57 「燃えない蝋燭」 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
@ 太后の暇つぶし
紫霄宮の庭園には、穏やかな春の陽射しが降り注いでいた。薄紅色の梅がほのかに香り、池の鯉が気ままに水面を揺らす。
蘭明蕙は美しい刺繍が施された椅子に腰を下ろし、白磁の茶碗をゆっくりと傾ける。金木犀の香りがふんわりと立ちのぼり、彼女の唇がかすかにほころんだ。
すぐそばでは、侍女の柳青荷が几帳面に菓子を並べている。まるで芸術作品のように美しい点心の数々に、太后は興味深げに目を向けた。
ぱくり。
ひとつ口に含み、静かに味わう。
「……これでまた暇になっちゃうわ」
ぽつりと漏れた呟きに、青荷は思わず手を止めた。
「……太后様、事件がないと退屈なんですね……?」
呆れ混じりの声に、蘭明蕙はゆるりと扇を広げる。
「ええ、穏やかな日々は美しいけれど、刺激が足りないわね」
優雅な笑みを浮かべながら、茶を啜るその姿は実に余裕たっぷり。まるで後宮の中で最もくつろいでいるのが、この太后であるかのようだった。
しかし——。
「太后様、大変です!」
突如、庭園の静寂を破るように、若い侍女が駆け込んできた。
息を切らし、顔を真っ赤にした彼女は、必死に言葉を続ける。
「穆雪玲妃様の部屋が、火事に——!」
しん……と、一瞬の静寂。
蘭明蕙は、茶碗をそっと置くと、扇の奥で口角をわずかに上げた。
「……あら、それは面白いわね」
ぱちん。
扇が音を立てて閉じられる。
「ま、またそんなことを……!」
青荷は、思わず頭を抱えた。
庭園に咲き誇る梅の花が、まるで「また厄介ごとが始まる」と囁いているかのように、風に揺れていた——。
@ 妃の部屋の火事
翡翠苑の一角に、焦げた木の匂いが漂っていた。煙は収まっていたものの、部屋の内部は黒く焼け焦げ、そこかしこに煤が舞っている。
外では、侍女たちが口々に不安げな声を上げていた。
「まあ……お部屋がこんなことに……」
「でも、どうして火がこんなに広がったのかしら……?」
そこへ、ひらりと優雅に登場する蘭明蕙。
「妃様は……無事なの?」
ゆるりと扇を開きながら尋ねると、隣で控えていた青荷が頷いた。
「はい、間一髪で救出されました。お部屋は燃えましたが、幸い大事には至らず……」
その言葉に、ようやく穆雪玲が震える唇を開く。豪華な刺繍が施された衣が焦げくすんでいるのが、なんとも痛々しい。
「火が急に……でも、奇妙なのです。私の部屋の蝋燭だけ、燃えていなかったのです……!」
その言葉に、一瞬の沈黙が訪れる。
「……燃えていなかった?」
蘭明蕙は興味深げに微笑み、青荷と蘭珀然が顔を見合わせる。
「火事の原因は、外からの放火ではなく……内部からの出火。しかし、肝心の蝋燭が燃えていない?」
青荷が首をひねり、蘭珀然は扇子で軽く口元を隠しながら、どこか楽しげに考え込んでいる。
「ふむ、これは……なかなか興味深いですね」
「まるで、部屋だけ燃えて蝋燭は火事に参加しなかったような……?」
青荷のぼやきに、蘭明蕙はくすりと笑う。
「きっと蝋燭には『火事には関わりたくない』という強い意志があったのね」
「蝋燭が自主的にボイコットするわけないでしょう!」
青荷がすかさず突っ込みを入れたが、蘭明蕙はどこ吹く風で、ゆっくりと扇を畳んだ。
「さあ、謎解きの時間よ」
黒焦げの部屋を背景に、彼女の微笑みはどこか楽しげだった。
……事件は、ようやく幕を開けたのだった。
@ 火事の原因を探る
焼け焦げた部屋の中で、青荷が袖をまくり、真剣な表情で瓦礫をどけていた。
「さて……燃え残った布、煤の付き方、そして——この蝋燭……」
彼女は床に転がっていた一本の蝋燭を拾い上げ、まじまじと見つめる。見た目は普通の蝋燭だが、妙にツヤがあり、何より芯の部分がまったく焦げていない。
「確かに燃えていませんね。これは一体……?」
不審そうに蝋燭を回していると、隣で腕を組んでいた蘭珀然がすっと手を伸ばし、慎重に芯を観察した。
「……何か、特別な処理がされているようだ」
すると、蘭明蕙が扇子を畳み、優雅な仕草で蝋燭を手に取ると、ふっと軽く嗅いでみた。
「このかすかな金属臭……水銀ね」
彼女が何気なく言うと、青荷の目がまんまるになる。
「水銀……?」
驚きの声を上げる青荷に、蘭明蕙はゆるりと微笑んで説明する。
「ええ。蝋燭の芯に水銀を染み込ませておけば、火がつかなくなるわ」
「へえぇ……そんな方法が……って、太后様、なんでそんなことご存じなんですか!?」
青荷が慌ててツッコミを入れると、蘭明蕙はしれっと微笑んだ。
「暇つぶしに調べたのよ」
「暇つぶしのレベルが異常です!!」
青荷が絶望する中、蘭珀然が冷静に頷いた。
「つまり、犯人は事前にこの蝋燭を用意し、火が燃え広がるのを防いだのですね」
蘭明蕙は楽しそうに扇を軽く振る。
「だとすれば……これは単なる事故ではないわね」
その言葉を聞いて、穆雪玲は身を震わせ、怯えた目で蘭明蕙を見つめる。
「太后様……私を狙ったのでしょうか?」
「ええ、そうでしょうね」
蘭明蕙は相変わらず穏やかな微笑みを崩さない。まるで天気の話でもしているかのように。
「では、誰が?」
彼女の問いかけに、一同はごくりと息をのんだ。
だが、青荷だけは一歩下がって心の中で叫んでいた。
(また面倒なことになったぁぁぁ!!)




