66 影絵の暗殺者 「後宮の名探偵・大后様の暇つぶし」
紫霄宮の朝――「暇」の兆し
朝の陽光が柔らかく差し込む紫霄宮。静謐な空気の中、蘭明蕙は長椅子に優雅にもたれかかり、ゆっくりと湯気の立つ茶碗を口元へ運んだ。
ひとくち、喉を潤す。
そして、ゆるりとしたため息。
「……最近、暇ね」
隣に控えていた柳青荷は、その言葉を聞いた瞬間、背筋がピンと伸びた。手元に持っていた小壺の蓋がカクンと揺れる。
「太后様、それは……また事件が起こる前触れでは?」
「まさか」
蘭明蕙は白い指先で茶碗の縁を撫でながら、涼やかな笑みを浮かべた。だが、その表情の裏にどこか楽しげな色が滲んでいる。青荷は心の中で(いや絶対に起こる……)と確信し、そっと肩をすくめた。
「たまには静かに過ごしたいものよ」
まるで運命を決めるかのようなその言葉を最後に、紫霄宮は再び静寂に包まれた。
青荷はふっと息を吐き、ようやく心を落ち着けようとした。が――
「殺人です! 宦官の張徳安様が……!」
突如として、後宮の静けさを破る叫び声が響き渡る。
青荷はぴくりと眉を動かし、ゆっくりと天を仰いだ。
(やっぱり!!)
思わず内心で叫びながらも、視線を戻せば、蘭明蕙はすでに茶碗を静かに置き、まるで待ちかねていたかのように優雅に微笑んでいた。
「ほらね?」
「いえ、そんな誇らしげに言われましても……!」
青荷は頭を抱えたくなった。
「で? 今度はどんな事件なのかしら?」
まるで子供が新しい遊びを見つけたかのような太后の言葉に、青荷は思わずため息をついた。こうなれば、もはや止められない。
(もう運命だと思って諦めるしかないですね……)
仕方なく、青荷は腰を上げた。さて、今回はどんな謎が待っているのやら――。
@ 屏風の前の死体
事件現場は、影衛司が使う離れの一室。狭く質素な部屋の中央、張徳安の亡骸が、まるで礼拝するかのように膝をついたまま、胸に短剣を突き立てられ、静かに息絶えていた。
異様なまでに整然としたその姿に、蘭珀然は眉ひとつ動かさぬまま、ゆっくりと屈み込む。
「争った形跡はない。驚くほど整然としたまま絶命しているな」
柳青荷は顔をしかめ、部屋の隅から周囲を見回した。
「でも、おかしいですよね? 見張りの証言では、誰もこの部屋に入っていないって……」
ならば、この短剣はどこから? 誰が? どのように?
青荷が頭を悩ませていると、蘭明蕙はゆるりと部屋の中を歩き、やがて屏風の前で足を止めた。そして、細い指先をそっと屏風の表面へ滑らせる。
「……おもしろいわね」
青荷と珀然が同時に視線を向ける。
「何かお気づきですか?」
蘭明蕙は微笑み、指先をくるりとひねった。
「ええ。これは、影を使ったトリックよ」
青荷は「また出た!」とばかりに目を丸くする。
「影、ですか? つまり、犯人は影に紛れて……」
「いいえ、もっと単純なことよ」
蘭明蕙は屏風をコンコンと軽く叩き、意味ありげな笑みを浮かべた。
「誰もいない部屋で起きた殺人――そんなもの、名探偵の暇つぶしにはもってこいだわ」
青荷は「はぁ……また始まった」と肩を落とした。珀然は静かに唇を歪め、皮肉っぽく呟く。
「これはまた……面倒な遊びになりそうだな」
そして、事件は幕を開ける。
@影絵の謎
調査が進むにつれ、張徳安が最近、皇后・沈玉蘭の動向を探っていたことが明らかになった。
柳青荷は目を輝かせ、身を乗り出す。
「つまり、皇后様に関係する秘密を掴んでしまったから殺されたんですね?」
推理小説の登場人物にでもなった気分で興奮気味に語る青荷を、蘭珀然は冷静に見下ろし、腕を組んだまま首を振った。
「しかし、どうやって殺害した? 見張りがいたのに、誰も部屋に入らずに殺された。そんなことはありえない」
「でも、皇后様が関わっているなら、何かしらの陰謀が――」
「陰謀は結構だけれど、大事なのは方法よ」
蘭明蕙がそう言いながら、静かに屏風の前へ歩み寄る。そのまま立ち止まり、じっと部屋の明かりを見つめた。
「屏風に映る影は、まるで人のように見えるでしょう?」
青荷は首を傾げながら屏風に近づき、反対側から覗き込む。そして、次の瞬間、目を丸くした。
