第1章 クリムゾン・オクスプリム
晴明たちは、次の目的地であるロワール城へと向かっていた。
ロワール城は、すでに廃城となって久しいが、休息を取るには適した場所だった。
馬車を失った今、騎乗しての移動とはいえ、マルグリット姫に無理をさせるわけにはいかない。
「私の術でも、見知らぬ場所への転移は不可能だしな……」
晴明がそう呟いたとき、森の奥へと足を踏み入れた彼らを、冷たく湿った空気が包み込む。
風に揺れる梢のざわめきは次第に静まり、鳥のさえずりさえ途絶えていった。
まるで、世界そのものが息を潜めているかのように──。
ザワァァ……!
突如、濃密な霧が森全体を覆い尽くした!
視界はみるみる白く閉ざされ、足元から這い上がるように靄が絡みつく。
「……妙だ」
晴明は足を止め、鼻をひくつかせる。湿った空気の中に、鉄錆のような生臭さが微かに漂っていた。
「血の匂い……」
この霧には、ただの湿気とは違う、鉄のような臭いが混じっている。血の気配だ。
異変に気づいたのか、シャロンも馬を引き、霧の奥へと鋭い視線を向けた。
銀の仮面の奥から覗く蒼氷の瞳が、一瞬、細められる。
「霧が異様に濃い……ただの天候の変化じゃない!!」
黒銀の甲冑に身を包んだシャロンの外套が、風に揺れた。
風が止み、霧が静かに渦を巻く。
そのとき──
低く、不気味な詠唱が響いた。
「これは……呪霧!」
晴明が低く呟いたと同時に、遠くから禍々しい言葉が流れてくる。
「──闇の帳は開かれり。影より生まれしものよ、主の敵を喰らえ」
霧の奥から、黒い影が音もなく飛来した!
「っ……!」
晴明のすぐ横を、無音の刃が掠める。
バサッ! と風を切る音とともに、漆黒の怪物が姿を現した。
──ナイトゴーント。
漆黒の翼を持つ影の怪物。目はなく、その身体は霧と同化するようにぼやけている。
「影に潜む……物理攻撃が通らないタイプか」
晴明は冷静に分析する。
「マルグリット様、お下がりください!」
シャロンがすかさず姫をかばう。
「きゃっ!」
マルグリットは深紅のドレスの裾を翻し、咄嗟に後退する。
だが、霧がさらに濃くなり、仲間たちの姿が次第に霞んでいった。
「駄目だ! これでは各個撃破される!」
シャロンはナイトゴーントの攻撃をかわしながら叫ぶ。
「セーメー、何か手はないのか!」
晴明は地面に手をかざし、静かに呟いた。
「──陰陽の理、五行の調和により、邪を封じる陣を描かん」
サラサラ……。
懐から取り出した呪筆が、地面に五芒星を描く。
その陣が淡い金色の光を放ち、森の霧に波紋のような揺らぎをもたらす。
「妖封結界・発動」
パァァァン!!
瞬間、霧が震え、ナイトゴーントたちの動きがピタリと止まった。
「シャロン様! 止まっている敵を切り刻んでください!!」
「影裂きの刃──!」
シャキィン!!
シャロンの剣が白銀の輝きを放ち、閃光のような剣筋が走る。
バシュッ!!
光を纏った刃がナイトゴーントの身体を両断し、霧の中へと消えていった。
「バカな……!」
森の奥から微かな声が響く。
木陰に紛れ、黒いフード付きの修道服をまとった男がいた。
──クリムゾン・オクスプリムの修道士、ノクス。
「ナイトゴーントが負けると……? 奴は、一体何者なんだ……?」
ノクスは晴明に脅威を感じながらも、すぐに気を取り直す。
「まあいい……チャンスはまだいくらでもある……」
そう呟き、彼は森の中へと姿を消していった。
スゥゥゥ……。
ノクスが去ると同時に、霧は急激に晴れ、残されたのは静寂だけだった。
「……黒幕がいましたね」
晴明が呟く。
「何者かが折ってきている、それも黒魔術を使う」
「追っ手ですか……まだ戦いは終わっていないということですね」
「ああ」
シャロンがうなずいた。
(しかし、この世界にも術を使う者がいるとは……これは油断できない)
その時、晴明の鼻がピクリと動く。
「……この臭いは、どこかで嗅いだことがある」
「……臭い?」
「いや、まだはっきりしません。ですが……」
晴明は懐から先ほど使用した呪筆を取り出した。
筆先には、黒い微粒子のようなものが付着していた。
(こ、これは……!)
