67 水鏡の暗号「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
紫霄宮の午後
柔らかな春の日差しが差し込む紫霄宮の縁側。蘭明蕙は繊細な白磁の茶碗を指先で持ち上げ、静かに茶を啜った。微かに立ちのぼる香りを楽しみながら、庭の池に浮かぶ蓮の葉をぼんやりと眺める。その優雅な佇まいは、まるで後宮の喧騒とは無縁の別世界にいるかのようだった。
「――これでまた暇になっちゃうわ」
ぽつりと呟かれたその一言に、傍らに控えていた柳青荷の背筋がピンと張る。
(た、大変だわ……! 太后様が『暇』なんて言ったら、絶対に何かが起こるのよ!)
彼女は過去の経験を思い出しながら、すぐに周囲を見回した。まるでどこかから突然、事件が飛び込んでくるのを警戒するかのように。
案の定、その直後だった。
@消えた密書
皇帝の寝所である「乾元殿」は、普段ならば厳かな静けさに包まれている。しかし今、そこには宦官たちのざわめきが満ちていた。
「確かに、ここに密書があったはずなのに……!」
机の上に広げられたのは、上等な絹で作られた巻物。しかし、どこをどう見ても何の文字も書かれていない。宦官たちは顔を見合わせ、困惑の色を浮かべている。
「これ、本当に密書なの?」
柳青荷は巻物を覗き込みながら、首をかしげた。
「まさかただの高級な布切れじゃないでしょうね?」
「そんなはずはない」
蘭珀然が巻物を手に取り、慎重に広げた。しかし、やはりそこには何の情報も見えない。
「これは確かに密書のはずなのですが……何も書かれていないとは」
彼は考え込むように巻物を光に透かしてみたり、角度を変えてみたりしたが、やはり何も見えない。
その様子を見ていた太后・蘭明蕙は、ふふっと楽しげに微笑んだ。
「まぁ、面白いわね」
そう言いながら、彼女は優雅に扇を閉じ、すらりと手を伸ばして巻物を受け取る。
「これが何かの暗号なら、どうやって読むのかしら?」
まるで美しい宝石でも愛でるかのように、ゆっくりと巻物を撫でながら、太后は目を細めた。その様子を見て、青荷は――
(あぁ、太后様が本気で楽しんでいる……絶対に厄介な事件になるわ……)
と、遠い目をしながらそっと頭を抱えたのだった。
@水鏡の謎
「水鏡墨?」
柳青荷が首を傾げると、御薬房の長・方慧仙はゆったりと頷いた。
「これはね、乾いた状態では何も見えませんが、水に浸すと文字が浮かび上がる特殊な墨です。かつて異国から伝わり、秘伝の技術として限られた者しか使えません」
「つまり、密書の内容を知るには、この巻物を水に浸せばいいのね」
太后・蘭明蕙は優雅に扇を広げ、にこりと微笑む。
「では、試してみましょうか」
すぐに用意された水盆に、巻物をそっと浸す。
すると――
じわっ……
まるで夜明けに霧が晴れるように、薄暗い水面の上に文字が浮かび上がってきた。
「うわぁ、本当に出てきた!」
柳青荷が目を輝かせるが、その横で蘭珀然は冷静に腕を組んでいた。
「なかなか手の込んだ細工ですね。だが、問題はその中身でしょう」
みんなが息をのむ中、太后が水面に映る文字をゆっくりと読み上げる。
「後宮のある人物に関する重大な秘密」
――次の瞬間、柳青荷が「えっ」と目を見開いた。
「こ、これって……!!」
太后はゆったりと扇を閉じながら、満足そうに微笑む。
「ふふ……どうやら、ますます面白くなってきたわね」
(ほらやっぱり!!!)
柳青荷は、心の中で叫びながら頭を抱えたのだった。
「太后様! 大変です!」
慌ただしい足音とともに、宦官服姿の青年――蘭珀然が縁側に姿を現した。その端正な顔には珍しくほんの僅かな焦りの色が見える。
「皇帝陛下の寝所で、奇妙な巻物が発見されたとか……!」
青荷は一瞬目を見開き、それからガクリと肩を落とした。
(ほらね!!)
