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71 連環する足跡 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」

 


 紫霄宮・午下ひるさがり


 紫霄宮の庭園には、春の風が柔らかに吹いていた。藤棚の薄紫の花房が、ゆらゆらと揺れている。その下で、蘭明蕙はゆったりと腰掛け、白磁の茶碗を指先で転がした。湯気とともに、淡い香りが漂う。


「ふう……。」


 細く白い指が茶碗の縁をなぞる。満ち足りたように目を細め、彼女はゆるりと呟いた。


「ようやく暇になったわね。」


 この一言に、柳青荷の背筋がぴんと張る。


 ――また言った。


 蘭明蕙が「暇」と言った時、それは“平穏”の終わりを意味していた。


 最初は偶然かと思っていた。だが、今までの経験上、この言葉が発せられるたびに、必ず後宮のどこかで厄介ごとが持ち上がる。陰謀、毒殺、失踪事件……太后が“退屈”を感じる間もなく、騒動が舞い込むのだ。


 青荷はちらりと太后を見た。涼しげな目元に、うっすらと微笑みを湛えている。ごく自然な表情だが、彼女には分かる。この人は絶対に分かっていて言っている。


(どうか今日は何も起こりませんように……!)


 青荷が密かに願った、その瞬間だった。


「太后様、大変です!」


 庭の入り口から、息を切らした宮女が駆け込んできた。顔色は真っ青、明らかにただごとではない。


「翡翠苑の中庭に、奇妙な足跡が現れました!」


「ほらね!!!!」


 青荷は思わず叫び、天を仰ぐ。


 蘭明蕙はそんな彼女を見て、くすりと微笑んだ。まるで、「これだから後宮は面白い」と言わんばかりに。


 こうして、またもや“暇つぶし”の時間が始まるのだった。



 @翡翠苑・騒がしき昼下がり


 翡翠苑の中庭は、本来ならば穏やかな春の日差しに包まれているはずだった。緋色の花が咲き誇り、微風が揺らす柳の葉がささやくように囁く。


 ――そう、普通ならば。


 しかし、現実の中庭には、穏やかさのかけらもなかった。


「きゃああっ!!!」


 宮女たちの悲鳴が響き渡る。その中心では、何やら異様なものを見つめて震える彼女たち。


「な、なにこれ……?」


 柳青荷がそっと近寄り、目を凝らした。


 白砂利の上には、ぽつんと浮かぶように刻まれた奇妙な足跡。


「足跡……?」


 普通ならば、足跡というものは始まりがあり、終わりがあるもの。しかし、これは違う。まるで空から降ってきたかのように突然現れ、数歩分だけ進んだかと思えば、まるで“忍者の煙玉”でも使ったかのようにぷつりと消えている。


「……何かの暗号かしら?」


 青荷が頭を捻っていると、すぐそばで蘭珀然が静かに呟いた。


「足跡はどこにも続いていませんね。飛んで消えたとでも?」


「ひ、飛んで……?」


 青荷がぎこちなく珀然を見上げた次の瞬間――


「幽霊の仕業かもしれません!」


「きゃあああああ!!!」


 とたんに悲鳴の大合唱。震えながら抱き合う宮女たち。中には慌てすぎて自分の足に引っかかり、無様に転ぶ者までいる。


「わ、私は見ました!夜更けに“ふわり”と宙を舞う影を!!」


「ひぃぃぃ!やっぱり幽霊じゃないですか!」


「きゃああ!!!」(※本日三度目の悲鳴)


