45 沈む太陽の影 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
沈む太陽の影
午後の陽光がゆるやかに降り注ぐ紫霄宮の庭。清らかな水音を奏でる泉のそばに、精緻な刺繍が施された椅子が置かれている。その上には、まるでこの世のすべてが退屈だと言わんばかりに、気だるげに腰掛ける一人の女性——蘭明蕙らん めいけい。
彼女は金の細工が施された白磁の茶碗を指先でくるりと回し、ひとつ溜息をつく。
「はぁ……今日も暇ね」
流れるように扇を開き、ぱたぱたと仰ぐ仕草も優雅そのもの。
そばに控える侍女・柳青荷りゅう せいかは、何度も聞いたこの台詞に苦笑しながら、小首を傾げる。
「そんなこと言われても……平和が一番ですよ!」
「それはそうだけれど……」
紫霄宮の庭には、満開の牡丹が咲き誇り、時折風が吹いて甘い香りを運んでくる。鯉が池の水面を揺らし、遠くでは宮女たちが花の手入れをしている。何の変哲もない、のどかで平和な後宮の午後。
その瞬間——
「太后様! 事件です」
突如として大きな声を出しながら侍女が庭に駆け込んできた。
庭にいた宮女たちが顔を見合わせ、鯉すら驚いてぴちゃりと跳ねた。
青荷は肩をピクリと震わせ、思わず顔をしかめる。
「えっ……」
だが、そんな彼女の動揺をよそに、蘭明蕙はまるでこの展開を予想していたかのように、微笑みながら扇を閉じた。
「ほら、言ったでしょう?」
「ま、また事件ですかぁぁぁ!?」
青荷が嘆きながら頭を抱える間もなく、太后は優雅に立ち上がる。
ふわりと衣の裾が舞い上がり、髪飾りが陽の光を受けてきらりと輝く。
彼女はまるで舞台の幕が上がるのを待ちわびていた役者のように、茶碗をそっと卓上に戻すと、悠然と歩き出す。
「さあ、暇つぶしの時間よ」
青荷は「この人、絶対事件を楽しんでる!」と心の中で叫びつつ、慌てて後を追うのだった。
***
事件現場は庭園の東側、そよ風に揺れる柳の木の下だった。
青々と茂る柳の葉が、地面にまだらな影を落としている。その下に、一人の侍女がぐったりと横たわっていた。
「ひっ……!」
現場を見た青荷が小さく悲鳴を上げる。
「被害者は蘇玲そ れい、翡翠苑に仕える侍女ですね……」
彼女は震える手でメモを握りしめながら報告する。
すぐそばでは、御薬房の長・方慧仙ほう けいせんが落ち着いた様子で遺体を調べていた。
「死因は頸部圧迫による窒息死。つまり、絞殺ですね」
静かに告げられた言葉に、青荷はますます青ざめる。
「ひ、ひえぇ……!」
一方、そんな光景を興味深そうに眺めていたのは、太后の息子であり宦官の蘭珀然らん はくらんだった。
彼は腕を組み、涼しい顔でつぶやく。
「問題は、彼女がいつ殺されたかですね」
「それなら証言があります!」
青荷が慌ててメモを取り出すと、パラパラと紙をめくる。
「目撃者によると、彼女は夕方の申の刻(16時頃)にはまだ生きていたそうです!」
「……申の刻?」
太后・蘭明蕙らん めいけいは優雅に扇を開き、ぱたぱたと仰ぎながら微笑む。
「その証言、怪しいわね」
「えっ? でも、ちゃんと見たって——」
「見たのではなく、影を見たのよ」
「へ?」
青荷が間抜けな声を上げ、蘭珀然はくすっと笑う。
「これは興味深いですね」
太后はゆったりと歩きながら、柳の木の長い影を指でなぞるように眺めた。
「面白いわ。影を利用したトリックなんて、久しぶりね」
その言葉を聞き、青荷は困惑そうな顔をする。
「影を利用したトリック?」
「そういうこと」
太后は扇を閉じて、ぽんっと青荷の頭を軽く叩く。
「うっ……!」
「さあ、暇つぶしを始めましょうか」
青荷は「だから暇つぶしで事件解決するのやめてくださいよぉ!」と心の中で叫びつつ、観念したようにため息をついたのだった。
***
翡翠苑の庭園は、午後の陽光を受けて美しく輝いていた。柳の葉がそよ風に揺れ、その下で、証言者である女官・梅香ばいこうが堂々と胸を張っていた。
「私は確かに見ました! 申の刻に、この庭で蘇玲が作業しているのを!」
彼女の自信満々な態度に、青荷は「ほうほう」と納得したように頷く。
