52 消える毒盃 〜『後宮の名探偵・太后様の暇つぶし』
消える毒盃 〜『後宮の名探偵・太后様の暇つぶし』
第一幕:太后の暇つぶし
天瑞王朝の後宮。昼下がりの陽光が、絹張りの窓を通して室内を穏やかに照らしていた。
紫霄宮の一室には、ほのかに沈香の香りが漂い、静寂が満ちている。薄桃色の帳が風に揺れ、朱塗りの卓上では、湯気を立てる茶碗が置かれていた。
蘭明蕙は、優雅に茶碗を傾けながら、微笑を浮かべる。白皙の肌に、陽の光が淡く映える。
「暇ね」
ふと呟くと、向かいに控えていた侍女・柳青荷が、小さく微笑んだ。
「それは何よりですが、きっとすぐに騒がしくなりますよ」
青荷の言葉を聞き流すように、太后は茶を一口含む。喉を通る温かさが心地よい。
その瞬間――
ばたんっ!
扉が激しく開かれ、外の熱気とともに、一人の宦官が駆け込んできた。
「太后様!」
膝をついた宦官は、荒い息を整えながら、慌ただしく言葉を紡ぐ。
「翡翠苑の宴の最中に、妃が毒殺されました!」
室内の空気が一変する。
青荷が驚いて扇を握りしめる一方で、太后は表情を変えず、静かに茶碗を卓上に置いた。湯気がふわりと立ち昇り、陽の光に溶けていく。
「……ふふ」
まるで待ちわびていたかのように、太后は静かに微笑んだ。
「ようやく、退屈が紛れそうね」
陽光が差し込む中、後宮の奥深くで、新たな事件の幕が上がる――。
第二幕:毒盃の消失
後宮・翡翠苑。
涼やかな春風が、絹張りの扉を揺らす。広々とした庭には色とりどりの花が咲き誇り、雅楽の調べが響いていた。
皇后・沈玉蘭が主催する宴は、華やかに執り行われていた。紫紗の天幕の下、貴妃・妃嬪たちが美酒を傾け、優雅に笑みを交わす。卓上には珍味の数々が並び、香の薫りが風に乗って広がっていた。
しかし、その平穏は一瞬で破られた。
「――っ!」
突然、ひとりの妃が激しく咳き込み、苦しげに喉を押さえながら椅子から転げ落ちる。
杜蘭芝。
彼女の顔は瞬く間に青ざめ、唇は黒ずんでいく。
「杜妃!?」
近くにいた侍女が駆け寄るが、杜蘭芝の体はすでに激しく痙攣し、白目を剥いていた。
「毒だ――!」
誰かの叫び声が響く。
宴の場はたちまち騒然となった。妃嬪たちは恐怖に顔を歪め、侍女たちは悲鳴を上げて後ずさる。宦官たちはうろたえながらも、必死に皇后の指示を待つ。
「毒見役が異常なしと言っていたのに……!」
貴妃・文采薇が震える声で言う。毒見役が試した料理や酒には何の異常もなかったはずだ。
「いったい何が……」
誰もが混乱する中、さらに奇妙なことが起こっていることに気づいた者がいた。
「杜妃様の盃が……ありません!」
声を上げたのは、宴の給仕をしていた女官だった。
「何ですって?」
「たしかにあの方が口をつけた盃が……忽然と消えているのです!」
騒然とする場の中、皇后・沈玉蘭は眉を寄せ、険しい表情で言い放つ。
「これは後宮の秩序を乱す者の仕業。必ず犯人を見つけます」
その時――
さらさら……
まるでこの混乱を見越していたかのように、軽やかな衣擦れの音が響く。
紫紺の衣を纏い、落ち着いた微笑を浮かべながら、太后・蘭明蕙が悠然と現れた。
「まあ、大変なことになったようね」
ゆっくりと場を見渡す彼女の瞳には、恐怖に震える妃嬪たち、困惑する侍女たち、そして怒りをにじませる皇后の姿が映っていた。
「犯人捜しは大切だけれど……」
皇后が何か言う前に、太后はゆったりと扇を開き、扇ぎながら微笑んだ。
「まずはこの謎を解かないといけないわね」
燭台に映る太后の横顔は、どこか楽しげにも見えた。
「どうやって盃が消えたのかしら?」
第三幕:手がかりを集める
翡翠苑・宴の席
宴の余韻はすでに消え、異様な静寂が広がっていた。
酒と香の入り混じった甘やかな香りは残るものの、そこに漂うのは死の気配。豪奢な卓の上には、ひっくり返った盃や食べかけの料理が散乱し、あちこちに倒れた椅子が混乱の痕を物語っている。
中央には、妃・杜蘭芝の亡骸。
目を見開いたまま、青黒く変色した唇。指先は微かに震えた形のまま固まり、口元には最後に何かを訴えようとしたような痕跡が残っていた。
その傍らで、太后・蘭明蕙は静かに卓へ歩み寄る。
「青荷、珀然。少し調べてみましょうか」
彼女の穏やかな声に、侍女・柳青荷と宦官・蘭珀然が頷く。
青荷は身を屈め、慎重に杜蘭芝の杯があったと思われる場所を探った。蘭珀然は周囲の侍女や宦官たちに目を走らせ、誰かが不審な動きをしていないかを観察する。
卓の上の酒器に手をかざすと、わずかに冷気を感じる。