「本当だ! 影がまるで人みたいに見える……ってことは、まさか!」
「そう」
蘭明蕙はゆっくりと扇を開き、口元に微笑を浮かべる。
「犯人は『影』を操っていたのよ」
青荷は「そんなことが……!」と驚きのあまり屏風に近づきすぎ、バランスを崩してゴトンと転んだ。
「い、痛っ……!」
一方、蘭珀然は淡々とした表情で、呟くように言った。
「影を操る……まるで幻術のような話だな」
「ええ。でも、これは幻ではなく、巧妙な仕掛けよ」
蘭明蕙は屏風を軽く叩きながら、意味ありげに微笑んだ。
青荷は慌てて立ち上がり、埃を払いつつ呟く。
「太后様、もしかしてまた面倒な推理が始まるんじゃ……?」
「さぁ、どうかしら?」
飄々とした笑みを浮かべる太后を見て、青荷は「絶対に始まる……」と確信した。
@仕掛けられた短剣
張徳安が殺された屏風の裏を調べていた蘭珀然は、指先で何かを確かめるように撫でた。
「……これは?」
彼が力を加えると、カチリと小さな音が鳴り、何かが動く気配がした。
「ちょっと待って!」
柳青荷が慌てて飛び退く。次の瞬間、シュッ! と鋭い音を立てて、短剣が飛び出した。
「うわあああ!?」
青荷は悲鳴を上げながら、転がるように後退。短剣は屏風に突き刺さり、わずかに揺れている。
「お、おそろしすぎる仕掛けなんですけど!」
床に尻もちをついたまま震える青荷に、蘭珀然は冷静な口調で告げた。
「これは、灯りが消えると同時に作動する仕掛けだな」
青荷は唖然としながら指を震わせる。
「ま、まさか勝手に飛び出して刺さるとか?」
「そうだ。仕組みは単純だが効果的だ。おそらく、糸やバネを使って短剣が発射される構造になっている」
「簡単に言わないでくださいよ! もしさっきのが私に当たってたら――」
「そうしたら、犯人の計画が狂っていただろうな」
「そんな問題じゃないです!」
青荷が涙目になって抗議すると、蘭明蕙は楽しそうに扇で口元を隠しながら微笑んだ。
「つまり、犯人は遠くから明かりを消すだけでよかったのね」
「で、でも、どうやって灯りを消したんですか?」
青荷がまだ半泣きのまま尋ねると、蘭明蕙は扇を閉じ、優雅に立ち上がる。
「ふふ、それもすぐに分かるわよ」
その言葉に、青荷は不安そうに眉をひそめ、蘭珀然は静かに微笑を浮かべた。
(どうか、もう危ない仕掛けには触れませんように……!)
青荷は心の中で切実に願いながら、二人の後を追った。
@犯人の正体
「香炉が原因です」
方慧仙がすらりとした指で問題の香炉を指し示しながら言った。
「この香には特殊な成分が含まれていて、一定時間が経つと急激に燃え尽き、煙が立ちこめるのです。その煙で灯りが消えたのでしょう」
「ええええっ!?」
柳青荷が、まるで雷に打たれたような勢いで驚く。
「そんなことってあるんですか!? 香が消えると同時に部屋が真っ暗になって、その瞬間に短剣が……?」
「すごい偶然ね」
蘭明蕙が涼しい顔で茶をすすりながら呟く。
「いや、偶然じゃないですって!」
青荷は慌てて屏風を指差しながら続ける。
「つまり、香を置いた人物が犯人……?」
調査を進めると、その香を持ち込んだのは御薬房の女官・韓蓮香だった。
***
韓蓮香は、しどろもどろになりながらも、震える手で胸元を押さえた。
「私……私は命令されたのです……!」
「命令?」
蘭明蕙が扇を閉じ、ゆっくりと顔を上げると、韓蓮香はさらに縮こまる。
「皇后様から……張徳安様が余計なことを知ったから、消すようにと」
柳青荷は目を丸くした。
「おお、ついに黒幕の名前が出た! ……ってことは、この事件、やっぱり皇后様が――」
「まあまあ、青荷」
蘭明蕙が優雅に扇を広げる。
「まだ結論を急ぐのは早いわよ」
「えっ、でも告白しましたよね?」
「ええ。でも、皇后が直接『殺せ』と言ったのかしら?」
「そ、それは……!」
韓蓮香はぎゅっと口を閉じるが、汗が頬を伝っている。
蘭明蕙はふっと微笑んだ。
「さあ、もう少し話してもらおうかしら?」
青荷は心の中で(太后様、絶対楽しんでる!)と叫びながら、韓蓮香をちらりと見やった。
果たして彼女は真相を語るのか、それとも――?
