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73   奏でられる死の楽器 「後宮の名探偵・大后様の暇つぶし」 

 紫霄宮の中庭は、穏やかな午後の光に包まれていた。色とりどりの花々が咲き誇り、心地よい風が吹き抜ける中、蕭紅梅しょうこうばいは白磁のような指先で、優雅に琴の弦をはじいていた。


 その音色はまるで春の小川のせせらぎのように柔らかく、聴く者の心をすっと洗うようだった。


「……まるで夢を見ているようね」

 大后・蘭明蕙らんめいけいは、金糸の扇子を膝に置き、ほうっと息を吐いた。


「本当にお美しい音色です、大后様。妃様のご演奏は、まるで仙界の楽にございます」

 側にいた侍女が、うっとりとした声で応える。


「うふふ、蕭紅梅……やはりあなたは、この紫霄宮の宝だわ」

 明蕙が微笑みながら目を細めると、演奏中の紅梅がそっと顔を上げ、恥じらうように微笑んだ。


「身に余るお言葉にございます、大后様。私はただ、皆様の心が和らげばと――」


 その言葉を言い終える前に、紅梅の指が弦の上でふと止まった。


「……あれ?」


 紅梅の視線が揺れる。指先に違和感を覚えたのか、一瞬弦を見下ろすが、すぐに再び微笑みを作り、演奏を再開しようとした――


 だが、次の瞬間。


 彼女の肩が小さく震え、そのまま力を失ったように、音もなく琴の前に崩れ落ちた。


「妃様!?」


「ひ、妃様!? どうなさったのですか!?」


 一斉に上がる悲鳴と驚きの声。侍女たちが駆け寄り、彼女の体を抱き起こそうとするが、紅梅は目を閉じたまま、全く反応がない。


「医官を! 急いで医官を呼びなさい!」

 明蕙の声が鋭く響く。だがその裏には、明らかな動揺があった。


「かしこまりました、大后様!」

 侍女が裾を翻し、駆け出していく。


 明蕙は慌てる周囲を制しながら、自らも紅梅に近づいた。


「紅梅……聞こえる? しっかりなさい。目を開けて……!」


 その声にも反応はない。明蕙は唇をかみ、胸の奥に冷たい不安が広がるのを感じた。


 ほどなくして、二人の医官が息を切らせて駆けつけた。


「失礼いたします! すぐに診させていただきます!」


 一人が脈を取り、もう一人が細やかに紅梅の体を調べていく。中庭に緊張が走る。


「……脈はあります。ですが非常に浅い。これは――」


 医官が言いかけたとき、もう一人がふいに紅梅の右手を取り、指先を見つめた。


「おや……この傷は……」


「傷?」


 明蕙が即座に反応し、膝をついて身を乗り出す。


「どこに?」


「こちらです、大后様。右手の人差し指の内側に、細い裂傷のようなものがございます。琴の弦に触れた際にできた可能性がございますが……」


「それだけで、彼女が倒れるものなの?」


「通常ならば、ありえません。ですが――」


 医官はふと黙り込み、紅梅の手元にあった琴の弦に目を向ける。


「……まさか。弦に……薬が?」


「薬!?」


 侍女たちがざわめく。明蕙の瞳に鋭い光が宿った。


「つまり、弦に塗られていた毒が、指の傷から……?」


