「鳳凰の涙」 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
@太后の暇つぶし
紫霄宮の庭園には、春の柔らかな陽光が降り注いでいた。満開の桃花が枝を揺らし、優しい風に乗って甘い香りを運んでくる。白い玉石を敷き詰めた小道の先、端正な姿勢で腰を下ろした女性が静かに茶を啜っていた。
蘭明蕙――天瑞国の太后であり、この後宮の実質的な支配者である。
彼女は金糸をあしらった薄桃色の衣を纏い、長い黒髪をゆるく結い上げている。その顔には微笑が浮かんでいたが、それが本当に愉快なものかは分からない。彼女の表情が意味するものを正確に読み取れる者は、後宮にもほとんどいなかった。
目の前の几には、蒸らし加減の絶妙な香り高い白毫銀針の茶。蘭明蕙は杯を持ち上げ、優雅な手つきで口元へと運んだ。そして、ふう、と一息つきながら、ゆるりと呟く。
「ふう……本当に暇ね。」
その言葉が発せられた瞬間、柳青荷はピクリと肩を震わせた。
(いや、またそれ言うんですか……!?)
青荷は心の中で悲鳴を上げる。彼女は長年の経験から知っていた――太后が暇だと言うと、必ず事件が起こる。
どうか何事も起こりませんように、と祈るような気持ちで次の言葉を飲み込んだその時――
「太后様!大変です!!」
悲鳴にも似た叫び声とともに、宦官が転がるように庭園へ駆け込んできた。年若い宦官の顔は真っ青で、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「鳳凰の宝珠が盗まれました!!」
青荷は天を仰ぎ、(やっぱり……)と内心で嘆く。
それとは対照的に、蘭明蕙は何も驚いた様子を見せず、再び杯を持ち上げると、ゆっくりと口に運んだ。まるで「さあ、どうしたものか」と楽しむかのような仕草だった。
「ふむ、鳳凰の宝珠ね……」
淡々とした声に、宦官は今にも泣きそうな顔で頷く。
「そうです!宮中で最も美しい宝珠が……!皇后様もお怒りで、すぐに犯人を探せと――」
蘭明蕙はゆるりと微笑み、青荷の方へと視線を向けた。
「青荷、準備なさい。」
「はぁ……またですか。」
青荷は深いため息をついた。だが、こうなることは分かっていた。太后の「暇つぶし」が始まれば、彼女は否応なしに巻き込まれるのだ。
春の日差しの下、桃の花がひらりと舞い落ちる。
こうしてまた、太后の“暇つぶし”が始まるのだった。
@消えた鳳凰の宝珠
宮中で最も美しい紅玉の宝石、「鳳凰の宝珠」。それは皇帝の所有物であり、翡翠苑の宝物庫に厳重に保管されていた――はずだった。
しかし、それが忽然と姿を消した。
「これは一大事です!!」
宦官長・蘇青荷が青ざめた顔で報告した。彼の丸い顔からは普段の余裕が消え、額には滝のような汗が流れている。
「犯人が見つからなければ、後宮の誰かが罰せられるでしょう……。」
彼の言葉に、場の空気が一気に張り詰めた。翡翠苑の女官たちは顔を見合わせ、ひそひそと不安げに囁き合っている。
(やっぱり……こうなるんだ……。)
柳青荷は心の中で深いため息をついた。これまでの経験から、太后が「暇ね」と言った翌日には何かしらの騒動が起こることを知っている。だが、今回は特に規模が大きい。何せ、盗まれたのは皇帝の宝なのだから。
「……で、何か手がかりは?」
蘭明蕙は優雅に扇を開き、ゆるりと仰ぎながら尋ねた。
「それが……」
宦官たちが困惑の表情を浮かべていると、翡翠苑から新たな報告が飛び込んできた。
「太后様!!」
慌てた女官が駆け込んでくる。息を切らせながら叫んだ。
「失われたはずの鳳凰の宝珠が、穆雪玲様のお部屋から発見されました!!」
「……は?」
一瞬、沈黙が流れた。
「ちょっと待って?」
青荷が戸惑いながら問い返す。
「つまり、盗まれたはずの宝珠が、普通に妃の部屋に転がってたってこと?」
「転がっていたわけでは……!ですが、間違いなく穆雪玲様のお部屋から見つかったのです!」
それを聞いた途端、関係者一同の視線が、一斉に寵妃・穆雪玲へと向けられた。
「わ、私は盗んでなどおりません!!」
穆雪玲は涙を浮かべ、必死に訴えた。
「誰かが私を陥れようとしているのです!!信じてください!!」
だが、どれほど涙を流そうとも、宝珠が彼女の部屋から発見された以上、状況は圧倒的に不利だった。周囲の妃たちは「やっぱり……」「まあ、寵妃様ならやりかねないわね」などと、ひそひそ話を交わしている。
