6 密室の死 ⑤
寝殿の一室、揺れる燭光の下で、太后・蘭明蕙らん めいけいは杯の中の茶をゆっくりと回した。
「……なるほどね」
柳青荷りゅう せいかは不安そうに眉を寄せた。「つまり、春蘭は最初から利用されていた……?」
「ええ」太后は淡々と答えた。「彼女が密かに接触していた相手は、馮玉蓮の背後にいた貴妃だった。そして、その貴妃こそが、後宮の権力闘争の一環として馮玉蓮を排除するよう仕向けた黒幕よ」
馮玉蓮はただの妾ではなかった。彼女の存在は後宮の均衡を崩す可能性を秘めていた。もし皇帝の寵愛を独占し、正室を脅かす存在になれば、誰かがそれを阻止しようと動いてもおかしくはない。
だが、黒幕は自ら手を下すことはしなかった。代わりに、馮玉蓮に恨みを抱く春蘭を利用したのだ。
「春蘭は馮玉蓮に酷く扱われていた。だから復讐を決意し、黒幕にとって都合のいい駒になった……」柳青荷は苦しげに呟いた。「でも、彼女は“駒”に過ぎなかったのですね」
蘭明蕙はそっと杯を置くと、扇を開いて静かに揺らした。
「ええ。そして、用済みになった途端に捨てられた。自ら死を選ぶよう、追い込まれる形でね」
柳青荷は唇を噛んだ。春蘭の最期の言葉が思い出される——「私はただの駒」
「黒幕は、春蘭が捕まることも、彼女が自白することも織り込み済みだったのでしょうか……?」
「ええ。最初から、完全に計算されていたはずよ。」
蘭明蕙は目を細め、微笑を浮かべた。
数日後ーー
「太后様、李玄清り げんせいが見つかりました」
突然報告に来た影衛司が李玄清の元に案内する。
静かな部屋の中、薄暗い灯火のもとで李玄清り げんせいは息を詰まらせながら横たわっていた。額には汗が浮かび、白い衣が血で染まっている。影衛司の手によって間一髪のところで救出された彼は、意識が朦朧としながらも、必死に何かを訴えようとしていた。
「……書簡……」
太后・蘭明蕙らん めいけいはそんな彼を見下ろしながら、扇を軽く振った。
「李玄清、あなたがこんな目に遭うなんてね」
李玄清はかすかに笑みを浮かべた。「まさか……私が……生きて戻るとは……思っていなかったのでしょうね……」
青荷せいかが慌てて李玄清に水を含ませる。彼は喉を潤し、荒い息を整えると、苦しげに続けた。
「馮玉蓮が持っていた……書簡……それは……後宮の闇を暴くものだった……」
大后の目が僅かに細まる。
「具体的には?」
「……皇帝すら……知らぬ……後宮の影……」
李玄清の声は途切れ途切れだったが、彼の表情には焦燥の色が滲んでいた。それほどまでに、その書簡は重大な秘密を孕んでいるということだ。
「しかし……」李玄清の目が暗くなる。「事件当日……その書簡は……馮玉蓮の部屋から消えていた……」
青荷が驚いた顔で大后を見た。「では、今その書簡は……」
「……黒幕の手の中か……あるいは、まだこの宮のどこかに……」
大后はゆっくりと扇を閉じた。
「なるほどね」
彼女の口元には、わずかに愉快そうな微笑が浮かんでいた。
影衛司の迅速な動きにより、黒幕の貴妃はその罪を暴かれ、失脚した。彼女の後ろ盾となっていた重臣たちもまた処罰を受け、今回の事件は表向き解決したかに見えた。
後宮には再び静寂が訪れ、喧騒に満ちていた数日間がまるで幻だったかのように思えた。侍女たちは普段通りの仕事に戻り、宮廷の誰もが「これで全て終わった」と信じた。
しかし——
「でも、これで全て終わったわけではないわね」
蘭明蕙らん めいけいは、紫霄宮の奥で静かに微笑んだ。
彼女の目の前には湯気の立つ茶碗。そして、その指先で転がすのは、細やかな細工が施された金の扇。
柳青荷りゅう せいかは、不安げに眉を寄せた。「……何か、まだ引っかかることが?」
「ええ」蘭明蕙はゆっくりと扇を開きながら答えた。「事件は表面上片付いたけれど、肝心なものが消えたままなのよ」
青荷はハッとした。「書簡……!」
「そう」太后は優雅に茶を啜る。「事件当日、馮玉蓮の部屋から姿を消したまま、どこにも見つかっていない。影衛司がいくら探しても、ね」
馮玉蓮が死の直前まで隠し持っていたという密書。それが、事件の核心に関わる重要な手がかりであったことは間違いない。しかし、それを手にしたのは誰か? もしそれがまだどこかに潜んでいるとしたら……。
この事件の裏には、さらに大きな陰謀が潜んでいる。