「その可能性もございます。今すぐ詳細な調べを――」


「よいわ。紫霄宮の出入り、物品、食事すべてを調べなさい。誰にも口外させずに。これは――明らかに、意図されたものです」

 明蕙の声が凛と響く。その瞳には、皇后としての気迫があった。


「紅梅……必ず助けてみせるわ。あなたの演奏はまだ、終わっていないのだから」





 蕭紅梅が崩れ落ちた瞬間、紫霄宮の中庭は静寂を破るような悲鳴と共に、一瞬で緊迫した空気に包まれた。


「妃様!?」「どうされたの!?」


 侍女たちは慌てて駆け寄り、紅梅の体を支える。だが彼女はぐったりと力を失い、まるで眠るように目を閉じたままだ。


「な……何が起きたの……?」

「急に倒れるなんて……まさか持病でも?」


 周囲の者たちは不安げに顔を見合わせ、動揺を隠せない。


 そんな中、大后・蘭明蕙は扇子を静かに閉じ、ゆっくりと立ち上がった。騒然とする周囲を一瞥し、唇の端にわずかな笑みを浮かべる。


「……つまらないわ。何か事件でも起きないかしらって思ってたところなのよね」


 誰にも聞こえないような声でそう呟きながら、彼女は紅梅の元へと優雅に歩を進めた。


「大后様、ただいま医官を――!」


「もう向かっているでしょう? 慌てることはないわ。彼女は、まだ息をしている」


 その冷静な声音に、侍女たちははっと息を呑み、騒ぎを抑えるように口をつぐんだ。


 ほどなくして、二人の医官が急ぎ足で現れ、すぐさま紅梅の容体を調べ始める。


「脈を確認します。……浅いが、確かに動いています」

「瞳孔反応も……やや鈍いか。これは――」


 明蕙は彼らの様子を見守りながら、ふと紅梅の右手に目を留めた。細く白い指先に、赤黒い点のような傷がある。


「その指……傷があるようね。何か分かるかしら?」


 彼女が声をかけると、一人の医官が頷き、顔をしかめた。


「はい、大后様。人差し指の内側に、小さな裂傷がございます。おそらく琴の弦によるものでしょう」


「琴の弦……」

 明蕙は軽く首を傾げると、すぐに目を細めて続けた。


「その傷から、何か異常な成分が検出される可能性は?」


「はい。皮膚の浅い部分にできた傷ですが、もし弦に毒などが塗られていたとすれば、十分に体内へ侵入し得ます」


「……面白くなってきたわね」

 明蕙は小さく笑い、だがその眼差しは鋭く光る。


「蕭紅梅が使用していた琴をすぐに調べて。弦に触れるなと言っておきなさい。何か痕跡が残っているかもしれない」


「承知しました!」


 医官たちは急いで琴へと向かい、慎重に調査を始めた。


 明蕙は周囲の侍女たちを見渡し、やや声を落として言った。


「誰かが、彼女を狙った可能性もあるわ。この琴は紅梅専用のもの。簡単に他人の手が入るような代物ではないでしょう?」


「ま、まさか……」

「犯人が、内部に……?」


 侍女たちの顔が青ざめる。だが明蕙は微笑を浮かべながら、優雅に扇子を広げた。


「怯えることはないわ。今からこの宮のすべてを、私が調べ尽くすまでよ」


「大后様……」


「大丈夫。紅梅は死なせない。彼女の音は、まだ終わっていないもの」