もはや運命を呪う気力すら湧かない。彼女は静かに深いため息をついた。
一方、当の太后はといえば、ゆったりと茶碗を置き、涼やかな笑みを浮かべた。
「まぁ、面白そうね」
その声音にはまるで好奇心に満ちた少女のような軽やかさがある。しかし、青荷にはもう分かっていた。これは”太后様の暇つぶし”の始まりに過ぎないのだと。
(またもや後宮に嵐が吹き荒れる予感しかしないわ……!)
心の中で叫びながら、青荷は渋々、太后に続いて立ち上がるのだった。
@密書の内容と暗殺計画
水盆の中でゆらめく文字をじっと見つめていた柳青荷は、次の瞬間、驚愕の声をあげた。
「これ……皇后様の密命について書かれています!」
部屋に緊張が走る。
「密命?」
蘭珀然が巻物を覗き込み、さらりと読み上げる。
「ふむ……『皇帝の寝所に毒を仕掛ける計画』……ですか」
「えええええええっ!? そんな大事件、あっさり言わないでくださいよ!!」
青荷は思わず肩を抱えて震えた。
「つまり、この巻物は皇后派の者が密かにやり取りしていた証拠というわけね」
太后・蘭明蕙は相変わらずのんびりとした口調で、扇を軽く動かす。
「ですが、おかしいですね」
珀然が静かに呟いた。
「こんな重要な密書を、わざわざ皇帝の寝所に残すでしょうか?」
「……たしかに」
太后は扇を閉じ、わずかに目を細めた。
「普通ならすぐに処分するはずよね。なのに、どうしてこんなところに……?」
柳青荷は慌てて手を振った。
「ど、どどど、どうします!? こんな危険なもの、もし皇帝陛下が読んでしまったら……!」
「まぁ、陛下が字を読む前に昼寝してしまうことはよくあるけれど」
「そこですか!?」
青荷が思わずずっこける中、蘭珀然はくすりと笑いながら言った。
「では、この巻物がここにあった理由も含めて、もう少し調べてみましょうか」
「ええ、それがいいわね」
太后は涼しい顔で頷き、また優雅にお茶を啜る。
(この人、本当に危機感がないんじゃ……!?)
柳青荷は、太后の余裕たっぷりな態度に頭を抱えるしかなかった。
@犯人の正体
調査の結果、皇帝の寝所に巻物を持ち込んだのは宮女・韓蓮香だったと判明した。
紫霄宮の一室で、震える蓮香がうつむいている。
「私……私はただ、皇后様の指示でこれを運んだだけで……!」
「じゃあ、あなたはこの計画の内容を知っていたの?」
柳青荷が腕を組み、鋭い目で問い詰める。
「いいえ! 何も……私はただ、言われた通りに……!」
「ふぅん……?」
青荷は疑わしそうに蓮香をじろりと睨むが、相手は涙目で首をぶんぶん振る。
「本当です! わたくし、字も読めませんし!」
「ええっ!? そうなの!?」
青荷が思わず驚くと、横で聞いていた蘭珀然が冷静に補足する。
「宮女は皆、読み書きを学ぶわけではありませんからね。」
「……そっかぁ。でも、それなら余計に変じゃない?」
青荷は顎に手を当て、考え込んだ。
「もしこの密書を読めなかったなら、何が書かれているかも知らずに運んだってことよね?」
「そ、そうです! 私は本当にただ運んだだけで……!」
その瞬間、ぱちんと扇を閉じる音が響いた。
「ふふ、なるほどね」
太后・蘭明蕙が優雅に微笑みながら、ゆったりと扇を動かす。
「え?」
蓮香は涙ぐみながら太后を見上げ、青荷も「えっ」と目を瞬かせた。
「本当の犯人は、巻物を寝所に『わざと』置いた者よ」
「わざと……?」
珀然が小さく反芻する。
「ええ。密書を皇帝の寝所に置けば、当然、陛下や周囲の者が騒ぎ立てるわ。そうなれば、この計画はすぐに露見する。 まるで……」
