ。
その時だった。晴明がガクッとひざまづいた。体力の限界だ。連続詠唱による魔力の消耗が極限に達していた。
「だ、大丈夫か? セーメー!」
シャロンが慌てて駆け寄ろうとした瞬間、二人の足元の橋桁が外れ、シャロンは落ちかけた。
ばしっ!
晴明の左手が弧を描き、シャロンの右手を掴んだ。同時に晴明の足元の橋桁も外れ、二人は宙吊りになった。
晴明は右手でかろうじてロープをつかみ、谷底へ落ちずに済んだ。左手はシャロンを支えている。その顔には必死の形相が浮かんでいた。
「セーメー! 左手を離せ、このままでは、お前が持たないぞ!」
シャロンの声に晴明は微笑みで応えた。しかし、慣れない状況で続けて呪文を唱えたせいか、さすがの晴明も精魂尽き果てようとしていた。手の筋肉が震え始める。
(あとはシャロン様と自分だ…け…)
ついに、晴明の右手が限界を迎え、掴んでいたロープが焼け切れた。
「セーメー、私の手を離して、横のロープを掴むんだ!」
シャロンの必死の叫び声が聞こえるが、晴明の意識は薄らいでいく。視界が暗く、ぼやけていく。
(シャロンを助けなければ…)
最後の力を振り絞り、晴明は呪文を詠唱した。
「急急如律令!急急如律令!急急如律令!天翔縁舞、発動!」
術をかけられたシャロンはゆっくりと落ちていくのに比べ、術がかかっていない晴明の落下速度は速い。シャロンを助けるため、最後の魔力を使い果たした晴明は、シャロンを追い越して谷底へと落下していった。
「セーメー!!!!!」
シャロンの絶望的な叫びが峡谷全体に響き渡る。
晴明は光を失った目で、暗闇へと落ちていった——。