「なるほど! 影を目安にして時間を確認していたんですね!」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、太后・蘭明蕙らん めいけいは扇を開き、涼しげな笑みを浮かべた。
「……でも、それこそが犯人の仕掛けた罠よ」
青荷が「え?」と間抜けな声を上げる。
「本当の犯行時刻は、影が長くなる前の未の刻(14時頃)だった。」
「えっ? でも、影が……!」
青荷が混乱する中、太后は優雅に扇を仰ぎながら説明を続けた。
「犯人は、反射する鏡を使って影を長く見せたのよ」
「えええっ!?」
青荷は目を丸くし、あまりの驚きに後ずさる。その後ろで蘭珀然らん はくらんはくすくす笑いながら庭を見渡す。
「確かに、この庭園には装飾用の銅鏡がいくつか配置されていますね」
方慧仙ほう けいせんも興味深そうに頷く。
「日光を反射させて影を作り、あたかも申の刻のように見せかけた……。なかなか手の込んだトリックですね」
「だ、だまされたぁぁぁ!」
青荷は頭を抱え、その場でジタバタと地団駄を踏む。
「そんなのズルいですよぉ!」
その様子を見た太后は、軽く笑いながら扇で青荷の額をポンッと叩いた。
「さて、犯人はなぜ時間を誤認させたかったのかしら?」
その問いに、方慧仙が腕を組んで答える。
「アリバイ工作ですね。もし申の刻に殺害されたなら、その時間に別の場所にいた人間は疑われません」
「では、その時間に不在の人物は?」
太后の問いに、青荷は慌てて名簿をめくる。
「ええと……ええと……その時間、確実に部屋にいたと証明できる人は……」
パラパラと紙をめくる手が止まり、青荷は信じられないものを見る目で名簿を見つめる。
「麗妃れいひ様……?」
その名が告げられた瞬間——
「えええええええええっっ!?」
青荷の絶叫が、庭園中に響き渡った。
***
麗妃・楊雪蓮よう せつれんの宮殿は、静寂に包まれていた。
そんな中、本人は優雅に茶を啜りながら、微笑んでいた。
「まあ、そんな奇妙なことが起きていたのですね」
その穏やかな声を聞きながら、青荷は「犯人にしては落ち着きすぎでは?」と、小声で蘭珀然に囁く。
しかし、次の瞬間——
「おかしいわね」
バサッ!
太后・蘭明蕙らん めいけいが扇をピシャリと閉じる。
その音に、青荷は思わず「ひゃっ!」と飛び跳ねた。
「あなたの部屋には、銅鏡が一枚なくなっていたそうよ」
「……!」
麗妃の指が、ほんのわずかに震える。
青荷はすかさず目を凝らした。
(これは、ついに観念した犯人のリアクション……!)
と、内心ワクワクしながら見守る。
そんな青荷の期待を裏切るように、麗妃はふっと肩の力を抜き、深いため息をついた。
「……さすが、太后様」
コトン。
持っていた茶碗を静かに卓上に置き、ゆっくりと頭を下げる。
「蘇玲は、私の秘密を知りすぎてしまったのです」
「秘密?」
「……翡翠苑の一部の女官が、皇帝の寵愛を受けるために毒を用意していたことを」
バンッ!!
青荷が勢いよく卓を叩く。
「な、なんですかそれ!? 後宮こわっ!!」
蘭珀然が静かに頷きながら、冷静に補足する。
「権力争いの激しい後宮では、珍しいことではありませんよ」
「いやいや、常識みたいに言わないでくださいよ!?」
青荷の騒ぎをよそに、太后は優雅に頷いた。
「それを知った蘇玲は、告発しようとした。 だから——」
「あなたは、彼女を殺した」
太后の静かな言葉が、宮殿の空気を冷たく引き締める。
麗妃は再びため息をつき、肩をすくめた。
「……ええ。ちょっと工夫しすぎましたね」
「ほんとよ。影の細工なんてしなければ、もっとバレにくかったのにね?」
太后が扇で軽く自分の肩を叩くと、麗妃は小さく苦笑しながら、静かに両手を差し出した。
すぐに侍衛たちが近づき、麗妃を拘束する。
青荷はまだ納得がいかない様子で、小声で呟いた。
「……あの人、最後までちょっと優雅すぎません?」
「さすがは麗妃様ですね」
蘭珀然が感心したように言うと、太后は軽くため息をついて扇を広げる。
「まあ、これでまた暇になったわね」
「いえいえ! 太后様、暇を持て余すのが一番怖いですから!」
青荷が慌てて止めるも、太后はくすくすと笑いながら、優雅に歩き出した。
「さて、次の暇つぶしは何かしらね?」
その言葉に、青荷は震えながら天を仰ぐのだった。




