5 密室の死 ④
紫霄宮の夜は静寂に包まれていた。
月明かりが石畳を照らし、風が柳の葉を揺らす中、太后・蘭明蕙らん めいけいは緩やかに扇をあおいでいた。
「——趙麗華ちょう れいかが、不自然な動きをしている?」
彼女の前で膝をつく陳星河ちん せいがは、鋭い眼差しで頷いた。
「はい。事件の前後、彼女の侍女たちが密かに何者かと接触していた形跡があります。さらに、馮玉蓮ひょう ぎょくれんが亡くなる数日前に、彼女は宮中のある特定の人物に接触していました」
「その人物とは?」
大后が問いかけると、陳星河は一瞬ためらい——低く声を落とした。
「……宦官の李玄清り げんせい」
その名を聞いた瞬間、柳青荷りゅう せいかは小さく息を呑んだ。
「李玄清って、確か……大后様のもとで働いていた宦官ですよね?」
「ええ」
大后は薄く笑いながら、指で茶碗を撫でる。
「随分と懐かしい名前を聞いたわ。彼、いまどこにいるの?」
「現在は宮中の文書庫を管理しています。皇帝の側近ではありませんが、重要な書類の整理や機密文書の管理を任されているため、それなりの影響力を持っています」
「馮玉蓮と接触していた理由は?」
「それがまだ不明です。しかし、事件の夜、彼は馮玉蓮の部屋の近くで目撃されています」
陳星河の言葉に、柳青荷が眉をひそめる。
「それって、密会の相手が彼だったってこと?」
「可能性は高い。しかし、彼が直接事件に関与しているかはまだわかりません。」
大后はふっと息をつき、静かに茶を啜った。
「趙麗華、李玄清、馮玉蓮……そして春蘭」
扇子の先で卓を軽く叩く。
「この繋がり、興味深いわね」
柳青荷がこめかみを押さえながら苦笑する。
「こうなってくると、ただの密室殺人じゃなくて、もっと大きな何かが隠れていそうですね……」
陳星河が真剣な面持ちで頷く。
「おそらく、影衛司が動いていることも既に気づかれているでしょう。これ以上の調査は慎重に行う必要があります」
太后はしばらく沈黙し、扇子を閉じると、ゆったりと立ち上がった。
「いいわ。私も少し、動いてみましょうか」
柳青荷が驚いて目を丸くする。
「えっ!? 太后様自ら!?」
「退屈しのぎにはちょうどいいでしょう?」
大后は優雅に微笑みながら、月の光の下へと歩み出た——。
***
夜の闇が後宮を包む中、大后・蘭明蕙らん めいけいは紫霄宮を出て、静かに歩を進めていた。
柳青荷りゅう せいかは慌てて後を追いながら、小声で抗議する。
「ちょ、ちょっと待ってください大后様! 本当に出て行っちゃうんですか!?」
「もちろんよ」
扇子を軽く振りながら、大后は楽しそうに笑う。
「だって、気になるじゃない? 李玄清り げんせいという懐かしい名前、それに——彼が馮玉蓮ひょう ぎょくれんと関わっていた理由」
「そ、それは気になりますけど……。でも影衛司に任せておけば……」
「影衛司の調査には限界があるわ。彼らが動いていることは、もう相手にも知られている。だったら、相手の意表を突く方法を考えなくちゃ」
大后の言葉に、柳青荷は思わずため息をついた。
「……ほんと、退屈しのぎに事件を楽しんでません?」
「ええ、そうよ?」
微笑む大后に、柳青荷は肩を落とした。
「もう……。せめて目立たないようにしてくださいね」
そう言いながら、大后の服を少し地味な色の上着に変え、柳青荷自身も目立たないように姿を整える。
二人はひっそりと宮中の文書庫へ向かった。
***
文書庫は、宮廷の奥まった場所にひっそりと佇んでいた。昼間は官吏たちが行き交う場所だが、夜ともなれば誰も寄り付かない。
だが、その静寂の中で、太后は確かに感じた。
——誰かがいる。
柳青荷も同じことに気づいたのか、息をひそめて囁く。
「……誰か、中にいます」
影に紛れて文書庫を見つめると、灯りの漏れる窓の隙間から、人影が動くのが見えた。
「李玄清かしら?」
大后がそっと扇子を開きながら言うと、柳青荷はじっと中を観察しながら答える。
「違います。もっと背の高い、がっしりした体格の男ですね」
そのとき、文書庫の扉がわずかに軋んだ。
そして、静かに開かれた。
そこから現れたのは——影衛司の密偵・陳星河ちん せいがだった。
「……!」
太后は軽く微笑しながら、静かに彼を見つめる。
「あなたも、調べに来ていたのね。」
陳星河は驚きながらもすぐに表情を引き締め、深く膝を折った。
「申し訳ありません、太后様。しかし、ここは危険です」
「そうかしら? 私には、ちょうどいいくらいのスリルだけれど」
大后は涼しい顔で答える。
すると、陳星河はわずかに顔を曇らせ、低く囁いた。
「実は、妙なことがあったのです」
「妙なこと?」
「李玄清の姿が、消えました」
その言葉に、太后の瞳がわずかに細められる。
「消えた?」
「今夜、ここで会う手はずになっていました。しかし、彼は現れなかったどころか、消息が掴めなくなっています」
大后は考え込むように扇を閉じ、柳青荷が不安げに顔を寄せた。
「ま、まさか……殺されたとか?」
陳星河は沈黙したまま、目を伏せる。
太后はその表情を見ながら、静かに息をついた。
「……李玄清。あなたは、どこへ行ったのかしら?」
静寂の中で、遠くの方でふと、風が軋む音がした——。
翌日、太后・明蕙らん めいけいは柳青荷りゅう せいかを伴い、殺人現場をもう一度確認しに向かった。
蘭明蕙らん めいけいは静かに寝台を見つめながら、扇を閉じて手の中で転がした。彼女の頭脳が推理を加速する。
部屋に漂う血の匂い、刺殺された馮玉蓮ひょう ぎょくれんの苦悶の表情、そして内側から施錠された扉と窓——。まるで「密室」でなければならないかのように作られた現場。
だが、それこそが仕掛けられた罠だった。
「なるほどね」
微笑を浮かべながら、蘭明蕙はゆっくりと寝台に歩み寄った。そして、敷布の上に残る血痕を指でなぞる。染みの広がり方は妙に均等で、まるで意図的に拭われたかのようだった。
「……この事件は、最初から『密室』である必要がなかったのではなく、『密室に見せかける』必要があったのね」
柳青荷りゅう せいかが目を丸くした。「えっ、それってどういうことですか?」
「犯人は『密室殺人』を演出することで、犯行時間を偽装したのよ。そうすれば、ある特定の人物に“確実なアリバイ”を与えることができるわ」
「アリバイ……まさか!」
青荷は口元を覆った。その時、太后はふと視線を窓へ向けた。
「李玄清り げんせいが突然失踪したのも、偶然とは思えないわね」
李玄清は事件当日、馮玉蓮と密かに会っていた。彼は何かを知り、それが犯人にとって都合の悪いものだったのだろう。だからこそ、彼は事件の真相に近づいた瞬間に、排除されるべき存在になった——。
蘭明蕙は茶目っ気たっぷりに扇を広げ、唇の端を上げた。
「ようやく、全ての駒が揃ったようね。」