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53 五色の絹の暗号 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」

「五色の絹の暗号」



 @ 太后の暇つぶしの始まり


 春の陽光が紫霄宮ししょうきゅうの広大な庭園を照らし、柔らかな風が満開の梅の花を揺らしていた。枝からはらはらと散る薄紅色の花弁が、白磁の茶器に静かに舞い落ちる。香り高い龍井茶の湯気がゆるやかに立ちのぼり、あたりにはほのかに炒りたての茶葉の香りが漂っている。


 蘭明蕙らん めいけいは玉座にも等しい優美な彫刻が施された椅子にゆったりと腰掛け、細長い指で茶杯を転がしていた。その涼やかな眼差しは、退屈の色を帯びている。


「最近、何か面白いことはないかしら?」


 飄々とした口調で呟くと、傍らに控えていた柳青荷りゅう せいかは苦笑を漏らした。


「もしかして、また事件をお望みですか?」


 蘭明蕙は扇を開き、ゆったりと仰ぐように顔の前で揺らした。


「ええ、できれば知恵を使うものがいいわ。単なる宮中の噂や痴話喧嘩では退屈すぎるもの」


 柳青荷が何か返そうとしたその時、廊下の向こうから軽やかな足音が響いた。やがて、一人の女官が慌ただしく駆け込んできた。


 彼女の顔色は青ざめ、こめかみに浮かぶ汗が光っている。紫霄宮の静謐な空気を破るように、切羽詰まった声が響いた。


「太后様、大変です! 翡翠苑ひすいえんの衣装庫から五色の絹が消えました!」


 蘭明蕙は、茶杯を持った手を止めた。すっと細められた瞳が、まるで暗闇に光る猫のように鋭さを帯びる。


「五色の絹? それがどうしたの?」


 柳青荷が思わず前のめりになり、女官は息を整えながら続ける。


「それだけではありません。ちょうど同じ頃、貴妃・秦雪蓮しん せつれん様が忽然と姿を消されました!」


 紫霄宮の静寂の中で、風に揺れる梅の枝がかすかな音を立てる。蘭明蕙は扇を閉じ、口元にかすかな微笑を浮かべた。


「それは……面白そうね」


 琥珀色の茶の表面が、風に揺れる花弁の影を映していた。



 @ 五色の絹の謎


 蘭明蕙らん めいけいは柳青荷りゅう せいかと蘭珀然らん はくらんを伴い、翡翠苑ひすいえんの奥にある衣装庫へ向かった。


 衣装庫の前には、女官たちが集まり、不安げにひそひそと囁き合っていた。戸口の前には、責任者である王女官が青ざめた顔で立っている。


 中へ入ると、衣装庫の内部は整然と整えられた木製の棚が並び、色とりどりの絹や刺繍が施された華やかな衣装が収められていた。しかし、その一角、五つの棚だけがぽっかりと空白になっている。


 蘭明蕙は、ゆっくりと歩みを進め、失われたものの痕跡を目で追うように棚を見渡した。


 王女官は緊張した面持ちで口を開く。


「消えたのは、赤・青・黄・白・黒の五色の絹です。それぞれ異なる棚から持ち去られていました」


 蘭明蕙は片眉を上げ、扇を広げながらゆったりとした口調で言った。


「単なる盗難ではないわね」


 彼女の視線は、規則的に空いた棚と、それを囲むように落ちているわずかな糸くずに注がれる。


 柳青荷は手際よく侍女たちの話を聞き回り、すぐに報告に戻ってきた。


「秦雪蓮しん せつれん様は数日前から何者かを警戒していたようです。宮女たちによれば、まるで何かに怯えていたようでした」


 蘭明蕙はその言葉に小さく頷き、指で扇を軽く弾く。


「ふぅん……」


 そんな中、蘭珀然が棚の隅に目を留めた。屈み込み、静かに何かを摘み上げる。彼の長い指先に絡みついていたのは、一筋の赤い糸だった。


「これは……?」


 蘭明蕙が糸を受け取り、指先で弄ぶ。鮮やかな赤い糸が、繊細な光を帯びて揺れた。


「五色の絹と、この赤い糸……」


 彼女の瞳がわずかに鋭さを帯びる。


「これはただの盗難ではなく、何かの合図だったのかもしれないわね」


 扇の先で赤い糸を軽く揺らしながら、蘭明蕙は目を細めた。その眼差しの奥には、すでに解かれるべき謎の輪郭が浮かび始めていた。



 @ 隠された陰謀


 夜の帳が下り、紫霄宮ししょうきゅうの一室では、蘭明蕙らん めいけいが静かに龍井茶を啜っていた。部屋に灯された燭台の揺れる炎が、彼女の端正な横顔を淡く照らしている。