 その声には、平静な表情に隠された覚悟と、揺るぎない支配者の威厳が滲んでいた。




 明蕙は、崩れ落ちた蕭紅梅の手を取ると、じっとその指先にできた小さな傷を見つめた。

 長く白い指に刻まれた赤い裂傷。そのわずかな異変が、彼女の思考に火をつける。


「……この傷、偶然できたとは思えないわね」


 低く、だがはっきりとした声で呟くと、その場にいた者たちは息を呑んで明蕙を見つめた。


「え……どういうことでしょう、大后様」


 侍女のひとりが恐る恐る問いかける。


「見て。この位置と深さ……琴の弦に触れてできたとしても、不自然に見える。むしろ“わざと”作られたように思えるのよ」


 明蕙はそう言って紅梅の指を軽く示した。周囲にいた者たちは顔を見合わせ、ざわめく。


「つまり……誰かが意図的に?」


「その可能性が高いわね」


 明蕙の目が鋭く光った。


「紅梅が使っていた琴、その弦に何かが塗られていたと考えるのが自然よ。もし毒なら――彼女は演奏と同時に、攻撃を受けたことになる」


「な、なんということ……!」


 侍女たちの間に、動揺と恐怖が広がっていく。


「落ち着きなさい」

 明蕙はぴしゃりと声を放つ。「恐れてばかりいても、真実は見えてこないわ。今、必要なのは“知る”こと」


 すぐに医官のひとりが進み出て、頭を下げた。


「大后様、琴のもとへ参ります。何か残留物があれば――」


「待って。琴の弦、特に紅梅が最後に触れた箇所を重点的に調べて。細心の注意を払って扱うよう命じなさい」


「はっ!」


 医官たちはすぐに指示通り動き出す。明蕙もその後を追い、弦に残る“何か”を自らの目で確認しようとしていた。


 やがて、琴の前に膝をついた医官が、目を凝らしながら声を上げた。


「……これは。大后様、ご覧ください。弦の一部に黒い粉のようなものが付着しております」


 明蕙はそっと顔を近づけると、粉に目を凝らす。


「……たしかに、油分を含んでいるような質感ね。薬剤……あるいは毒物の可能性が高いわ」


 医官は慎重に指先で粉をつまみ、試験用の小瓶に収める。


「すぐに成分を分析いたします。詳しい結果は、数刻いただければ――」


「お願いするわ」

 明蕙は頷き、再び侍女たちの方へ向き直った。


「皆、心して聞きなさい。これは偶然ではない。蕭紅梅を狙った者が、宮中にいるということ。そして、その者はこの琴に細工を施す時間と機会を持っていた」


「大后様、ではその“者”は……」


「誰かはまだ分からない。でも――」


 明蕙の目が、静かに周囲を見渡す。


「この粉の正体が分かれば、真実も動き出すはず。私たちがやるべきことは、恐れずに一歩ずつ手がかりを積み重ねることよ」


 沈黙のなかに、彼女の言葉が静かに響いた。

 その確信に満ちた眼差しに、侍女も医官たちも、どこか救われるような思いを抱いていた。




 ⸻


 医官たちが琴の弦の調査を進める中、明蕙はふと視線を外し、周囲に目を向けた。

 侍女たちは硬直したまま立ち尽くし、女官たちの間にも緊張が走っている。――だが、その中に微かに目を逸らす者がいた。


(あの目……何かを知っている? それとも後ろ暗いことがある?)