@太后の裁き
紫霄宮の広間には、ゆったりとした静寂が広がっていた。蘭明蕙は、優雅に茶碗を持ち上げると、ゆっくりと口をつける。
湯気が静かに立ち上り、部屋の空気を満たしていたが、その一方で、正座させられた韓蓮香の額には冷や汗が浮かんでいた。
「つまり――皇后が黒幕ね」
淡々とした口調で告げられた言葉に、柳青荷は息をのむ。
「では、皇后様を……?」
期待するような、しかし恐る恐るといった声で尋ねると、蘭明蕙はほんのり微笑んだ。
「いいえ」
「えっ?」
青荷が思わず前のめりになる。その横で、蘭珀然が腕を組み、肩をすくめた。
「つまり、どうしようもないと?」
「証拠がない以上、表沙汰にはできないわ」
蘭明蕙は扇を広げ、軽く風を送る。その動作すら優雅だったが、韓蓮香の顔はどんどん青ざめていく。
「で、ですが……!」
「でも、一つだけ 暇つぶし にいいことがあるわね」
蘭明蕙は穏やかに茶をすする。その一方で、扇の先をくいっと韓蓮香の方へ向けた。
「あなた、皇后に従ったとはいえ、人を殺めるのは罪よ」
韓蓮香の肩がぴくりと震える。
「そ、それは……!」
「だから、罪滅ぼしに 私のために 働いてもらおうかしら?」
ニッコリと微笑む蘭明蕙。しかし、その笑顔はまるで満開の花のように美しいのに、底知れぬ冷たさがあった。
「ひっ……!!」
韓蓮香の顔が凍りつく。背中にびっしょりと汗が滲んでいた。
その様子を見て、柳青荷はこっそりと蘭珀然に囁いた。
「……太后様って、ほんとに恐ろしい方ですよね」
「今さらだろう?」
蘭珀然はため息混じりに呟いた。
茶の香りが静かに広がる紫霄宮の一室で、太后の “暇つぶし” はまだまだ続きそうだった。
紫霄宮の静かな朝。
しん……と張り詰めた空気の中で、蘭明蕙は優雅に茶をすすった。湯気がゆらゆらと立ち上り、まるで事件の余韻まで消してしまうかのようだった。
「これでまた暇になっちゃうわ。」
ぽつりと零れた言葉に、柳青荷の動きが止まる。
(……でた! 太后様の「暇」発言!!)
青荷はそっと蘭珀然に視線を向けたが、彼もまた目を細め、遠い目をしていた。
(この言葉が出ると、なぜかまた事件が起こるのよね……!)
内心で頭を抱える青荷をよそに、蘭明蕙は満足げに茶をすすり、のんびりと庭を眺めていた。
まるで「次の事件、まだかしら?」とでも言いたげな、その余裕たっぷりの姿に、青荷は思った。
(いっそ、後宮の神様に祈った方がいいかしら……どうか、しばらく平穏が続きますようにって)
しかし、そんな願いが叶った試しはない。
そして案の定――。
「大変です!! 今度は翡翠苑で妃が……!」
廊下の向こうから慌ただしい叫び声が響く。
「ほらね!!!」
青荷は天を仰ぎ、心の中で絶叫したのだった。




