65 「香炉の毒煙」 「後宮の名探偵・大后様の暇つぶし」
太后の「暇」宣言
朝の紫霄宮は、しんと静まり返っていた。
広々とした殿内には、ほんのりとした沈香じんこうの香りが漂い、微かな鳥のさえずりが遠く聞こえる。絹張りの帳越しに射し込む朝の光が、淡い金色の陰影をつくり、床に敷かれた繊細な絨毯の模様を浮かび上がらせていた。
蘭明蕙らん めいけいは、白磁の茶碗を手に取り、ゆったりと茶をすすった。長い黒髪を簪かんざしでゆるくまとめ、身に纏った淡い紫の衣が、動くたびに滑らかに揺れる。
「はぁ……暇ねぇ」
ため息とともに吐き出された言葉は、静かな空間に溶け込むように響いた。
その隣では、侍女の柳青荷りゅう せいかが、(また始まった……)と心の中で小さく嘆息しながら、慣れた手つきで太后の好物の胡麻菓子を皿に並べた。
「退屈なら囲碁でもいかがですか?」
「昨日もやったわ」
「では、筆跡鑑定の練習を?」
「面白くないわ」
柳青荷はちらりと太后の表情を伺った。気怠げに肘をつき、玉指ぎょくしで茶碗の縁をなぞっている。どうやら、いつもの「何か面白いことが起こらないかしら」状態に入ってしまったらしい。
これは厄介だ。
太后がこうなると、下手に何か提案しても全て却下されるのがオチだ。柳青荷は内心で腕を組み、(さて、どうするか……)と策を練る。そして、ふと思いついたように口を開いた。
「……では、何か事件でも起こればいいですね?」
この言葉に、太后はぴたりと動きを止めた。そして、ゆるりと柳青荷の方を向く。
「ええ、それが一番手っ取り早いわ」
その瞬間。
「太后様、大変です!」
殿内の静寂を破るように、息を切らした宮女が駆け込んできた。肩で息をしながら、必死に言葉を続ける。
「蘭香院で女官が亡くなりました!」
柳青荷はぽかんと目を丸くした。
太后は、茶碗をそっと卓に置き、ゆっくりと口角を上げた。
「ふふ、ようやく暇がつぶれそうね」
柳青荷は(まさか本当に事件が起こるなんて……)と、冷や汗をかきながら、思わず喉を鳴らした。
@眠るように死んだ女官
蘭香院の一室は、朝の光が差し込むにもかかわらず、どこか異様に静まり返っていた。
寝台の上では、若い女官・魏紅蓮ぎ こうれんが、まるで心地よい眠りの途中で時間を止められたかのように、静かに横たわっている。肌はまだ温かみを残しており、顔には苦痛の表情もない。
まるで、ふかふかの枕に包まれたまま、極上の夢の中で旅立ったかのようだった。
……が、それが問題だった。
「病死にしては妙ですね」
眉をひそめた柳青荷りゅう せいかが、魏紅蓮の顔を覗き込む。
「顔色も悪くないし……。こんな安らかに死ぬ毒なんて、聞いたことないんですけど」
「毒ならあるわよ」
その声に振り向くと、そこには御薬房の長・方慧仙ほう けいせんがいた。
長年の経験を感じさせる落ち着いた佇まいで、魏紅蓮の手首を取り、脈を確かめる。目を閉じて考え込むことしばし——そして、ポツリと呟いた。
「毒ね」
「毒!?」柳青荷の目がまん丸になる。「でも、食事には異常がなかったはずでは?」
「ええ、これは即効性ではなく、じわじわと効くタイプのもの。しかも、経口摂取じゃない」
「つまり……?」
方慧仙はゆっくりと室内を見回し、ある一点でピタリと視線を止めた。そして、まるで劇的な効果を狙ったかのように、すっと指を伸ばす。
「——これが怪しいですね」
柳青荷の視線の先にあったのは、部屋の中央に鎮座する香炉。
「ええ、確かに怪しいですよね」柳青荷は頷く。
「……怪しいですね?」
……ん?