眉がわずかに動く。
ただの呪霧ではない。この魔力には、別の存在が混ざっている──
「……急ぎましょう。まずはこの森を抜けることが第一です」
晴明はシャロンとマルグリットに向き直り、静かに言った。
「では、ロワールには立ち寄らず、このまま公都へ向かいましょう。よろしいですか、姫様?」
シャロンの問いに、マルグリットはうなずいた。
森は深く、霧が淡く漂い、木々の隙間から差し込む月光が幻想的な陰影を作り出していた。
葉擦れの音が静寂の中に微かに響き、時折、遠くで獣の咆哮がこだまする。
湿った土の臭いが鼻をくすぐり、森特有の甘く青臭い香りが辺りを包んでいた。
晴明たち三人は、慎重に森の中を進んでいた──
白銀のたてがみを持つシャロンの愛馬は、危険を察知してか鼻をひくつかせながらも、静かに歩を進めていた。
マルグリットはその馬に跨り、深い青のマントを羽織っていたが、わずかに疲労の色が表情に浮かんでいる。
一方、晴明とシャロンは、地面を踏みしめながら目を鋭く光らせていた。
やがて、晴明が鼻をクンクンと動かし、静かに周囲の空気を嗅ぎ取る。
「また臭いを嗅いでいるのか? 本当に変わったやつだな……」
シャロンが呆れたように言った。
「興味深い臭いがするんですが…。ただ、この森の空気は非常に澄んでいますね。敵の気配もありませんし、しばらくは安全でしょう」
晴明の真顔での発言に、マルグリットとシャロンは思わず苦笑した。
移動の途中、ふたりは晴明にエルムフィールド公国の現状を語った。
「私どもは、ある重要人物に会うため、国境の村を訪れていたのですが……不在だったため、引き返してきたのです。その帰路で、賊に襲われました」
「襲ってきたのは何者か、心当たりは?」
晴明の問いに、シャロンの表情が険しくなる。
「恐らく……クリムゾン・オクスプリムの連中だ」
「クリムゾン・オクスプリム?」
マルグリットが訝しげに眉をひそめる。
「ここ数年、この国で勢力を広げている新興宗教組織だ。
『世界は闇から生まれ、光は束の間の幻影に過ぎない』と主張し、再び闇が世界を覆う時、闇を受け入れた者だけが救済されると説いている。
そのために、現存する秩序を破壊し、混沌をもたらすことで世界の崩壊を促す……連中はそう考えているらしい」
「随分と極端な思想ですね」
晴明は苦笑しつつも、その目は鋭く輝いていた。
「彼らは黒魔術を操る。だが、先ほどの襲撃者たちは術を使わなかった。となると……ただの野盗か、あるいは金で雇われた者たちだろう」
「黒魔術とは、どのようなものなのですか?」
マルグリットの問いに、晴明は、少し考え込んでから答えた。
「私の国では、黒魔術の解釈は存在しませんので、推測jの域は出ませんが…」
晴明は、こう前置きをして話を続けた。
「黒魔術は、支配と欲望の魔術です。生贄を捧げ、闇の力を用いて己の願望を叶えるもの。
一方、私の使う陰陽道は、天候や星の運行、自然の力を利用して、世界のバランスを保つための術です。『陰と陽』という対極の力が調和し、最適な運命を導くもの。人を害するためでなく、導くための道です」
「なるほど……」
だが、その時──
晴明の鼻が再びピクリと動いた。
「……来ます」
シャロンが耳を澄ませるが、まだ何も聞こえない。
「セーメー、お前には何が分かる?」
「嗅覚が教えてくれます。……複数の騎馬隊です!」
その直後、馬蹄の音が地を揺らしながら森に響き渡った。
「姫様、お隠れください!」
シャロンが慌ててマルグリットを庇おうとした、その瞬間──
「マルグリット姫! シャロン様!」
響いたのは、どこか馴染みのある声。
「ニュイ!」
馬上の戦士が森の闇から姿を現す。
銀の鎧に身を包み、その顔は──人狼のような、狼そのものだった。
(オオカミだ……! オオカミが話している!!)
晴明は目を輝かせ、驚きに満ちた声を漏らす。
「ニュイ! お前たちも無事だったか?」
「ええ。賊どもは、我々の気配を察知すると尻尾を巻いて逃げ出しました」
「やはり、金で雇われた連中か」
「まあ、我々に勝とうなんて百年早いということですかね」
誇らしげに笑うニュイ。しかし次の瞬間、晴明がスッと彼の元へ歩み寄ると──
クンクン……と匂いを嗅ぎ出した。
「……獣の臭いがしませんね。むしろ、良い香りがします」
「そりゃあ、毎日風呂に入り、毛繕いもしてるし、香水もつけてるからな」
晴明は大きく頷いた。
「素晴らしい! このような狼の姿をした者に出会えるとは!」
「ははっ、珍しがられるとは思わなかったがな……。で、お前は誰だ??」
ニュイが警戒した目で尋ねる。
「この方は、セーメー様とおっしゃって、魔術師の方です」
マルグリットが晴明を紹介する。
「ま、魔術師だと!」
ニュイは胡散臭そうな顔をするが──
「早まるな。魔術師といっても味方だ。私と姫の窮地を救ってくれたんだ」
シャロンが慌てて弁明し、
「そうです。セーメー様は命の恩人なんです。ばかな真似はやめなさい!」
とマルグリットが厳しく告げると、ニュイたちはその場で膝をついた。
「知らぬこととは申せ、申し訳ありません。
姫様およびシャロン様の窮地を救っていただき、エルムフィールド公国全領民に代わり、心より御礼申し上げます。
申し遅れました。私はルシアン・ド・ラ・ニュイ、エルムフィールド公国副戦士長を務めております」
晴明は微笑みながら、軽くうなずいた。
「この世界には、他にも異形の者がいるのですか?」
「ああ。リザードマン、ドワーフ、エルフ……公都ルクセリオンに行けば、会えるぞ」
「ぜひ会いたいですね!」
晴明の目が好奇心に輝く。それを見て、ニュイは思わず苦笑した。
「それより、姫様。今後の進路ですが──」
ニュイの表情が引き締まる。
「ルクセリオンへ向かうには、二つのルートがあります。
一つはロワール城を通る開けた街道。見通しは良いが、敵に狙われやすい。
もう一つは……奈落の谷を越えるルートです」
「奈落の谷……」
シャロンとマルグリットの顔が厳しくなる。
「道幅は狭く、吊り橋も老朽化しているが、最短で辿り着ける」
シャロンが言葉を続けた。
「シャロン、どちらを選びますか?」
「……奈落の谷を越えたいと思います」
「わかりました。では、その道を進みましょう」
そして、一行は険しい道へと足を踏み入れた──。