9 紅葉の庭での謎の転落死 『後宮の名探偵・太后様の暇つぶし』
『後宮の名探偵・太后様の暇つぶし』
### 紅葉の庭での謎の転落死
蘭明蕙は、紫霄宮の奥深くにある静かな茶室で、優雅に茶を啜っていた。目の前には、秋の紅葉を象った精緻な菓子が並べられている。けれど、その表情はどこか退屈そうだった。
「はぁ……」
と、大きなため息。
「おや、母上。ため息などついていると皺が増えますよ」
蘭珀然が、隣で茶を啜りながら軽口を叩く。彼は相変わらず端正な顔立ちで、落ち着いた佇まいを崩さない。
「皺など恐れるものではないわ。それよりも暇なのよ、暇。後宮という場所はどうしてこうも退屈なのかしら。何か面白いことはないの?」
「後宮の安寧を望んでいたのは母上でしょうに。平穏無事が続くのは良いことですよ」
「平穏は大切。でも退屈は別問題よ。せめて何か推理でもして暇を潰せたらいいのだけれど……」
「まるで事件が起こるのを待っているような言い草ですね」
「だって、本当に暇なのよ」
蘭明蕙はゆったりとした姿勢で椅子にもたれ、湯気の立つ茶碗を手にしていた。
「はぁ……退屈ねぇ。後宮には揉め事が尽きないというのに、私のところには何の騒ぎも持ち込まれない。つまらないったらないわ」
蘭珀然が苦笑しながら返す。彼は茶を一口飲み、ため息混じりに続けた。
「母上がそんなことを言うと、まるで後宮が穏やかであることが不自然みたいですよ」
「不自然でしょう?」蘭明蕙は目を細める。「何事もなさすぎるのは、逆に不穏だわ。嵐の前の静けさというものよ」
「つまり、暇すぎて何か事件が起きてほしいと?」
「そうねぇ……まあ、ちょっとした謎解きくらいなら楽しめるかしら」
「後宮は母上の娯楽の場ではありませんよ」蘭珀然は呆れたように肩をすくめる。
「…………はあ〜」
蘭明蕙は茶をすすりながら、またいつものようにため息をついた。
隣に座る蘭珀然が、茶菓子をつまみながら続ける。
「母上ほど“暇”を嘆く太后は他にいないでしょう。むしろ平和で何よりでは?」
「何を言ってるの。せめてもう少し刺激がほしいわ」
「では、影衛司に頼んで何か騒動でも起こしてもらいましょうか?」
「それは面倒だからいいわ」
蘭明蕙が再びため息をついたその時、茶室の外で慌ただしい足音が聞こえた。柳青荷が息を切らしながら駆け込んでくる。
「太后様、大変です!」
「やった! 面白いことが起こったわ」
蘭明蕙は微笑を浮かべながら、優雅に茶を啜る。
「で、何が起こったの?」
「楊淑妃が翠竹庭の紅葉の橋から転落して亡くなりました!」
「ほう」
蘭珀然が静かに茶を置く。
「転落死、ですか」
「ええ。目撃者によると、淑妃様は橋の欄干にもたれかかった途端、突然その欄干が崩れてしまったそうです。淑妃様は、そのまま下の岩場に……」
蘭明蕙は、じっと茶碗の中の茶葉を見つめる。
「事故かしら?」
「それが……どうも不自然なのです。橋の欄干が、そんなに簡単に崩れるものでしょうか?」
「ほら、事件じゃない!」
蘭明蕙の顔がぱっと明るくなる。
「本当に嬉しそうですね、母上」
蘭珀然が呆れたように肩をすくめる。
「だって、ようやく退屈しのぎができたわ。さあ、青荷、準備なさい。現場を見に行くわよ」
「はい!」
蘭明蕙は軽やかに立ち上がると、悠然とした足取りで侍女の柳青荷に声をかけた。
「ようやく退屈しのぎが見つかったと?」