「冷たい酒を好む人なのね?」
太后が呟くと、近くにいた侍女が恐る恐る答える。
「は、はい……杜妃様は温めた酒より、冷酒を好まれておりました……」
青荷が小さく頷きながら、手のひらを杯のあった場所へ滑らせる。
「……水滴の跡かしら?」
彼女の白い指先が、遺体の手をそっと持ち上げる。そこには、うっすらと湿った感触があった。
「けれど、盃がないのに……」
青荷は不審げに呟き、蘭珀然に視線を送る。蘭珀然は扇を軽く打ち鳴らし、考え込んだ様子を見せた。
「普通の盃なら、誰かが持ち去ったことになるけれど……」
蘭珀然の低い声が響く。彼の視線は卓の表面に残る水の輪に向けられていた。
太后は静かに指先で卓を叩く。
コン、コン。
微笑を浮かべながら、卓を囲む二人へと視線を向ける。
「なるほどね……面白いわ」
彼女の瞳には、すでに真相の輪郭が映っている。
「この盃、最初から存在しなかったのかもしれないわね」
第四幕:太后の推理
翡翠苑・別室
広々とした部屋の中に、厳しい空気が張り詰めていた。
先ほどまで華やかな宴が開かれていた翡翠苑の一角とは異なり、ここには冷たい静寂が支配している。
絹張りの屏風が柔らかな光を遮り、僅かに揺れる香炉の煙が、まるで人の心を惑わせるかのようにゆらゆらと漂っていた。
中央の卓には、太后・蘭明蕙が悠然と腰を下ろしている。手元の茶碗をゆっくりと回しながら、静かに香りを楽しむような仕草を見せていた。
その前に、震える料理人が一人、平伏している。
「……確かに、宴の酒器は私たちが手配しました。しかし、杜妃様の盃だけは、妃・文采薇様が特別に用意されたのです」
料理人の声はかすれ、顔色は青ざめていた。
「文妃が?」
その言葉に、部屋の空気が微かに動いた。
傍らに控えていた侍女・柳青荷は表情を引き締め、そっと蘭明蕙の顔を窺う。
一方、宦官・蘭珀然は扇を軽く畳みながら、無表情のまま静かに立っていた。
すると、扉の向こうから華やかな衣擦れの音が響いた。
妃・文采薇が、動揺を隠しながら姿を現す。
「私がやったのではありません! 皇后様に命じられて……!」
彼女は青ざめた顔で弁明し、視線を皇后・沈玉蘭へと向けた。
しかし、皇后は微笑を崩さない。
「証拠があるのかしら?」
冷ややかに言い放つと、部屋の空気はさらに凍りついた。
太后は、ゆったりと茶を啜る。
「では、もう一つの問題。毒はどうやって盃に仕込まれたのかしら?」
侍女や宦官たちは息を呑み、沈黙の中で視線を交わす。
盃は消えた。
けれど、その前に毒が仕掛けられていたことは確か。
太后の涼やかな目が、卓に残るわずかな水滴を見つめる。
「冷酒だったわね……」
その言葉が落ちると、部屋の温度がさらに下がったように感じられた。
第五幕:真相の解明
翡翠苑・別室
静寂が支配する室内。外の庭では柳の枝が風に揺れ、微かな葉擦れの音が響いている。
太后・蘭明蕙は、優雅に茶碗を指先で回しながら、ゆっくりと語り出した。
「盃は消えたのではなく、『溶けた』のよ」
「え……?」
驚愕に満ちた声が漏れる。
部屋の中央に立つ妃・文采薇の表情は、驚きと動揺に揺れていた。
「杜蘭芝が飲んでいた盃は、氷で作られていたのよ」
太后の言葉が落ちると、誰もが息をのんだ。
── 氷で作られた盃に毒が塗られていた。
── 冷酒を注ぐことで、氷の盃はまるで普通の器のように見えた。
── 杜蘭芝が酒を飲み干すと、盃は体温と酒の温度で徐々に溶け、彼女が倒れる頃には形を失っていた。
── 彼女の指先が濡れていたのは、その証拠だった。
「そんな……」
文采薇の膝が震え、力なく床に座り込む。
唇を噛み締めながら、彼女は小さく呟いた。
「……私の計画では、秦雪蓮が飲むはずだったのに……」
一瞬、沈黙が落ちる。
宦官・蘭珀然が静かに扇を閉じ、柳青荷は息を飲んだ。
「つまり、間違えて杜蘭芝が飲んでしまったのね?」
太后の穏やかな声が、静寂を切り裂く。
文采薇は、もはや隠しようもなく、震える唇で答えた。
「……はい。皇后様が寵妃を疎ましく思っていると聞いて、それなら私が……」
視線を上げると、皇后・沈玉蘭が静かに微笑んでいた。
その笑みは、まるで何も知らないとでも言うように、余裕に満ちたものだった。
「私が命じた証拠はないわ」
文采薇の顔が絶望に染まる。
その様子を見届けるように、太后は静かに茶を啜った。
「さあ、これでまた暇になっちゃうわね」
皇后と太后の視線が交わる。
それは後宮の闇に揺らめく静かな火花だった。