59 千里眼の猫 「後宮の名探偵・大后様の暇つぶし」
千里眼の猫 「後宮の名探偵・大后様の暇つぶし」
春の紫霄宮──退屈な太后と千里眼の猫
春の陽光が柔らかく差し込み、紫霄宮の庭には穏やかな風が吹いていた。白梅の花がほのかに香り、池の水面は鯉が跳ねるたびに小さく波紋を広げる。そんな麗らかな午後、東屋の一角では、蘭明蕙がしなやかな指先で愛猫・玉雪の毛並みを撫でていた。
「はぁ……今日も暇ねぇ……」
太后は長いまつげを伏せ、退屈そうに嘆息する。その膝の上では、玉雪が優雅に喉を鳴らしていた。
「太后様がそう言うと、また何か起こるのでは?」
柳青荷は、いかにも楽しげな口調で言いながら、湯気の立つ茶碗をそっと卓に置いた。その言葉に、太后はふっと笑みを浮かべる。
「まさか。世の中、そうそう都合よく事件が起こるものじゃないわ」
その瞬間だった。
「にゃぁぁん」
突然、玉雪がピクリと耳を動かし、庭の片隅に向かって飛び降りた。白い毛並みをなびかせながら、まっすぐに駆けていく。その先には、年季の入った青磁の花瓶が置かれている。
「……あら?」
玉雪はその場にぺたりと座ると、じっと花瓶を睨みつけ、前足で床を引っ掻き始めた。まるで「ここに何かある」とでも言いたげな仕草だ。
「ほら、青荷。うちの猫まで暇を持て余しているわ」
太后は優雅に袖を払うと、花瓶を持ち上げてみた。すると──
「ん?」
床の隙間から、わずかに巻物の端が覗いていた。
「おやおや……?」
柳青荷が目を丸くする。太后は唇の端をゆるく吊り上げ、楽しげにその巻物を引き抜いた。
「これは……密書?」
蘭明蕙の指先にあるのは、明らかにただの書物ではなかった。黒い絹糸で巻かれたそれは、皇帝に宛てられた極秘の文書のようだ。
「太后様……また何か、始まりそうですね?」
「ふふっ。これは面白くなってきたわね」
玉雪はすました顔で前足を舐めていたが、その青い瞳は、まるで全てを見通しているように輝いていた。
@密書と千里眼の猫
◆紫霄宮・東屋◆
「ふむ……」
紫霄宮の庭では、蘭珀然が発見された密書を手に取り、静かに見つめていた。彼の端正な顔には微かな考えの色が浮かんでいる。
「中身を見れば差出人が分かるのでは?」と、柳青荷が覗き込む。
「そのはずだったんだけどね」
蘭珀然はため息をつきながら、密書の端を指でなぞる。
「どうも、わざと水を垂らして署名を滲ませたようだ。まるで、誰が書いたのか分からなくするためにね」
「まぁ!」
柳青荷は驚いたが、当の太后・蘭明蕙は泰然と猫を撫で続けている。
「誰かが意図的に隠したのね。となると、これはますます面白くなったわ」
ちょうどその時だった。
「太后様!」
慌ただしく駆け込んできたのは、皇后・沈玉蘭だった。彼女は美しい衣の裾を翻し、眉をひそめながら密書を見つめる。
「それは……私が探していたものです」
庭がしんと静まり返る。
「……まあ」
太后は涼しげな目元を軽く上げ、「皇后様が探していたものが、うちの庭の花瓶の下から出てきたの?」と、どこか愉快そうに問いかける。
「そ、そうです。大切な文書で、誤って紛失してしまいましたの」
皇后は微笑みを浮かべたが、その視線は微妙に揺れていた。
「ふぅん。大切なものがなぜこんなところに……偶然かしら、それとも……」
太后は撫でていた玉雪を抱き上げ、猫の青い瞳を覗き込む。
「うちの猫が千里眼でも持っているのかしら?」
玉雪は「にゃあ」と鳴き、どこか得意げにしっぽを揺らした。
◆夜・紫霄宮の一室◆
密書の話が後宮中に広まり始めた夜、そっと太后の部屋を訪れた者がいた。
「太后様……密書について、少し気になることがございます」
現れたのは、御薬房の長・方慧仙だった。
「ほう?」
太后は細長い指で茶碗を持ち上げ、一口含む。
「何か分かったの?」
「ええ……密書には、微かに魚の匂いがついておりました」
「魚の匂い?」
柳青荷が小さく眉を寄せる。
「はい。まるで、意図的に染み込ませたかのように」
部屋に静寂が落ちる。やがて、太后は「ふふっ」と軽く笑い、猫の頭を優しく撫でた。
「なるほど……これは、ますます興味深くなってきたわね」
玉雪は再び「にゃあ」と鳴き、まるで「当然でしょう?」と言いたげに目を細めるのだった。
***
◆紫霄宮・太后の執務室◆
「さて、密書はどこから来て、誰がここに置いたのかしらね?」
太后・蘭明蕙は玉雪を撫でながら、優雅にお茶を啜る。その隣で、柳青荷は小さく唸りながら巻物を広げている。
「密書の件、影衛司に探らせてみてはいかがでしょう?」
「ええ、そうねぇ」
太后は軽く扇を開き、「星河を呼びなさい」と、にこりと微笑んだ。
影衛司の密偵・陳星河が音もなく部屋に現れた。
「太后様、ご用命とあらば何でも」
「最近、不審な動きをした者は?」
太后が尋ねると、星河は口角を少し上げる。
「ふむ……密書が発見される前後、蘇青荷が何者かと密かに言葉を交わしておりました」
「皇后派の宦官長が?」
青荷が身を乗り出すと、星河は冷静に頷いた。
「ええ。しかも、その時の表情がなかなか面白かったですよ。まるで、大切なものを失くした子供のように慌てふためいていました」
「ほぉ、慌てふためく宦官長ねぇ」
太后はくすりと笑い、扇を軽く閉じる。
その頃、蘭珀然は密書について腕を組みながら考え込んでいた。
「……何か引っかかるんだよな」
「何がです?」
青荷が尋ねると、蘭珀然はやや呆れたような顔で言った。
「皇后が『探していた』って言ったことさ。密書がここで発見されるまで、誰もそれを見つけたとは言っていないのに」
「たしかに!」
青荷が目を丸くする。
「もし、皇后様が本当にそれを探していたのなら、密書が『無くなった』ことを事前に知っていたということですよね?」
蘭珀然は小さく笑う。
「そういうことさ。さて、どういう意味なのか、ちょっと考えてみるとしようか」
***
紫霄宮
一方、青荷は密書発見直後の宦官たちの動きを観察していた。
「……確かに、蘇青荷様が誰かとこそこそ話していました」
「誰と?」
「遠目だったので顔までは分かりませんが、様子が尋常じゃありませんでしたよ」
青荷は身振りを交えて説明する。
「まるで、お腹が痛いのにトイレに行けない人みたいにソワソワしてて、最後は深いため息をついてました」
「なるほど……」
太后は玉雪を撫でながら、意味深に微笑んだ。
「密書が見つかって困る人がいる、ということね」
玉雪は「にゃあ」と鳴き、まるで「当然でしょう?」と言わんばかりに尻尾を揺らすのだった。