一瞬、脳内に疑問符が浮かんだ。
「えっと、怪しいのは分かるんですけど……どう怪しいんですか?」
柳青荷の問いに、方慧仙は余裕の笑みを浮かべ、ゆったりとした口調で答える。
「毒は空気を通じて吸い込んだのでしょう」
「空気……? まさか……」
「そう、魏紅蓮は毒の煙によって死んだのです」
この瞬間、柳青荷の脳裏に浮かんだのは、魏紅蓮がのんびりと香炉の煙を嗅ぎながら、「ふぅ、いい香り……」とリラックスして、そのままぽっくりいってしまう光景だった。
(え、そんな呑気な死に方って……!?)
柳青荷は改めて魏紅蓮の安らかな寝顔を見て、思わず口を押さえた。
いや、事件の深刻さは理解している。理解しているのだが……
まるで温泉につかりながら「極楽極楽~」って言ってたら、そのまま昇天してしまったみたいじゃないか。
柳青荷はこっそり隣の太后・蘭明蕙らん めいけいの方を見た。
「ほう……毒の煙ね」
太后はいつもの余裕たっぷりな微笑みを浮かべながら、面白そうに香炉を眺めている。
(え、ちょっと待って。この人、楽しんでません?)
「ふふ……ようやく暇がつぶれそうね」
——やっぱり楽しんでた!!!
柳青荷は心の中で頭を抱えた。
@香炉に仕組まれた毒の謎
蘭香院の部屋には、まだ昨夜の名残をとどめる香の匂いがほのかに漂っていた。
その中心に鎮座するのは、問題の香炉。
小ぶりながらも繊細な彫刻が施されたそれは、見るからに高価な品だった。が、今この場では「毒を撒き散らした凶器」の容疑者である。
太后・蘭明蕙らん めいけいは指先で香炉の灰をつまみ、鼻先に軽く寄せる。
「……なるほど。普通の香とは少し違うわね」
その仕草はまるで新作の茶葉を品評する茶人のように優雅だったが、実際に品評しているのは殺人の証拠品である。
柳青荷りゅう せいかは興味津々で香炉を覗き込み、太后の真似をして灰をつまもうとするが——
「ちょっと待った!」
横から方慧仙ほう けいせんが手を伸ばし、柳青荷の手を制止した。
「無闇に触るのは危険ですよ。この灰にまだ毒が残っているかもしれません」
「ひぃっ!?」
柳青荷は反射的に手を引っ込め、慌てて袖で指先をゴシゴシ拭う。
「そんな大事なことは早く言ってください!」
方慧仙は苦笑しながら、慎重に香炉を調べ始めた。そして、ゆっくりと説明する。
「この香は通常のものと違い、最初の数時間は普通の香りを発します。しかし、時間が経つと成分が変化し、毒性を持つ煙を出すようになるのです」
柳青荷は目を丸くした。
「つまり……最初は無害だから警戒されない。でも、時間が経つと毒ガス兵器になるってことですか!?」
「兵器と言うほどではないけれど、狙いはその通りね」
太后は相変わらず落ち着き払った様子で、再び香炉を眺める。
「魏紅蓮は香を焚いたまま眠り、夜明け前に毒の煙を吸って亡くなった……?」
「ええ。非常に巧妙な手口です」
方慧仙が頷くと、柳青荷は腕を組み、ふむむ……と唸った。
「でも、どうして魏紅蓮が狙われたのでしょう?」
そう呟いた瞬間、太后がフッと微笑む。
「……それを探るのが、これからの『暇つぶし』よ」
——その言葉を聞いた柳青荷は、思わず遠い目になった。