 悲鳴のオーケストラに包まれる中庭。そのど真ん中で――


「幽霊ねぇ……。」


 ただ一人、優雅な微笑みを浮かべる女がいた。


 蘭明蕙である。


 彼女はゆったりと扇を開くと、ぱたりと涼しげな音を立てた。


「まぁ、そんなこともあるかもしれないわね。」


「えぇ!?太后様、まさか本当に信じて――」


「――でもね。」


 ぱちん、と扇の先が足跡を指し示す。


「幽霊も足を汚して歩くのかしら?」


「……え?」


 青荷と珀然が同時に足跡を見下ろす。


 そこには、まだ湿った泥が、くっきりと残っていた。


「この泥、まだ乾いていないわね。」


 一瞬でしん……と静まり返る中庭。さっきまで「きゃあきゃあ」騒いでいた宮女たちが、まるで凍りついたかのように黙り込む。


「つ、つまり……?」


 青荷がそっと尋ねると、珀然が腕を組み、冷静に答えた。


「――これは、人間の仕業ですね。」


「ぎゃあああああ!!!!!」(※本日四度目の悲鳴)


 いや、だから幽霊じゃないって言ってるのに……。


 青荷はこめかみを押さえた。


 その横で、蘭明蕙はくすくすと笑いながら扇をひらひらと揺らす。


「幽霊騒ぎで暇をつぶそうなんて、ずいぶんと風流なことね。」


 それが本当に“風流”なだけのものなのかどうか。


 ――太后の“暇つぶし”が、ここから始まる。



 @翡翠苑・暴かれる足跡の主


「ふむ……。」


 蘭明蕙は、白砂利の上に刻まれた奇妙な足跡を、じっと見下ろした。


「この足跡、どうやら女性のものですね。」


「でも、後宮には大勢の宮女がいますし、誰のものかまでは……。」


 柳青荷が困惑しながら眉を寄せる。


「それなら簡単よ。」


 蘭明蕙は、まるで「こんな簡単なこともわからないの?」と言いたげに微笑むと、くるりと振り向き、廊下に並んでいた宮女たちを手招きした。


「皆さん、一列に並びなさい。」


「えっ?」


「は、はい?」


 ざわ……ざわ……。


 宮女たちは不安げに顔を見合わせながらも、言われたとおりに整列する。


「では、一歩ずつ前に出てみなさい。」


「えっ、えぇ……?」


 突然の命令に戸惑いながらも、宮女たちは次々と足を出していく。


 ぺたっ。


 ぺたっ。


 ぺたっ。


「……ん?」


 そして――


 ピタッ。


「……あら?」


 その瞬間、空気が変わった。


 庭に残された足跡と、ある宮女が踏み出した足の形が、まるでパズルのピースのようにぴたりと一致したのだ。


 柳青荷と蘭珀然は目を丸くし、他の宮女たちも「おお……!」とどよめく。


「これは……御薬房の女官、李彩霞り さいかですね。」


 張り詰めた沈黙の中、李彩霞の顔がみるみる青ざめていく。


「な、何のことか分かりません!」


 必死にしらを切る李彩霞。しかし、彼女の膝は微かに震えている。


「まぁ、そう言うわよね。」


 蘭明蕙は、まるで余裕しゃくしゃくの猫が、追い詰めた鼠を楽しむように微笑んだ。


「でもね。」


 ぱちん、と扇を閉じ、優雅にその先で足跡を指す。


「この足跡が“なぜここにだけ現れたのか”が問題なのよ。」


 ぞくっ――。


 その場の空気が、にわかに冷え込む。


 まるで、一瞬前まで「幽霊だ!」と騒いでいたことなど忘れたかのように、宮女たちは息を呑んで成り行きを見守っていた。


 ――果たして、この足跡の謎の裏に、何が隠されているのか?


