55 死者の手紙 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
死者の手紙
@ 太后様の暇つぶし
風は微かに春の香を運び、紫霄宮の東屋には静寂が満ちていた。
蘭明蕙らん めいけいは、白磁の茶碗を細い指で持ち上げ、ゆっくりと口元へ運ぶ。琥珀色の茶が静かに揺れ、湯気が薄くたなびいた。彼女の視線の先では、庭の牡丹が大輪の花を咲かせ、朝の光に艶やかな紅を映している。
「青荷、最近は随分と平和ね」
低く柔らかな声に、傍らで控えていた柳青荷りゅう せいかは一瞬まばたきをし、それから苦笑を漏らした。
「太后様、平和なのは良いことではありませんか?」
蘭明蕙は茶碗を軽く回しながら、薄く微笑む。
「そうね。でも、退屈なのよ」
その時、静かに足音が近づいた。
「太后様、ご退屈なら、興味深いものをご覧になりますか?」
柔らかな声音とともに、宦官の蘭珀然らん はくらんが姿を現した。白皙の肌に漆黒の髪、整った顔立ちに、どこか達観したような微笑を浮かべている。その手には、一通の封書。
蘭明蕙は目を細めた。
「それは?」
「皇帝陛下宛の手紙です」
蘭珀然は封書を静かに差し出した。
「差出人は、三ヶ月前に崩御した妃・徐瑶華じょ ようかです」
柳青荷の表情が強張る。死者からの手紙。冗談では済まされない。
蘭明蕙は微かに眉を上げたが、動じる様子もなく、指先で封をなぞると、ゆっくりと開封した。紙は薄く、上質な白檀の香がかすかに漂う。
彼女は、すらりとした筆致で綴られた文を静かに読み上げた。
「陛下、私は自ら命を絶ったのではありません。私は、殺されたのです」
その瞬間、庭に吹いた風が、牡丹の花弁を一枚ひらりと舞い上げた。
@不可解な手紙
宮中に、ざわめきが広がっていた。
「亡くなった妃が手紙を送るなど、ありえぬこと!」
皇后・沈玉蘭しん ぎょくらんの冷ややかな声が、白瑠璃はくるりの床を這うように響く。紫霄宮の大広間に集められた高位の妃たちは、互いに顔を見合わせ、不安げな表情を浮かべていた。
皇帝は沈黙したまま、手元の手紙をじっと見つめている。上質な紙に書かれた端正な文字は、確かに徐瑶華じょ ようかの筆跡。だが、彼女はすでにこの世にいない。
「死者の言葉とは、興味深いわね」
静かに微笑む蘭明蕙らん めいけいが、誰よりも落ち着いていた。手にした茶碗を軽く回し、琥珀色の液面がゆらりと揺れる。まるで、今の宮中の動揺を映し出すように。
柳青荷りゅう せいかはすぐさま動き出した。後宮の女官や侍女に聞き込みを始め、三ヶ月前の事件を洗い直す。
@徐瑶華の死
・三ヶ月前、宮中の池の畔で遺体が発見された。
・部屋には遺書が残されており、寵愛を失い、病に伏せていた彼女が絶望して自ら身を投げたと判断された。
・遺体に外傷はなく、公式には「溺死」とされた。
「でも、本当にそうかしら?」
御薬房ぎょやくぼう。薬の香が満ちる静かな空間で、方慧仙ほう けいせんは柳青荷の問いに、ゆっくりと答えた。
「徐妃の遺体には奇妙な点があったのよ」
細い指で、薬草を挽く手を止める。
「溺死したにしては、肺に水が少なかったの」
柳青荷の目が鋭くなる。
「……それはつまり?」
方慧仙は視線を落とし、静かに言った。
「本当に水の中で死んだのか、疑わしいってことよ」
御薬房の窓の外では、風に揺れる竹がさやさやと音を立てていた。
@ 手紙の謎
夜の帳が降りる後宮の回廊を、柳青荷りゅう せいかは静かに歩いていた。灯籠の柔らかな光が長い影を作り、床に揺れる。
調査を進めるうちに、奇妙な事実が浮かび上がった。宦官長・蘇青荷そ せいかが、かつて徐瑶華じょ ようかに仕えていた侍女を幽閉しているというのだ。
「なぜ、その侍女が囚われているの?」
蘭明蕙らん めいけいが穏やかな口調で問うと、隣に控える蘭珀然らん はくらんが静かに答えた。
「彼女は、徐妃から手紙を託された最後の人物です」
青荷と珀然の手引きで、秘密裏に侍女との接触が試みられた。
@ 幽閉された侍女の告白
暗く湿った部屋の中。細い身体を縮こまらせた若い侍女は、怯えた瞳で蘭明蕙たちを見上げた。
「妃様は……ご自身で手紙を書かれました。でも、それをすぐに届けるなと……」
消え入りそうな声だった。
「ある日、渡すよう言われました……」
「いつ?」
柳青荷がすかさず問うと、侍女は一瞬、逡巡した後、小さく答えた。
「妃様が亡くなって……三ヶ月後に……」
蘭明蕙は目を細めた。
「つまり、これは生前に仕組まれていた手紙ということね」
回廊の外から、風が吹き込む。絹の帳が揺れ、隙間から月の光が差し込んだ。
「けれど、彼女は自ら死を選んだはず。なのに『殺された』と書くのはおかしいわ」
蘭明蕙は茶碗を指でなぞるようにしながら、思案に沈んだ。
この手紙は、いったい何を意味しているのか——
@ 死の真相
夜の紫霄宮
燭台の炎が揺れる。静寂に包まれた部屋で、蘭明蕙は机の上に広げられた遺品を見つめていた。
「徐瑶華の持ち物はほとんど処分されたはずだが……」
柳青荷が、慎重に布を剥ぐ。そこには、侍女たちが密かに隠していた品々が並んでいた。
薄絹の巾着、金糸の刺繍が施された帛紗、そして——一枚の書きかけの手紙。
「私は死ななければならない。でも、私の死はただの自殺ではないと知らせねばならない」
青荷が震える声で読み上げる。
「まるで、妃様は死を覚悟していたかのようですね……」
蘭明蕙の指が、紙の端をなぞる。硯の横に置かれた筆を取り上げ、筆跡を見比べるように目を細めた。
そのとき、蘭珀然らん はくらんが冷静に指摘する。
「彼女の遺書には不自然な点がある。筆跡が微妙に揺れている」
青荷が眉を寄せた。
「それは、妃様の手が震えていたのでは?」
珀然は首を横に振る。
「いいや。これは、誰かに書かされた可能性が高い」
蘭明蕙は薄く微笑むと、そっと筆を置いた。
「つまり——徐瑶華は自ら死を選んだのではなく、何者かによって死を強要されたのね」
部屋の外で風が吹き、障子がかすかに鳴った。まるで亡き妃の嘆きが、彼女たちに真実を告げようとしているかのように——。