(この人、ほんとに楽しそう……)
こうして、「毒の香炉殺人事件」の幕が上がるのだった。
@魏紅蓮の秘密と香炉の出どころ
蘭香院の事件を受け、太后・蘭明蕙らん めいけいの「暇つぶし捜査」が本格的に始まった。
「魏紅蓮が最近、翡翠苑の麗妃・程麗真てい れいしんに仕えていた……?」
柳青荷りゅう せいかは眉をひそめながら、疑問を口にした。
「麗妃様といえば、静かで穏やかな方ですよね? 後宮の権力争いにもあまり関わらないって……」
「そう思うか?」
不意に低い声が割って入る。
宦官・蘭珀然らん はくらんが腕を組み、冷静な表情で言った。
「彼女は確かに争いには加わらないが、その代わり情報はよく集めている。魏紅蓮は最近、麗妃の密命を受けて何かを調べていたらしい」
「何を調べていたの?」
「それがまだ分からない」
蘭珀然はゆっくりと首を振る。
「だが、魏紅蓮は何かを知ってしまった。それが彼女の命を奪う原因になった可能性が高い」
柳青荷はゾクリと背筋を震わせた。
「まるで口封じ……」
「その可能性は十分あるわね」
太后は微笑みながら、ゆっくりとお茶をすすった。まるで宮中茶会の話題を楽しんでいるかのように優雅だったが、話している内容は命がけの陰謀である。
さらに調査を進めると、事件のカギを握るもう一つの事実が判明した。
——魏紅蓮の部屋にあった毒の香炉。
その中の香が、御薬房で作られた特注品だったのだ。
「誰がこの香を用意したのか?」
柳青荷は香炉をじっと見つめ、眉をひそめる。
太后はすっと指を立てると、ゆるく微笑んだ。
「さあ、それを調べてみましょう」
そして、調査の結果……
「……韓蓮香かん れんこう?」
柳青荷は思わず目を見開いた。
御薬房の女官・韓蓮香。香の調合を担当していたのは彼女だった。
「こ、これは……黒幕確定ってことですか!?」
柳青荷が大げさに両手を挙げると、蘭珀然が呆れたように肩をすくめた。
「おいおい、まだ決めつけるな」
「確かに韓蓮香が香を作ったけれど、それを魏紅蓮の部屋に置いたのが彼女とは限らないわ」
太后は涼しい顔で言う。
「むしろ、ここからが本番ね」
柳青荷は(えっ、まだ『暇つぶし』が続くんですか!?)という顔で太后を見つめたが——
太后は茶をひとすすりし、優雅に言い放った。
「真相が分かるまで、退屈する暇もなさそうね」
@犯人の正体と動機
御薬房の一角で、女官・韓蓮香かん れんこうはがたがたと震えていた。
目の前には紫霄宮の主・蘭明蕙らん めいけいが、まるで上等な茶葉を吟味するかのような冷静な目で彼女を見下ろしている。
柳青荷りゅう せいかは腕を組み、身を乗り出した。
「さあ、白状してもらいましょうか!」
韓蓮香はうつむき、唇を噛んでいたが……やがて観念したようにぽつりとつぶやいた。
「……私は、命令されたのです……」
柳青荷は一瞬驚き、思わず聞き返す。
「命令? 誰に!?」
韓蓮香の肩がびくりと震え、搾り出すように口を開いた。
「沈玉蘭様しん ぎょくらん……皇后様です」
「ええっ!?」
柳青荷は目をまん丸にし、蘭珀然らん はくらんも「なるほど」と眉を上げた。
後宮の頂点に立つ皇后が、この事件の黒幕——!?