 明蕙の心に、ひとつの名前が浮かんだ。魏紫音。蕭紅梅と同じく、才色兼備で知られる貴妃。だが、彼女には一つ、見過ごせない特徴がある。


「――魏紫音の名が思い当たるわね」


 ぽつりと呟いた声に、近くの侍女が顔を強張らせた。


「だ、大后様……魏貴妃様が、何か……?」


 明蕙は一歩前に出て、厳しい目で全員を見渡す。


「魏紫音は、紅梅の才能を快く思っていなかった。ここ数か月、何度も演奏の場で意地の悪い視線を送っていたのを見たことがある者もいるはずよ」


「……わ、私……確かに、以前にお二人が言い争っているのを……」


 別の女官がおずおずと名乗り出た。


「何の件だったか、詳しく言いなさい」


「はい。春の宴の前、蕭紅梅様が新しい曲を献上する話を聞いて、魏貴妃様が『くだらない遊戯で宮中の寵を集めようとしているのね』と……」


「――それで、紅梅は?」


「何も言い返さず、ただ微笑んでおられました」


 明蕙は静かに息をつく。


「紅梅は、争いを望まぬ人。だが、魏紫音は――」


 言葉を切ると、彼女は鋭い目つきで側近のひとりに命じた。


「魏紫音の過去の記録を洗って。毒薬に関する知識があるはず。確か、数年前に“紅花香”を調合して、他の妃に誤って体調不良を起こさせた前歴がある」


「はい、すぐに調べさせます!」


 明蕙は頷き、さらに続けた。


「そして――彼女の動向を監視して。ここ三日以内に誰と接触したか、私室に出入りした者は誰か、すべて記録して報告するように」


「大后様……そこまでなさるおつもりですか?」


 若い侍女が、どこか不安げに尋ねた。だが、明蕙の声には一片の迷いもなかった。


「これは“内輪の嫉妬”で済まされることではない。紅梅の命がかかっているのよ。誰かが、彼女の指先に細工された琴弦を触れさせたのなら、それは計画的な犯行」


「……魏貴妃様が黒幕である可能性、否定はできません」


 老医官の一人が重々しく頷いた。


 明蕙は静かに言った。


「真実を知るためなら、どんな不興も買う覚悟はできているわ。私は“後宮の均衡”ではなく、“命の重み”を選ぶ」


 その言葉に、沈んでいた空気が少しずつ張り詰めていく。誰もが、明蕙の眼差しに圧倒されていた。


 ――こうして、蕭紅梅を救うための調査が新たな段階へと進み始めた。




 魏紫音の動向を監視せよ――そう指示を出した矢先、急報が飛び込んできた。


「大后様! 中庭で女官がひとり、突然倒れました! 状況が、蕭紅梅様のときと酷似しております!」


 報せを受けた瞬間、明蕙の表情がこわばった。


「また……?」


 唇から漏れた言葉はほとんど祈りのようだった。だが、すぐに表情を引き締める。


「次の犠牲者が出る前に、手を打たなければ……」


 彼女は裾を払って立ち上がり、即座に中庭へと足を向けた。


 * * *


 中庭では、若い女官が倒れたまま苦しげに息をしており、数名の侍女と医官が周囲を囲んでいた。彼女の額には冷や汗がにじみ、唇は青ざめている。


「毒の症状だわ……蕭紅梅と同じ」


 明蕙はすぐさま医官のひとりに近づいた。


「状況を報告しなさい。発見されたときの状態は?」


「はい、大后様。彼女は、午前中に楽器の保管室で清掃をしていたと聞いております。その後、水を取りに来たところで倒れ……」


「……楽器の保管室? それは琴が置かれていた部屋と同じか?」


 医官が頷く。「はい、まさにその部屋です」


「――彼女も、琴の弦に触れた可能性があるわね」


 明蕙は女官の手元に目をやり、すぐさま問いかけた。


「指先を見せなさい。傷があるかどうか、確認するわ」


 医官が手をとって慎重に調べると、小さな赤い傷が一本の指に見つかった。


「傷があります……微細なものですが、そこから毒が入ったと考えられます」


「やはり」


 明蕙は目を細め、低く呟いた。


「この毒は、皮膚から侵入するタイプ……ならば、意図的に弦に塗られたものに間違いない」


 その場にいた侍女のひとりが、おそるおそる口を開いた。


「だ、大后様……これは、まさか魏貴妃様が……?」


 その名に場の空気が張り詰める。だが、明蕙は揺るがぬ声で答えた。


「可能性は高い。蕭紅梅を妬む理由もあり、毒に通じている。今、偶然だと思うには無理がある」


 彼女は侍従に向き直る。


「すぐに魏紫音を呼びなさい。言い訳の余地を与えぬように、静かに、だが確実に」


「はっ!」


「それと、彼女の私室の中を調べる準備も。毒草や薬壺、怪しい調合道具がないか確かめて。証拠が必要よ。行動を急いで」


 明蕙は深く息を吸い込み、己の震える心を押さえ込んだ。


「――これ以上、誰も死なせるわけにはいかない」


 彼女の目はすでに戦う者のそれだった。疑惑の中心にいる魏紫音との対峙は、もはや避けられない。





 夜も更け、月の光がわずかに差し込む宮中の奥庭。人気のない石畳を、明蕙と陳星河の二人が静かに踏みしめていた。足音を消すように進むその目は、ただひとつの場所を見据えている。


