プロローグ 異世界での始まり
春の陽射しが縁側を優しく包み、庭には紅白の梅が咲き誇っていた。
風がそよげば、花びらが舞い、白砂の上に儚く散る。
鶯の声が心地よく響き、春の香が、どこか夢のように漂っていた。
縁側に寝そべる少年――
若き陰陽師・安倍晴明は、ぼんやりと空を眺めていた。
純白の狩衣が春風にたなびき、陽光を受けて淡く輝く。
紫の袴はゆるやかに折り重なり、足元には朱の下駄が無造作に転がっている。
立烏帽子の下から覗く漆黒の長髪は、頬を撫で、額に柔らかな影を落とす。
涼しげな瞳には、倦怠の色。
その整った顔立ちには、どうしようもない退屈が見えた。
「……退屈だな」
陰陽寮の学びは、すでに極めた。
だが、若すぎるがゆえに実戦の依頼も来ない。
何も起きぬ日々こそ、晴明にとっての地獄だった。
(物の怪退治でもあれば、少しは暇潰しになるのに……)
――その時。
彼の鼻が、ふいにピクリと動いた。
(……この匂い、初めてだ)
晴明の嗅覚は、常人の域を遥かに超えていた。
毒も邪気も、相手の“本質”すら嗅ぎ取ることができる。
視線を横に向けたその先。
縁側の柱に、黄金の甲虫がいた。
陽光を浴びて輝くその甲虫は、まるで琥珀に閉じ込められた宝石のように美しかった。
「……美しい」
思わず、手を伸ばす。
その瞬間――
ピカッ!!
「っ――!?」
甲虫が閃光を放った。
視界が真っ白に染まり、世界が軋むように歪んでいく。
鼓動が跳ね上がる。
そして――
――意識が、闇に落ちた。
*
「……こ、ここは……?」
薄暗い森。
湿った土の匂い。ひんやりと冷たい空気。
そして、どこか“異質”な気配が混じっている。
(京じゃない……ここは――)
見上げると、針葉樹が鬱蒼と空を覆っていた。
狩衣も烏帽子もそのまま。晴明は、冷静に周囲を見渡す。
(見たことのない草木……獣の臭いもする)
ドドドドドッ――!!
突如、地を叩く蹄の音が森に響いた。
騎馬と馬車が、木々の間から飛び出してくる!
「ノアール城までもう少しだ! 急げッ!」
白馬に跨った騎士が叫んだ。
銀と黒の甲冑を纏い、漆黒のマントを翻す。顔には銀の仮面――
ティボー・ド・シャロンだ。
「俺たちが食い止める! シャロン様は姫を守って!」
「ニュイ……! 死ぬなよ!」
巨体の騎士・ニュイが部下を率い、敵の方向へ駆け戻っていく。
シャロンたちは馬車を護りながら、疾走を続けた――が。
ヒュッ……ドシュッ!
「ッ!?」
矢が馬の首を貫いた!
馬が悲鳴を上げて崩れ、馬車が横転――
「姫様ァ!!」
シャロンが跳び降りて駆け寄ると、茂みから現れる黒装束の集団――野盗だ!
「捕まえたぞ!」
「姫は生け捕りだ! 他は殺せッ!!」
シャキィン!!
シャロンが剣を抜き、陽光が鋼を弾いた。
「貴様ら、通れると思うなよッ!」
ガキンッ!
剣を弾き、鋭く薙ぎ払う。
鮮血が飛び、敵が倒れる。
「風斬りッ!!」
――ビュオッ!!
風すら切り裂く一閃。
空気が裂け、野盗たちの腹が同時に割けて倒れていく。
(……只者ではないな)
晴明は木陰から様子を見ていた。
だが――
ビュッ……シュン!!
無数の矢がシャロンに向かって放たれた!
(――間に合わない!)
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前――結界、発動!!」
光の五芒星が宙に煌めき、突如、目に見えぬ障壁が矢を弾いた!
「な、何だと!?」
戦場が一瞬、静まり返る。
騎士も盗賊も、そしてシャロンも――呆然とその姿を見ていた。
白の狩衣。紫の袴。漆黒の長髪を束ねた少年。
その瞳が、夜の中で静かに光る。
「……行けッ!! 鎌鼬!!」
晴明が紙人形に息を吹きかけた瞬間、
蒼白の光を帯び、紙が三匹の鎌鼬へと変貌する!
ザシュッ! ギャァッ!!
風のような速さで敵陣を駆け抜け、喉を、首を――裂く!
「ひ、ひぃ……っ!」
最後に残った首領も、鎌鼬の一閃に倒れた――
全てが終わった時、
シャロンは呆然と、ただ一人の少年を見つめていた。
「お怪我はありませんか?」
静かに歩み寄る晴明。
月光が、彼を幻想のように照らしていた。
「……な、何者だ?」
シャロンが剣を構えたまま、晴明を睨みつける。
その銀の瞳には、警戒と――揺らぎが混ざっていた。
だが、晴明は一歩も引かない。
その双眸は、まるで“すべてを見透かす”かのように、静かに光っている。
「私は、ただの旅の者です」
穏やかな口調。
だが、その声には、どこか“余裕”があった。
(――言葉が通じる。この国、まさか……日本?)