柳青荷は慌てて詰め寄る。
「で、でも! 皇后様はなぜ魏紅蓮を殺さなきゃならなかったんですか?」
韓蓮香は目を伏せ、おそるおそる答えた。
「……魏紅蓮は、麗妃様が密かに皇帝の動向を探っていることを知ってしまったのです……」
「えっ、麗妃様が!?」
今度は柳青荷だけでなく、蘭珀然も目を丸くする。
「麗妃様といえば、いつも静かで穏やかな方じゃ……」
「そう見えて、彼女は裏で情報を操っていたのです」
韓蓮香の声は小さかったが、その言葉の重みは強烈だった。
麗妃・程麗真てい れいしんは、皇帝が誰を寵愛し、誰を遠ざけようとしているのかを探り、密かにその情報を操っていた。
魏紅蓮はそのことに気づき、皇后派に密告しようとした。
しかし——
「それを知った皇后様が、魏紅蓮を消せと命じたのですね……」
太后・蘭明蕙はすっと茶をすすりながら、優雅にまとめる。
韓蓮香は小さく頷いた。
柳青荷は額を押さえ、「やっぱり後宮って怖い……」とふるふる震えた。
「要するに、麗妃様は情報を操って後宮の勢力争いに干渉しようとしていた。その動きを察知した皇后様が、それを暴露される前に魏紅蓮を消した、ってことですか……」
蘭珀然は腕を組んで考え込み、低くつぶやいた。
「ふむ……となると、次に皇后が狙うのは——」
柳青荷が顔を上げた瞬間、蘭明蕙はくすりと微笑んだ。
「さて、誰かしら?」
その言葉に、柳青荷は冷や汗を流した。
「も、もしかして私たちも巻き込まれるんじゃ……!?」
「ふふ、面白くなってきたわね」
太后はまるで上質な戯曲を観賞するかのように、上品に笑った。
@太后の裁き
紫霄宮の静寂の中、蘭明蕙らん めいけいは悠々と茶を口に運ぶ。
すべての真相が明るみに出た後でも、その仕草は変わらない。
「……なるほど」
茶碗をゆっくりと置き、上品な指先で軽く縁を撫でながら、彼女は静かに言った。
「魏紅蓮は密告しようとした。でも、それが仇となったのね」
柳青荷りゅう せいかは息をのんだ。
「じゃあ……やっぱり皇后様が黒幕、ということに?」
太后はふっと微笑む。
「いいえ」
柳青荷は思わず前のめりになる。
「えっ!? で、でも、命令を出したのは皇后様で——」
「それはそう。でも、証拠がなければどうにもならないわ」
蘭珀然らん はくらんが苦笑する。
「つまり、表沙汰にはできない、と」
「ええ。」
太后は優雅に微笑んだまま、韓蓮香かん れんこうを見つめる。
韓蓮香は肩を震わせながら、ぎゅっと拳を握っていた。
太后の微笑みが、じわりと冷たく感じられる。
「でも、一つだけ……暇つぶしにいいことがあるわね」
韓蓮香の背筋がぴくりと強張る。
「あなた——皇后に従ったとはいえ、人を殺めるのは罪よ」
「そ、それは……」
韓蓮香の顔が蒼白になる。
「だから、罪滅ぼしに——」
太后はさらに微笑み、 慈愛に満ちた声で告げた。
「私のために働いてもらおうかしら?」
「ひっ……!!」
韓蓮香は青ざめ、がくがくと震え始めた。
「……つまり、裏切れば次は自分がどうなるか分かってるわよね?」
太后は何も言わず、ただ微笑んでいるだけだった。
しかし、その意味は痛いほど明白だった。
韓蓮香は血の気を失い、深々と床に額をつけた。
「は、はい……太后様の……お、お側でお仕えします……」
柳青荷は眉をひそめ、小声で蘭珀然に囁く。
「……太后様って、ほんとに恐ろしい方ですよね」
「今さらだろう?」
蘭珀然は淡々とした声で言いながら、そっと茶をすする。
こうして、後宮に新たな「太后の駒」が加わったのだった——。
@太后の「暇」再び
紫霄宮の朝。
穏やかな日差しが障子越しに差し込み、ゆったりとした時間が流れている。
蘭明蕙らん めいけいは、優雅に茶を口に含み、ふぅと満足げに息を吐いた。
「……これでまた暇になっちゃうわ」
柳青荷りゅう せいかは、思わず手元の盆をぐっと握りしめる。
(また始まった……!)
事件が解決し、ようやく平穏が戻ったはずなのに、太后の口から出たのは「暇」の一言。
——それはすなわち、新たな事件が起こる前触れである。
柳青荷はそっと蘭珀然らん はくらんに目をやると、彼もまた静かに溜息をついていた。
(絶対に次の事件が起こるフラグだ……)
——その確信を胸に、柳青荷は遠い目をしたのだった。