「本当にここで間違いないのか?」陳星河が囁いた。


「青荷の報告に間違いはないわ。魏紫音が密会していたのは、この庭園の奥……普段は誰も近づかない場所よ」明蕙は小声で答えたが、その声には確かな決意がこもっていた。


 やがて、草木の陰から人の気配がした。ひそひそと交わされる声――その中に、聞き覚えのある女の声が混じる。


「……明日の午刻、また薬を仕込めばいいわ。あの女官の様子からして、効果は確かよ」


「でも、もう二人も倒れているのです。これ以上は……」


「心配ないわ。明蕙さえ出過ぎた真似をしなければ、誰にも疑われはしない」


 明蕙は耳を澄ませ、手を握りしめた。声の主はやはり――魏紫音。彼女の周囲には数人の側室たちが集まっている。皆、緊張した表情で魏紫音の言葉に頷いていた。


「……聞いたな?」明蕙が陳星河に目を向けると、彼も無言で頷く。


「今が……好機だ」


 明蕙は一歩、堂々と足を踏み出した。


「魏紫音!」


 鋭い声が庭園に響いた。その瞬間、女たちは一斉に振り返り、凍りついたように動きを止める。魏紫音の表情は、一瞬にして驚愕から冷酷へと変わった。


「……明蕙? こんな時間に、こんな場所で……何のつもりかしら?」


「とぼけないで。あなたが何をしていたか、すべて聞かせてもらうわ」明蕙は一歩前へ出た。「蕭紅梅に毒を盛ったのは、あなたでしょう?」


「証拠はあるの?」魏紫音は薄笑いを浮かべた。「単なる嫉妬で私を陥れる気じゃないでしょうね?」


「証拠なら、すでに薬師・方慧仙に渡してあるわ。あなたの部屋から見つかった小瓶――そこに残っていた成分は、倒れた女官たちと同じ毒よ」


 魏紫音の表情がわずかに歪む。


「くだらない。そんなもの、誰でも仕込めるじゃない」


「では、今あなたが言った“明日また仕込めばいい”という発言は、どう説明するつもり?」


 魏紫音ははっとし、顔を強張らせた。他の側室たちもざわめき、視線を交わす。


「聞いていたの?……まさか……最初から、罠だったのね」


 魏紫音の目に怒りが宿り、次の瞬間、身を翻して走り出した。


「逃がさない!」明蕙は叫び、すぐにその後を追った。


「陳星河、庭の出口を抑えて!」


「任せろ!」


 二人は草木の間を駆け抜け、魏紫音を追い詰めていく。魏紫音は必死に逃げる。


 明蕙と陳星河は、魏紫音の背を追って後宮の庭園を駆け抜けていた。かつては静謐な美しさを誇っていたその場所も、今は緊迫した空気に包まれている。


「速い……!でも逃がさない!」

 明蕙は荒く息をつきながら、視線の先の魏紫音を睨みつけた。


「明蕙、もう少しで追いつく!」

 陳星河が背後から声をかける。彼の額にも汗が滲んでいた。


 魏紫音は草木の間をすり抜けながら、振り返って叫んだ。

「なぜそこまでして私を追うの!? 私が何をしたっていうの!」


「まだわからないの?」

 明蕙の声は鋭く響く。

「蕭紅梅を毒殺しようとしたのは、あなたと他の側室たちの共謀によるもの。それが真実よ!」


「証拠なんて、あるはずが——!」


「あるのよ、小瓶の中身は方慧仙がすべて解明した。あなたの部屋から出てきた毒の痕跡まで、ね」


 魏紫音の顔が凍りついたように歪む。

「そんな……そんなはずない……私の計画は、完璧だったのに……!」


 そのとき、明蕙は魏紫音の足取りが一瞬鈍ったのを見逃さなかった。

「星河、左の道へ回って!挟み撃ちにする!」


「了解!」

 陳星河は素早く分かれ道を走っていった。


 魏紫音は咄嗟に左に曲がったが、その先で待ち構えていたのは——


「魏紫音、観念しなさい」

 低く冷ややかな声と共に、数人の影衛司が姿を現した。すでに彼女の逃げ道は塞がれていた。


「くっ……っ、やめて! 来ないで……!」

 魏紫音は後ずさりしながらも、必死に叫んだ。


「もう終わったのよ」

 明蕙がゆっくりと歩み寄る。

「あなたがどんな理由で紅梅を狙ったとしても、罪は罪。命を弄ぶ代償は、逃れられない」