「そこを動くな」
シャロンが声を荒げる。
剣先が、ぴたりと晴明の喉元へと突きつけられた。
だが――
晴明は、一切動じない。
むしろ、彼の脳裏には、シャロンという存在への“疑念”が芽生えていた。
(……ただの剣士じゃない。気配が、尋常じゃない。構えにも迷いがない……王族か、それに近い立場の者だ)
けれど、今はそれを問いただす時ではない。
「安倍晴明と申します」
ゆるやかに名乗るその声音は、夜風に溶けるように柔らかかった。
「怪しい者ではありません。強いて言うなら、そうですね……旅の者とでも」
晴明はにこりと微笑む。
その笑みは、挑発ではなく、武器を持たない者の“最善の盾”。
「旅行者だと? その妙な服……頭の飾りも、見たことがない……」
シャロンの瞳が、晴明の衣装をじっと観察する。
白の狩衣に紫の袴。立烏帽子――この世界では、まるで異邦人そのもの。
「前にいた世界から、突然ここに来たようで……。私にも、理由は分かりません」
「ふざけるな。なら、どうやってここに来た?」
「それも……記憶にないのです。ただ、気がつけば森の中にいて、あなた方に出会った。それだけです」
「……じゃあ、さっきの魔法は?」
シャロンの声が鋭くなる。
剣先は、なおも晴明の喉元を狙っていた。
「魔法……という言葉は、私には馴染みがありませんが――あれは“術”です。矢を防いだ結界も、鎌鼬も、すべて私の術法によるもの」
「ジュツ? カマ……イタチ?」
「意味は通じなくとも、あなたが言う“魔術師”に近い存在だと理解しています」
「……なら、納得だ」
シャロンの剣が、ようやく少し下がる。
警戒は解けていないが、明らかに晴明の“殺気のなさ”が影響していた。
(よし、少しは信用してもらえたな)
「ところで――馬車の中のお方、大丈夫でしょうか?」
晴明がふと視線を向けると、シャロンはハッとしたように振り返り、駆け出す。
「姫様! マルグリット様ッ!!」
――ギィィ……
馬車の扉が、軋む音とともに開いた。
現れたのは――
深紅のドレス。金の刺繍が施されたマント。
炎のように燃える赤髪と、宝石のような蒼い瞳。
透き通るような白い肌。
そこに立っていたのは――この国の王女。
マルグリット・フォン・ローゼンベルク。
「……シャロン」
その声は清らかで、美しく。
同時に、背筋を正さずにはいられない威厳を纏っていた。
(――この姫、只者じゃない)
晴明の直感が告げる。
この娘は、ただの王族ではない。なにか、“強さ”を持っている。
「お怪我はありませんか?」
「命に別状はありません……馬車が倒れた時に少し腰を打ったようで……」
姫は顔をしかめるが、立ち上がれないほどの痛みらしい。
晴明は、そっと彼女へと歩み寄る。
「な、何をする気だ!?」
シャロンが再び剣を抜く――が、晴明は構わず、マルグリットに手をかざす。
「蘇れ」
――ぽうっ……。
柔らかな光が晴明の掌から溢れ、姫の腰を包み込む。
その温もりは、まるで春風のように優しく、穏やかで――
「……痛みが……消えていく……」
癒しの術。
それは確かに、晴明が“本物”である証だった。
シャロンが、そっと剣を下ろす。
「やはり、お前は……只者ではないな」
「傷を癒すのも、私の国では陰陽師の仕事の一つです」
マルグリットは、ゆっくりと馬車から降り、晴明に深く頭を下げた。
「ありがとうございました。助けていただき、心より感謝します」
「私はこの地を治めるエルムフィールド公国王女、マルグリット・フォン・ローゼンベルク。こちらは近衛隊長の聖騎士――ティボー・ド・シャロン」
「私は安倍晴明。異国より、偶然この地に現れた者です。どうぞ、晴明とお呼びください」
「アベノ……セーメー? オンミョウ……?」
「陰陽師とは、そちらの言う魔法使いのような者だと思っていただければ」
(……やはり、別の世界か。だが言葉が通じる以上、何か繋がりがあるはず)
マルグリットは小さく頷き、晴明へ改めて礼を述べた。
「それはさておき……姫、早くこの場を離れ、ルクセリオンを目指しましょう」
「……ええ。父上へ報告せねばなりません」
「だが……生き残っているのは、私一人……この先の危険を思えば……」
「――でしたら、セーメー様にもご同行いただくのはどうでしょう?」
シャロンが驚いたように目を見開く。
「連れていくのですか? この者を?」
晴明は、ふっと微笑んだ。
「構いませんよ。じっとしているよりは、この世界のことを知りたい。ご迷惑でなければ、ぜひ」
「……わかりました。では、セーメー様。同行を許します。よろしくお願いします」
「……は、はい……」
渋々ながらも、シャロンが了承したその時――
晴明は、ゆるやかに、にこりと笑みを浮かべた。
(さて、どんな世界か……少しは、退屈しなさそうだな)