48 揺れる紅い紐「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
「揺れる紅い紐」 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
1. 序幕:退屈な午後
紫霄宮の庭園には、穏やかな午後の日差しが降り注ぎ、そよ風が柔らかく花々の香りを運んでいた。金魚の泳ぐ池のほとり、精巧な彫刻が施された卓には、湯気の立つ茶器と美しい菓子が並ぶ。まるで絵画のような優雅な光景――だが、そこにいる一人の女性の表情は、実に退屈そうだった。
「青荷、何か面白い話はない?」
太后・蘭明蕙は、茶碗を持ったままぼんやりと柳青荷を見つめる。その姿は、まるで「退屈」という文字が全身に貼りついているかのようだ。
柳青荷は少し考え込み、「そういえば……」と顔を上げた。
「殿下(蘭珀然)が後宮の侍女たちの間で『後宮一の美貌の宦官』と噂されているそうです。」
「まぁ、それは面白いわね。」
太后は口元を扇で隠しながらくすくすと笑う。その隣では、当の蘭珀然が完全に眉間に皺を寄せ、静かに溜息をついた。
「母上、面白がられるのは私のほうでは?」
「噂の的になるのも、後宮で生きる術のひとつよ。」
太后がしれっとした口調で言うと、蘭珀然はさらに深い溜息をついた。
そんな和やかな(いや、蘭珀然にとっては迷惑な)雰囲気をぶち壊すように、突然、影衛司の密偵・陳星河が飛び込んできた。
「太后様!」
ドタバタと駆け込む音に、太后は扇をゆるりと動かし、顔を少し上げる。
「……そんなに慌てて、どうしたの?」
「翡翠苑で妃が首を吊っているのが発見されました!」
陳星河が息を切らしながら報告する。
その瞬間、青荷が息を呑み、蘭珀然がわずかに目を細める。だが、太后はといえば――。
「……また退屈しのぎができたわね。」
茶碗を静かに卓に置きながら、にこりと微笑んだ。
その表情は、事件そのものよりも「興味深い遊び道具」を見つけたかのようで、青荷は心の中で思わず「太后様の辞書に『動揺』という言葉はないのかしら……」と呆れつつ、そっと背筋を正した。
蘭珀然は――また静かにため息をついた。
事件発生:翡翠苑の悲劇
翡翠苑の一角、美しい刺繍が施された簾が風に揺れ、かすかに花の香りが漂う一室。その静寂を破るように、宮女たちのすすり泣く声が響いていた。
部屋の中央――天井から紅い紐が垂れ、その先には、妃・李瑶蓮の遺体が揺れている。透き通るような白い肌、微かに微笑んでいるかのような唇。あまりに整いすぎたその姿は、どこか作り物めいていた。
「妃様が自ら命を絶ばれるなんて……!」
「こんなにお美しいままで……まるで人形のようです……!」
宮女たちは涙を流しながら口々に嘆き悲しむが、部屋の隅では、全く別の視点で事態を観察する人物がいた。
太后・蘭明蕙である。
彼女はゆるりと紅い紐を眺め、次に遺体をじっと見つめた。そして、しばらく考えた後、ぽつりとつぶやく。
「……随分と綺麗な姿ね。」
宮女たちがすすり泣く中、太后の一言が部屋に妙な静けさをもたらす。柳青荷が小声で尋ねた。
「えっ、それってどういう……?」
太后はゆっくりと手を上げ、扇で自分の首を軽く撫でるように示す。
「自害にしては、首の痕が薄いわ。」
柳青荷がぱちくりと瞬きしながら、遺体に目を向ける。次の瞬間、彼女は「はっ!」と気づき、声を潜めた。
「確かに……!通常の首吊りなら、もっとくっきりと痕が残るはずです!」
「そうよねぇ」
太后はまるで茶菓子を選ぶかのように、のんびりとした調子でうなずいた。
一方、近くに立っていた蘭珀然は、母親の余裕ぶりに少し眉をひそめる。
「母上、もう少し慎ましい態度を取られては?」
「ええ?だってもう分かっちゃったんだもの」
「……何がです?」
「ふふ……やっぱり、これは他殺ね」