「ふむ……。」
そんな中、蘭明蕙は扇を軽く叩きながら、優雅に微笑んだ。
「まあ、話は分かったわ。」
ゆるりと立ち上がり、ちらりと青荷と蘭珀然に視線を送る。
その瞬間、二人は察した。
(ああ、やっぱり……)
(今回も調査開始ですね……)
青荷は肩を落とし、蘭珀然はわずかに苦笑する。
「じゃあ、ちょっと調べてみましょうか?」
太后の優雅な一言で、この事件の幕が上がったのだった。
@怪しい証拠
穆雪玲の部屋。
華やかな刺繍の施された屏風、繊細な香の匂いが漂う室内。緊張した面持ちの女官たちが息を潜める中、蘭明蕙はゆったりとした足取りで部屋の奥へと進んだ。
机の上には、小さな飾り台に乗せられた紅玉の宝珠が鎮座している。まるで「どうぞ、私を見つけてください」と言わんばかりの堂々たる存在感。
蘭明蕙は扇を閉じ、指先でそっと宝珠を持ち上げた。
「確かに美しいわね。」
光を受けて赤く輝く宝珠。しかし、よく見ると――
「……これ、少し質感が違うような?」
蘭明蕙が窓際へと歩き、陽の光にかざすと、後ろで控えていた青荷が思わず声を上げた。
「太后様!なんだか表面が曇っているような……?」
「うん、気のせいじゃないわ。」
蘭明蕙は宝珠を指で撫でてみる。その動作が妙に優雅すぎて、緊張感のあった室内に少し場違いな雰囲気が漂った。
一方、蘭珀然も腕を組んで考え込む。
「本物の鳳凰の宝珠ならば、もっと透き通った輝きがあるはずですが……。」
青荷は慎重に宝珠を覗き込み、息をのんだ。
「もしかして、偽物……?」
「ふふっ。」
蘭明蕙は微笑み、ゆっくりと宝珠を指先で転がした。
「ふむ……これはただの紅玉じゃないわね。」
その言葉に、室内の空気が一変する。
穆雪玲は「えっ?」と驚き、周囲の女官たちも「ええっ!?」とざわめいた。
青荷は震える指で宝珠を指しながら、顔をしかめた。
「そ、それってつまり……?」
蘭明蕙はくるりと振り向き、扇をパチンと開いて優雅に言い放った。
「ええ、この宝珠はニセモノよ。」
「な、なんですってーーーー!?」
穆雪玲の悲鳴とともに、事件はさらに混迷を極めるのだった。
@消えた本物の宝珠
夜の後宮。静寂の中に、かすかな風の音だけが響いている。
蘭明蕙は、影衛司の密偵・陳星河とともに後宮内を慎重に調査していた。青荷と蘭珀然もその後に続く。
「太后様、こんな夜更けにこっそり歩き回るなんて……もし見つかったらどうするんです?」
青荷がヒソヒソ声で尋ねると、蘭明蕙は涼やかに微笑んだ。
「その時は、夜のお散歩とでも言い訳するわ。」
「いやいや!そんな優雅な言い訳で済みませんよ!」
「大丈夫よ、青荷。」蘭珀然が静かに微笑む。「見つかるのは君だけだから。」
「えぇ!?私だけですか!?」
慌てる青荷を軽くいなしながら、一行は御薬房へと足を踏み入れた。
中はしんと静まり返っており、薬草の香りがほのかに漂っている。薄暗い灯りのもと、蘭明蕙は炉の前で立ち止まった。
「……やっぱり。」
炉の灰の中に、紅色の溶けた跡が残っていた。
「これ、蜜蝋の痕跡……?」
青荷が驚いて指をさすと、蘭明蕙は軽く扇で灰を払った。
「そうよ。」
灰の中には、赤く染まったわずかな蝋の塊が残っている。
「つまり、この“鳳凰の宝珠”は偽物。蜜蝋で作られたレプリカね。」
青荷の目が見開かれる。
「じゃあ、本物は……?」
蘭明蕙は満足げに微笑み、扇をゆったりと動かした。
「盗まれたまま、どこかに隠されているのよ。」
その言葉に、青荷と蘭珀然は顔を見合わせた。
「え、じゃあ穆雪玲様の部屋にあったのって……」
「溶ける前の蜜蝋の宝珠だったのね……!」
青荷が驚愕する中、蘭明蕙は静かに扇を閉じた。
「さて、じゃあ本物を探しに行きましょうか?」
「……これ、私たち、また夜中じゅう歩き回るパターンですよね?」
青荷がげんなりしながら天を仰ぐのをよそに、蘭明蕙は楽しそうに歩き出したのだった。
@真犯人の正体
御薬房の奥、薬草の香りが満ちた薄暗い室内。
蘭明蕙はゆったりとした足取りで進み、炉の前で作業していた女官・白蓮に視線を向けた。
「おや?」
穏やかな声に、白蓮がピクリと肩を震わせる。
「あなた、何かを隠しているわね?」
蘭明蕙の目が、まるで獲物を見つけた猫のように細まる。
「そ、そんなことは……!」