蘭珀然が呆れたように言うと、蘭明蕙は扇で口元を隠しながらにっこり笑った。
「まさか。私はただ、後宮の平穏を守りたいだけよ♪」
「その割には随分と楽しそうですけどね」
蘭珀然がぼそりと呟くが、蘭明蕙は聞こえなかったふりをして、さっさと歩き出した。
柳青荷はそんな二人を見て小さく笑いながら後に続く。
蘭明蕙と蘭珀然が庭園の紅葉橋へと向かう途中、現場の騒ぎを聞きつけた侍女や女官たちが次第に増えていった。
「まあ、蘭公子がいらっしゃるわ!」
「相変わらずお美しい……!」
「まるで玉樹のごときお姿……!」
ひそひそと囁く声が周囲に広がり、ちらちらと蘭珀然へ視線を送る女官たち。その頬を赤らめながら見つめる者もいれば、袖の陰でこっそりと囁き合う者もいた。
「……母上、どうやら私は観賞用の置物と化しているようですが?」
「美しいものは人を魅了するものよ。受け入れなさいな」
「別に私は美を売りにしているわけでは……」
蘭珀然が渋い顔をして嘆息すると、蘭明蕙は楽しげに微笑んだ。
「美貌も才のうちよ。珀然、お前はもっと己の魅力を理解すべきね」
「そういう母上は、いつも気にしていないように見えますが?」
「ええ、私はほら、こう見えても『暇』なのよ」
そう言って涼しい顔で扇を広げる蘭明蕙に、蘭珀然は呆れたように肩をすくめた。そんなやりとりをする間に、彼らは現場の紅葉橋へとたどり着いた。
橋の上ではすでに侍衛たちが現場を封鎖し、周囲には騒然とした雰囲気が広がっていた。
「お静かに!」
柳青荷が鋭い声で制すると、女官たちは驚いたように口を閉ざした。その間を縫うようにして蘭明蕙たちは転落現場へと進む。
庭の中央には大きな赤い橋があり、その下の石畳に、妃の遺体が横たわっていた。顔はすでに白布で覆われているが、周囲には血の跡が広がっている。
「ふむ、なるほどね」
蘭明蕙は扇を広げ、橋の欄干に目をやった。
「橋の上から転落した、ということですか」
蘭珀然が欄干に手を触れようとすると、柳青荷が慌てて止めた。
「お待ちください。証拠を汚す可能性があります」
「おや、それは失礼」
蘭珀然は苦笑しながら手を引っ込めた。
「では、まずは証言を集めるとしましょう」
蘭明蕙が指を軽く鳴らすと、柳青荷が頷き、現場にいた女官たちの元へ向かった。
「さて、真相を探るとするか。ウフフ……」
太后は、亡くなった楊淑妃の遺体を見下ろす。
「ふむ……これはただの転落事故とは思えないわね」
蘭珀然は橋の欄干に手を触れ、軽く叩く。「ここ、変だな……」
「変?」明蕙が眉をひそめる。
珀然は欄干をさすりながら、「まるで細工されたような感触がある。ほら、この部分だけ妙に滑らかだし、さっきから木目の方向が違って見えるんだ」
柳青荷は息を呑み、そっと囁いた。「では……これは事故ではなく……?」
その場にいた全員が息を詰める。まさか、本当に……?
その時、突然、明蕙が橋の欄干を思いっきり叩いた。バシッ!
「きゃあ!」青荷が飛び上がる。
「よし、わかったわ!」明蕙が得意げに頷く。「これは仕掛けね!」
「母上……まずは私が驚かないように叩いてくれ……」珀然が肩をすくめる。
こうして、事件は事故ではなく何者かの手による可能性が濃厚となった。しかし、この仕掛けを作ったのは誰なのか? 目的は何なのか?
明蕙は欄干をじっと見つめながら呟いた。「さて、ここからが本番ね……」