太后は扇を軽く閉じ、にっこり微笑んだ。その表情は、「さぁ、これで暇つぶしが始まるわね」と言わんばかりの愉快そうなものだった。
柳青荷は「やっぱり事件が起きると楽しそうだわ……」と心の中で嘆息し、蘭珀然はまた静かにため息をついたのだった。
3. 捜査開始:不自然な自殺
翡翠苑の一室に漂う妙な緊張感。しかし、その中心にいる太后・蘭明蕙は、どこか楽しげに扇を揺らしながら椅子に腰かけていた。
「さて、では始めましょうか。事件の解明を」
——と、まるでお茶会の余興でも始めるような口ぶりで言うものだから、柳青荷と蘭珀然は思わず顔を見合わせる。
そんな中、影衛司と柳青荷が手際よく聞き込みを進める。
「発見者は?」
「は、はいっ!」
緊張しながら前に出たのは、若い侍女の春蘭。彼女は手をぎゅっと握りしめ、小さく震えていた。
「わ、私が今朝、お仕度に伺ったときには、すでにこの状態で……!」
「ふむふむ」
太后は紅茶をすするように頷きながら、さらりと尋ねる。
「で? 昨夜の妃の様子は?」
「え、ええと……とてもお疲れのご様子でしたが、特に変わったことはありませんでした……」
「お疲れのご様子、ねぇ」
太后は顎に手を添え、しばし考える。そして、部屋をぐるりと見渡した。
——妙に整然としている。
倒れた椅子もなければ、引き裂かれた帳もない。壁の花瓶は微動だにせず、香炉からはまだかすかに香が漂っている。
柳青荷が目を細め、ぽつりとつぶやいた。
「……争った形跡がありませんね」
「うん、それにしても綺麗すぎるわ」
「え?」
「まるで……見せるための死体みたいじゃない?」
宮女たちはゾクリと身をすくめるが、太后は「面白いわねぇ」とでも言いたげに微笑む。
その横で、蘭珀然がため息をついた。
「母上、そういうことを楽しげに言わないでください」
「だって、本当に面白くなってきたんですもの」
太后は扇を軽く開きながら、問いを続ける。
「では、昨日の夜、妃はこの部屋に一人でいたの?」
春蘭は、顔をこわばらせながら首を振った。
「い、いえ……夕方に、宦官の曹懐仁様が密かに訪れていました」
「ほう」
太后は目を細め、唇に指を添える。そして、少しだけ身を乗り出し、楽しそうに囁いた。
「ふふ……やっぱり、これは他殺ね」
柳青荷は「ああ、また太后様が本気を出し始めた……」と密かに覚悟を決め、蘭珀然は再び静かにため息をついたのだった。
気になる紅い紐の仕掛け
「よし、それじゃあ遺体を下ろしてみましょうか」
太后・蘭明蕙が軽い調子で言うと、周囲の宮女たちはギョッとし、慌てて目を背けた。
「た、太后様……もう少しこう、慎重に……」
柳青荷が遠慮がちに言うが、太后は「はいはい」と適当に流しながら、紅い紐をじっと見つめる。
影衛司の者たちが遺体を慎重に降ろし、紐を解くと——妙なものが現れた。
「これは……?」
柳青荷が紐を指でなぞると、途中に小さな金具がついているではないか。しかも、それを動かすと長さを調整できる仕組みになっていた。
「……え?」
彼女は試しに金具を少しスライドさせてみる。
——スルッ。
「あっ、短くなった……!」
「まあ、便利」
太后はにっこり微笑み、紅い紐をつまんで軽く弾く。
「この仕掛けなら、遺体の位置を後から微調整できるわね」
まるで簪の位置を直すような口ぶりで言うものだから、柳青荷は思わず額を押さえた。
「……つまり、最初に絞殺してから吊るした?」
「ええ。そして、あたかも自殺のように見せかけたのよ」
太后は何でもないことのように言うが、その横で蘭珀然が嘆息する。
「母上、その言い方だと、まるで日常の一コマみたいですが……」
「後宮では、これは日常の一コマでしょう?」
太后の言葉に柳青荷と蘭珀然は一瞬黙り込み——否定できないことに気づいてしまった。
「……まぁ、確かに」
結局、そう呟いて納得するしかなかった。