 太后の“暇つぶし”は、ますます面白くなってきたようだった。




 @翡翠苑・足跡の消えた謎


「普通に歩いていたなら、足跡はずっと続くはず。でも、この足跡は途中で消えているわ。」


 柳青荷は腕を組み、うーんと唸った。


「……もしかして、誰かが靴を履き替えた?」


「ふふ、それにしてはおかしいでしょ?」


 蘭明蕙は楽しげに微笑みながら、ぱたりと扇を閉じる。


「ねぇ、李彩霞。」


「は、はい……?」


 不安げに身をすくめる彩霞へ、蘭明蕙はふわりと優雅に歩み寄った。


「靴の裏を見せてもらえる?」


「えっ……?」


 彩霞の肩がぴくりと震える。


「ど、どうして……?」


「いいから。」


 蘭明蕙はにっこりと笑いながら、逃がさない捕食者のような視線を向けた。


 観念した彩霞は、しぶしぶ靴を脱ぐ。そして――


「おや?」


 蘭明蕙が覗き込むと、靴の裏には乾いた泥がしっかりとこびりついていた。


「やっぱりね。」


 ぱちん、と扇を指で弾く音が静かに響く。


「あなた、事前に靴の裏に泥をつけて、決まった場所で泥を落とすように仕込んでいたんじゃない?」


「!!」


 彩霞の顔がさっと強張る。


「そうすれば、まるで突然足跡が現れ、消えたように見えるわね。」


 柳青荷と蘭珀然が、はっと目を見開いた。


「な、なるほど!」


「つまり、足跡は実際には途中で消えたんじゃなくて、最初から“そこまでしか付かない”ように細工されていた……!」


 宮女たちがざわめく中、彩霞はぎゅっと唇を噛みしめる。


「わ、私は……っ」


「でも、なぜそんなことを?」


 柳青荷が問いかけると、蘭明蕙はくすりと笑い、扇を再びひらひらと揺らした。


「何かを隠すためよ。」


「えっ……?」


「足跡が続く先に、本当に隠したいものがあったんじゃないかしら?」


 その言葉に、彩霞の顔から血の気が引いていく。


「……ふふっ。」


 蘭明蕙は、まるで獲物を追い詰める猫のように微笑んだ。


「さて、何を隠しているのかしら?」


 翡翠苑の昼下がりに、再び張り詰めた緊張が広がる――。




 @翡翠苑・暴かれた真相


 翡翠苑の中庭に、ぴんと張り詰めた空気が漂う。影衛司の宦官たちが植え込みをかき分け、何かを探していた。


「……太后様、ありました。」


 低く響く報告の声に、皆の視線が集まる。


 蘭珀然がそっと植え込みの中から小さな袋を取り出した。


「これは……?」


 慎重に袋を開くと、中から現れたのは小さな硝子の小瓶。淡黄色の粉が詰まっている。


曼陀羅華まんだらげの粉ね。」


 蘭明蕙は扇を片手に優雅に歩み寄り、指先でほんの少しすくった。


 ふわりと広がる独特な香り。


「これは長期間吸い続けると幻覚を引き起こす毒よ。」


「幻覚……?」


 柳青荷が眉をひそめた。


「つまり、誰かを毒殺しようとしていた……?」


「あるいは、じわじわと精神を壊すためかもね。」


 青荷がぞっと肩を震わせる。


「犯人は――」


 蘭明蕙は、くるりと扇をひらき、ゆっくりと視線を向ける。


「……彩霞さん、あなたですね。」


「!!」


 李彩霞の顔が青ざめ、ガタガタと震え出す。


「わ、私は……!!」


「言い訳は聞かないわよ?」


 蘭明蕙が涼やかに微笑むと、彩霞はついに膝をついた。


「申し訳ありません……! 私は、ただ命令に従っただけ……!」


「命令?」


岑若梅しん じゃくばい様が……。」


 その名が告げられた瞬間、柳青荷が息をのむ。


「岑若梅……皇后派の貴妃……!」


「つまり、皇后派が密かに寵妃を狙っていたのね。」


 蘭明蕙は静かに扇を閉じる。


「ふぅん……。」


 扇を持つ手が、ほんの少しだけ強く握られた。