白蓮は慌てて視線を逸らし、後ずさった。が、その挙動が何よりも怪しさを物語っている。
「ふむ……。」
蘭明蕙は扇を軽く開き、楽しげに仰ぎながら蘭珀然を見た。
「蘭珀然、説明してちょうだい?」
「かしこまりました。」
蘭珀然は静かに白蓮を見つめ、落ち着いた声で語る。
「御薬房では、蜜蝋を使う機会は珍しくありません。薬を固めるのにも、印を封じるのにも用いられます。」
白蓮はますます顔をこわばらせた。
「しかし――」
蘭珀然は少し間を置いて、低く続ける。
「宝珠のように精巧な細工を施せるのは、ごく一部の者だけ。」
その瞬間、白蓮の顔が真っ青になり、唇が震えた。
「わ、私は……っ!」
青荷が鋭い視線を向ける。
「本物の宝珠はどこにあるの?」
白蓮はギュッと拳を握り、ついに観念したように膝をついた。
「申し訳ありません……。でも、私はただ、命令された通りにしただけで……!」
「命令?」
蘭明蕙は優雅に眉を上げる。
白蓮は震える声で答えた。
「私に命じたのは、岑若梅様です……!」
「……!」
青荷の目が大きく見開かれる。
「皇后派の貴妃……!」
蘭明蕙はクスリと微笑み、扇を閉じた。
「ふふ……面白くなってきたわね。」
しかし、青荷は心の中で盛大に叫んでいた。
(いやいやいや!全然面白くないですから!?また宮廷の大事件ですよ!?)
こうして、“暇つぶし”のはずの調査は、ついに皇后派を巻き込む大騒動へと発展していくのだった。
@犯人への裁き
紫霄宮の広間、静寂が張り詰める中――
蘭明蕙は優雅に座し、手元の扇を軽く動かしていた。
その前に立つのは、美しいながらも青ざめた顔の岑若梅。
その横では、白蓮が小さく縮こまっている。
「彼女に偽物を作らせ、宝珠が見つかったと見せかけることで、疑いを逸らそうとしたのね。」
蘭明蕙は微笑む。
が、その笑顔を見た青荷は、内心で震え上がった。
(こ、怖い……!こんな時の太后様の笑顔は、まるで猫がネズミを弄ぶときのそれ……!)
「……証拠はあるのかしら?」
気丈に振る舞おうとする岑若梅だったが、声がわずかに震えている。
蘭明蕙はゆっくりと扇を閉じた。
「あるわよ。」
パチン!
閉じる音が響いた瞬間、青荷と蘭珀然が思わず背筋を伸ばす。
「蜜蝋の細工は時間が経てば溶ける。つまり、発見された宝珠が偽物だと証明できるわ。」
言葉と同時に、侍女が小さな盆を持ってくる。
そこに置かれているのは――
無惨に溶けかけた、ドロドロの紅色の塊。
「ひっ……!」
白蓮が小さく悲鳴を上げる。
青荷はそれを見て、内心で大いに同情した。
(そりゃ怖いですよね……。だって、さっきまで『宝珠』だったものが、今や『紅いスライム』ですもん……!)
一方、岑若梅は沈黙したまま、その赤い塊を凝視していた。
「……私の負けですわ。」
ようやく口を開いた彼女は、気高く微笑んでいる。
しかし――
その手は、ほんの少し震えていた。
「……ふふ。」
蘭明蕙は再び微笑み、扇を軽く広げる。
「まあ、暇つぶしにはちょうど良かったわ。」
そう言いながら、満足そうに茶を一口。
青荷は思わず天を仰いだ。
(ちょうど良くないです!宮廷の大事件です!!)
こうして、また一つの事件が幕を閉じたのだった。
@太后の暇は続く
穏やかな春の日差しが降り注ぐ紫霄宮の庭。
蘭明蕙は優雅に腰を下ろし、湯気の立つ茶碗を手に取った。
「ふう……。やっと暇になったわね。」
茶を一口。上品な香りが広がる。
(やれやれ、ようやく静かな日常が戻ってきたわね。)
――そんなことを思っていたのは、太后本人だけ だった。
近くで控えていた青荷は、ピクリと肩を震わせる。
(……ダメです、これは絶対にフラグです……!!)
青荷は、これまでの経験から 「太后様が暇と言う=事件が起こる」 という不変の法則を学んでいた。
案の定――
「太后様、大変です!!」
慌てた宦官が駆け込んでくる。
青荷は一瞬で悟った。
(来た……!!!!)
「翠竹庭でまた事件が!!」
次の瞬間――
「ほらね!!!!」
青荷は思わず両手を広げて叫んだ。
(私は知ってましたよ!!絶対こうなると思ってましたよ!!)
蘭明蕙は、微笑みながら扇を開く。
「まあ、仕方ないわね。行きましょうか。」
優雅に立ち上がる太后を見て、青荷は天を仰いだ。
(はぁぁ……また忙しくなるんですね……)
こうして、太后の“暇つぶし”は、今日も続くのであった――。