「まるで、密書の内容を『暴露するため』に仕組まれたみたい……」
青荷ははっとして呟いた。
「そういうことよ」
太后は優雅に微笑んだまま、軽やかに扇を揺らす。
「つまり、密書を暴露したのは、皇后派の敵対者ということね」
その言葉に、一同は息を呑んだ。
「……って、じゃあ、誰がやったんですか!?」
青荷が慌てて太后を見ると、蘭明蕙は涼しい顔でお茶を一口啜る。
「さぁ、誰かしらね?」
「わぁああ! 絶対、もう何かわかってる顔してるじゃないですか!!」
青荷が抗議するも、太后はただ微笑むばかり。
(ああ、またこれが始まるのね……)
柳青荷は心の中で天を仰ぎながら、次なる推理劇に巻き込まれる運命を悟ったのだった。
@太后の裁き
紫霄宮の静かな夜。月明かりがふんわりと障子を照らし、微かな風が庭の竹を揺らしていた。
そんな穏やかな空間の中で、蘭明蕙はゆったりとした仕草で茶を啜る。
目の前には、がたがた震える韓蓮香。
「さて、あなたをどうしましょうか」
太后が穏やかに微笑みながら言うと、蓮香はびくっと肩を跳ね上げた。
「ひっ……!」
「私……私はただの使いで……どうか、お助けを……!」
涙目で懇願する蓮香を見て、柳青荷は「うわぁ……」と若干引いた表情をする。
「うーん、でも皇后様の指示とはいえ、結果的に皇帝暗殺計画に加担したのは事実だからな。」
蘭珀然が肩をすくめながら、冷静に言い放つ。
「そ、そんな……! でも、本当に何も知らなくて……!」
蓮香は今にも泣き崩れそうだったが、太后は淡々と茶をひとすすり。
「そうね。罪を償ってもらわないといけないわ。」
その言葉に、蓮香は顔を真っ青にし、青荷は「うわぁ、これ処刑ルートの流れじゃない……?」と顔をしかめる。
「そ、それは……!」
蓮香が息を呑んだその瞬間、太后はふっと微笑み、ゆったりと扇を開いた。
「だから、これからは私のために働いてもらおうかしら?」
「ひっ……!!」
蓮香は飛び上がらんばかりに震え上がる。
「よ、よよ、よろしくお願いいたします……!!」
涙目で深々と頭を下げる蓮香を見て、青荷は苦笑しながらそっと蘭珀然に囁いた。
「……太后様って、ほんとに恐ろしい方ですよね」
「今さらだろう?」
珀然は静かにため息をつきながら、ちらりと太后の優雅な笑みを盗み見た。
(結局、この方が一番怖いんだよなぁ……)
そう思いながらも、彼は静かに茶を啜るのだった。
@太后の「暇」再び
紫霄宮の午後。
庭の池では優雅に鯉が泳ぎ、風に乗って花の香りが漂う。そんな穏やかなひととき、蘭明蕙はしっとりとした茶碗を手に取り、のんびりと茶を啜った。
「……これでまた暇になっちゃうわ」
ぽつりと漏らしたその言葉に、柳青荷は思わず手元の急須を取り落としそうになった。
(ああ……来た……またこのパターン……)
天を仰ぎつつ、「この台詞が出ると絶対次の事件が起こるのよね……」と遠い目になる青荷。
――そして案の定。
「太后様、大変です!!!」
遠くからバタバタと駆け込んでくる足音。そして、息を切らしながら飛び込んできたのは蘭珀然だった。
「今度は翡翠苑で妃が……!!!」
「ほらね!!!!!」
青荷は反射的に天を仰ぎ、心の中で絶叫。
太后はそんな彼女をよそに、茶を啜りながら微笑んだ。
「まぁ、それは面白そうね」
青荷は絶望した。いや、確信していた。
(これ、太后様の「暇つぶし」が終わる日は、一生来ないのでは……!?)
そのまま、次の事件へと巻き込まれていくのだった。