「紅梅ばかり……! 皇帝のお気に入りになって、私たちの存在なんて見向きもしない……!」

 魏紫音の目には怒りと悲哀が交錯していた。

「だから、あの子さえ……いなければ……!」


「その嫉妬が、命を奪う行為に繋がったのなら、やはり許されない」

 陳星河が冷静に告げる。


 影衛司の一人が魏紫音の腕を取ると、彼女はもう抵抗する気力すらなかった。

「私が……負けるなんて……」


「あなたが撒いた種よ」

 明蕙は淡々と告げると、魏紫音が連行されていくのを見届けた。


 静寂が戻った庭園で、明蕙はそっと息をついた。

「……終わったわね」


「まだすべてじゃないさ。紅梅殿の潔白を、正式に証明しなきゃ」

 陳星河が言うと、明蕙は頷いた。


「ええ。でも……これでようやく、光が差し始める気がするの。紅梅を救うためにも、私たちは前に進まなくては」


 空を見上げた明蕙の目に、わずかに涙が滲んでいた。それは、長い闘いの末に見えた希望の光に対する、安堵の涙だった。

 


 魏紫音の捕縛により、後宮を包んでいた不穏な空気はようやく晴れ、騒動は幕を下ろした。

 蕭紅梅も、薬と静養によって少しずつ回復の兆しを見せていた。


「明蕙……来てくれたのね」

 病室の寝台に横たわる蕭紅梅が、弱々しくも穏やかに笑う。頬にはまだ疲れの色が残っていたが、その瞳には安堵が浮かんでいた。


「紅梅……!」

 明蕙は椅子を引き寄せると、そっと蕭紅梅の手を握った。

「こうしてまた、あなたの声が聞けて本当に良かった……」


 蕭紅梅はゆっくりと瞬きをしながら、明蕙の顔をじっと見つめた。

「あなたが動いてくれたおかげよ。皆が私の潔白を信じてくれて……だから、こうして生きていられる」


「……いいえ、あなたが諦めなかったからです。信じて待っていてくれたから、私は動けたんです」

 明蕙は静かに言った。彼女の声には、深い敬意が込められていた。


 蕭紅梅がくすっと微笑んだ。

「それでも、やっぱり一番の功労者はあなたよ、明蕙。もう少し回復したら、正式に礼を言わせて」


「そんなこと……お気になさらず。後宮を守るのが私の役目ですから」


 しばらくの間、二人の間に穏やかな沈黙が流れた。鳥のさえずりが、どこか遠くから微かに聞こえる。


「ねえ……明蕙」

「はい?」


「これからも……この後宮を、見守ってくれる?」

 蕭紅梅の声はかすれていたが、その眼差しには確かな想いが宿っていた。


「もちろんです。誰もが安心して暮らせる後宮に——私、必ず守ってみせます」


 それを聞いた蕭紅梅は、そっと目を閉じ、安心したように微笑んだ。


 事件が収束し、後宮には再び静けさが戻った。

 けれど、明蕙の心の奥には、ほんの少しだけ物足りなさが残っていた。


「平和ねぇ……」

 書簡の束を整理していた明蕙は、ふと手を止めてぽつりと呟く。


 窓の外では風が吹き、木々の葉が揺れている。日差しは穏やかで、どこまでも平凡な一日だった。


「つまらないわ〜。何か事件でも起きないかしら」

 つい口にしたその言葉に、自分で苦笑する。


 部屋にいた侍女が目を丸くした。

「えっ? また何かご不満でも……?」


「ううん、不満じゃないの。ただ……ちょっと、刺激が恋しいだけ」


 窓辺に近づいた明蕙は、外の光を眩しそうに見上げた。

「でも、きっと来るわ。波風のない池に、いつか小石が投げ込まれるように」


「また騒動が起きるってことですか……?」

 侍女は眉をひそめた。


「ふふ、それはどうかしらね。でも、もし何か起きたら……その時も私、絶対に見逃さないわ」


 明蕙の瞳は、静かな闘志とわずかな期待に輝いていた。

 後宮の平和を守る使命は変わらない。だが、それと同時に彼女の中には、消えることのない好奇心が確かに息づいていた。


 ——さて、次はどんな真実が待っているのかしら。

 明蕙は風にそっと髪をなびかせながら、新たな予感に胸を躍らせていた。


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