 そこへ、影衛司えいえいしの密偵・陳星河ちん せいがが音もなく現れ、恭しく跪いた。


「太后様、調査の結果が判明しました」


 蘭明蕙は扇を軽く動かし、続きを促す。


「秦雪蓮しん せつれん様の侍女が、最近、皇后派の宦官長・蘇青荷そ せいかと密かに接触していたことがわかりました。しかも、その回数はここ数日で急激に増えています」


 柳青荷りゅう せいかが驚きの表情を浮かべる。


「皇后派の宦官と? それは……単なる偶然とは思えませんね」


 蘭明蕙は扇を閉じ、ゆっくりと瞳を伏せる。思索に沈むその姿は、まるで静かな湖のようだった。


 すると、蘭珀然らん はくらんが一歩前に進み、低く報告する。


「太后様、五色の組み合わせには意味があります。これは後宮で密かに使われているしるしです。特定の順番で並べることで、ある場所を指し示す暗号になっています」


 蘭明蕙の唇に微かな笑みが浮かぶ。


「なるほど……つまり、秦雪蓮は何者かに狙われ、密かに助けを求めるために五色の絹を使ったのね」


 柳青荷が疑問を口にする。


「ですが、その暗号を知っているのは、ごく一部の者だけのはず……」


「ええ」蘭明蕙はゆっくりと頷く。「これは、単なる後宮の陰謀ではなく、異国の密偵が絡んでいる可能性が高いわ」


 その場の空気が凍りつく。後宮内に異国の密偵が潜んでいる——それは、宮廷を揺るがす重大な問題だった。


 蘭明蕙は、扇の先で五色の絹の並びを示しながら言う。


「この順番が示すのは……霜華楼そうかろう。秦雪蓮は、すでにそこへ囚われている可能性が高いわね」




 燭火の揺らめきの中、彼女の瞳だけが鋭い光を宿していた。




 @ 太后の一手


 宮中に静寂が広がる夜更け、蘭明蕙らん めいけいは紫霄宮ししょうきゅうの一室で、燭火のゆらめきを眺めていた。その端正な顔には、ほんの僅かな笑みが浮かんでいる。彼女はそっと扇を開き、手首の動きだけで優雅に揺らした。


「皇帝に直接謁見いたします」


 そう宣言したとき、柳青荷りゅう せいかと蘭珀然らん はくらんは、一瞬息をのんだ。皇帝に会うことは容易ではない。だが、蘭明蕙にとっては、それすらも「暇つぶし」の一環なのだろう。


 ——翌朝。


 天瑞帝てんずいていの御前、蘭明蕙は美しく整えられた衣を纏い、優雅に膝をついた。


「このままでは、後宮の秩序が乱れますわ」


 彼女の声は落ち着いていたが、その言葉には絶対の威圧感があった。皇帝はじっと母である蘭明蕙を見つめる。後宮の事情にはあまり関心を示さない彼も、太后の言葉を無視することはできなかった。


「霜華楼そうかろうを捜索いたしましょう」


 蘭明蕙の言葉に逆らう者はいなかった。皇帝が一言命じると、影衛司えいえいしの密偵たちが迅速に動き出した。


 ——そして、霜華楼。


 影衛司の捜索により、秦雪蓮しん せつれんは暗い部屋の隅で発見された。彼女の衣は乱れ、頬には痣が残り、唇も乾ききっていた。それでも、彼女の目には希望の光が宿っていた。


「太后様……助けてくださるとは……」


 弱々しい声に、蘭明蕙は穏やかに微笑む。


「ええ、暇つぶしにはちょうどよかったわ」


 そう言って、彼女は静かに紅茶を一口飲み干した。温かい茶の香りが、冷えた空気に優しく広がる。


 @ 事件の余韻


 霜華楼そうかろうの扉が静かに開かれた。朝日が差し込む中、秦雪蓮しん せつれんは憔悴した面持ちで、ゆっくりと外へ踏み出した。その白い衣は、長らく閉じ込められていたせいで薄汚れ、彼女のか細い体を一層儚く見せている。


「貴妃様……」


 付き添う侍女が涙をこらえながら声をかける。しかし、秦雪蓮は静かに首を振り、遠くを見つめた。その先には、宮門があった——すなわち、彼女が二度と戻れぬ後宮の境界線である。


 国外追放。


 それが、皇帝の下した裁定だった。彼女が密かに異国の密偵と関わっていた疑いが完全に晴れたわけではない以上、これが最善の落としどころだったのだろう。


 紫霄宮ししょうきゅうでは、蘭明蕙らん めいけいが庭の東屋でくつろいでいた。琥珀色の紅茶が湯気を立て、ほのかに甘い香りを漂わせている。彼女は杯を指先で転がしながら、しばし静かに考え込んでいた。


「皇后派の動き……随分と大胆になってきたわね」


 柳青荷りゅう せいかが隣で茶を注ぎながら、緊張した面持ちで口を開く。


「今回の件、皇后様がどこまで関わっていたのか……」


「直接の証拠はない。でも、これはほんの序章に過ぎないのでしょうね」


 蘭明蕙は微笑を浮かべながら、空を仰いだ。春の空はどこまでも澄み渡り、風が竹林を揺らしている。


「ますます面白くなりそうね」


 彼女の瞳には、すでに次なる事件への期待が宿っていた——。

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