「まったく、皇后派も暇を持て余しているのね。」


 その言葉は穏やかだったが、冷たい笑みと共に放たれたそれは、まるで鋭い刃のようだった。


「さて――」


 蘭明蕙は、彩霞を見下ろしながらにこりと微笑む。


「“暇つぶし”の続きをしましょうか?」


 翡翠苑の昼下がり、太后の優雅な推理劇はまだ終わらない――。



 @ 翡翠苑・太后の裁き


 翡翠苑の中庭に、沈黙が落ちた。


 証拠は揃った。逃げ場は、どこにもない。


 蘭明蕙は、ゆるりと立ち上がる。


 紫の衣がふわりと揺れ、優雅に微笑んだ。


「さて……どう料理しましょうか?」


 ――ゾワッ。


 柳青荷は思わず背筋を伸ばした。


(怖っ!!)


 それは決して大声でも、怒鳴り声でもない。むしろ柔らかく、上品な声音だった。


 だが、その微笑みが恐ろしい。


 青荷の経験上、この顔をした太后様が容赦したことは一度もない。


「太、太后様……?」


 そっと声をかけると、蘭明蕙は微笑んだまま、扇をパタンと閉じた。


「青荷、何かしら?」


「ええと、その……あまり、怖いことは……」


「怖いこと?」


 くすっと笑うと、蘭明蕙は彩霞を見下ろした。


「何を言っているの、私はただ正しく裁くだけよ?」


 ――どこが「ただ」なのか。


 青荷は心の中で突っ込みつつ、彩霞を見た。


 彼女はもはや観念したように、膝をついていた。


「申し訳ありません……」


「謝る相手が違うわね?」


 蘭明蕙は涼しげな目で告げた。


 彩霞は唇を噛みしめ、震えながら頭を下げる。


「……申し訳ありませんでした。」


「ふうん。」


 蘭明蕙は頷くと、扇で顎を軽く指し示す。


「影衛司。」


「はっ!」


 待機していた宦官たちが、静かに歩み寄る。


「罪人を連行しなさい。」


「お、お待ちください……!」


 彩霞がすがるように顔を上げたが、蘭明蕙は既に踵を返していた。


「――岑若梅によろしく伝えておいてね。」


 ひらりと扇を開き、優雅に微笑む。


「『次は、もう少し手の込んだ暇つぶしを用意してほしい』って。」


 宮女たちは顔を引きつらせ、柳青荷は(また敵を増やす……!)と頭を抱えた。


 こうして、太后の”暇つぶし”は、また新たな火種を残して幕を閉じるのだった。




 @紫霄宮・繰り返される暇つぶし


 数日後の午後、紫霄宮の庭には、穏やかな春の陽気が広がっていた。


 藤棚の下、蘭明蕙は優雅に腰を下ろし、湯気の立つ茶杯を手に取る。


「ふう……。やっと暇になったわね。」


 長い睫毛を伏せ、涼しげな微笑みを浮かべる。


 ――しかし。


(いやいやいやいや!!!)


 柳青荷は、喉まで出かかったツッコミを必死で飲み込んだ。


 このセリフを聞くのは、何度目だろう?


(前にも言ったでしょう!?で、その直後に事件が起きたでしょう!?)


 恐る恐る蘭珀然を見ると、彼も無言でため息をついていた。


 嫌な予感しかしない。


「……はぁ。」


 青荷はついに小さく溜息をつく。


 すると――。


「太后様、大変です!!」


 バタバタと駆け込んでくる宮女。


「翠竹庭でまた事件が!!」


 ほら来た!!!!!!


 青荷は両手で頭を抱えた。


 蘭珀然は無言で目を閉じ、静かに天を仰ぐ。


 そして、当の蘭明蕙は――。


「まあ。」


 茶杯をそっと置くと、微笑みながら扇を開く。


「暇つぶしには、ちょうどいいわね。」


 春風が、彼女の衣の裾をそっと揺らした。


(絶対わざとよね!?)


 青荷は天を仰ぎながら、心の中で叫ぶのだった。


 こうして、太后の”暇つぶし”は、今日も続くのである――。

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