43 逆さまの血文字 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
逆さまの血文字
第一幕:暇な太后様と奇妙な血文字
紫霄宮の庭園は、春の陽気に包まれ、柔らかな風が白い花弁を運んでいた。庭の奥まった一角、朱塗りの卓に蘭明蕙(太后)と蘭珀然が優雅に座っている。
卓上には香り高い龍井茶と、山のように積まれた精巧な点心が並んでいた。
「……うん、美味しいわね、この桃花糕」
太后はしなやかに箸を動かし、ほんのり甘い桃の香りが広がる菓子を口に運ぶ。
「ええ、母上。この桂花糕も絶品です」
蘭珀然も優雅に微笑みながら、金木犀の香る菓子を楽しんでいる。彼は茶杯を傾け、ため息混じりに呟いた。
「平和な昼下がりですね……珍しく」
「ええ、本当に。何も起こらないなんて、逆に落ち着かないわ」
太后は扇を軽く開きながら、どこかつまらなさそうに呟く。
「……暇ね」
その瞬間——
「太后様、大変です!翡翠苑の壁に血文字が!」
庭の入口から宮女が血相を変えて駆け込んできた。
太后が茶杯を静かに置き、にこりと微笑む。
「……ほらね?」
蘭珀然は目を細め、淡々と桂花糕をもうひとつ口に運んだ。
「ええ、母上の“暇”発言は不吉ですからね」
「太后様、それを言うと大体事件が起こるんですから、フラグ立てないでください!」
隣で青ざめた顔の柳青荷が、もはや恒例行事のように叫ぶ。
「まあまあ、どうせすぐ行くことになるんだから、もう一口食べてからにしましょう」
太后は気にする様子もなく、桃花糕を口に運ぶ。
青荷は額を押さえながら、諦めたようにため息をつく。
「ほら、やっぱり……」
「せめてお茶だけでも……」
蘭珀然がぼそりと呟くが、その願いが叶うはずもなく、青荷に強引に腕を引かれて席を立たされた。
太后はゆったりと立ち上がり、扇を軽く振る。
「まあ、いい暇つぶしになりそうね」
庭の静寂を後にして、一行は翡翠苑へと向かうのだった——。
第二幕:逆さまの血文字
翡翠苑の一角——そこには白壁にべったりと「仇」の文字が書かれていた。暗赤色に染まったそれは、今にも壁から滴り落ちそうで、なんとも不吉な雰囲気を漂わせている。その下には、貴妃・秦雪蓮の侍女である杏蘭が倒れていた。
「うわ……これはまた物騒な……」
青荷が顔をしかめながら、身震いする。
しかし、周囲の女官たちは別の意味でザワついていた。
「……見て! 蘭珀然様がいらっしゃるわ!」
「あの優雅な佇まい……まるで仙人みたい……!」
「普段、内府にいるから滅多にお目にかかれないのよね……! こんな悲劇の現場であっても、眼福だわ……!」
事件そっちのけで興奮する女官たちの視線の先には、静かに壁を見上げる蘭珀然の姿があった。
白皙の肌に漆黒の長髪、涼やかな瞳が月光を宿したように輝いている。宦官とは思えぬ端正な顔立ちに、ひらりと舞う衣の優雅な動き——どうやらこの後宮において、彼の姿を間近で見られる機会は非常に貴重らしい。
「……ねえ、どうして現場検証の最中に黄色い歓声が上がってるのかしら?」
太后は扇で口元を隠しながら、微笑ましく蘭珀然を眺める。
「ええと……太后様、申し訳ありませんが、私にはどうにもできません……」
蘭珀然は苦笑しながら、壁を指差した。
「それよりも、ご覧ください。血文字が逆さまになっています」
「確かに、普通なら自分が見える向きで書くはずですよね?」
青荷が壁を見上げながら、顎に手を当てる。
「死因は……」
御薬房の長、方慧仙が杏蘭の脈を確かめながら、静かに告げた。
「絞殺ですね。でも、血が……?」
「確かに、首を絞められて亡くなったのなら、こんなに血が出るのは不自然ですね」
青荷が不思議そうに眉をひそめる。
太后は壁にそっと手を触れ、扇を閉じながら微笑んだ。
「なるほどね。……つまり、この血文字は被害者が書いたものではないということよ。」
「えっ!? じゃあ、誰が……?」
「決まっているじゃない」
太后はふっと楽しそうに笑い、蘭珀然の背後でまだ騒ぎ続けている女官たちを横目で見ながら、いたずらっぽく囁いた。
「犯人よ」
——またしても、後宮に渦巻く陰謀の香りが漂い始める。
***
御薬房へ向かう道中
太后・蘭明蕙は、いつものようにゆったりとした足取りで御薬房へ向かっていた。日が傾きかけた宮廷の回廊には、微かな風が流れ、竹の葉がささやくように揺れている。
そんな中、蘭珀然はぼんやりと空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「母上はなぜ、こんなにも事件に興味を持たれるのです?」
太后は歩みを止めずに、軽やかに扇を開く。
「興味ではなく、退屈しのぎよ」
「……本当に、それだけでしょうか?」
蘭珀然は半眼になりながら、じっと母を見つめる。しかし、太后は相変わらず飄々と微笑むだけだった。
「そうね…強いて言うなら、宮中の騒動はまるで囲碁のようなもの。どこに石を置けば、どんな波紋が広がるのか…...眺めるのは悪くないでしょう?」
「母上の場合、それは眺めるのではなく、最適な場所に石を打つことでは?」
「ふふっ、あなたは相変わらず聡いわね」
太后が扇で口元を隠して笑うのを見て、蘭珀然は小さく溜息をついた。
そんな二人のやりとりを背後から聞いていた柳青荷が、急ぎ足で駆け寄ってきた。
「太后様、大変です!」
「まあ、そんなに慌ててどうしたの?」
「皇后派の動きが活発になっています。今回の事件と関係があるかもしれません。」
柳青荷は息を切らしながら報告する。その表情は真剣だったが、蘭珀然はどこか諦めたように言った。
「結局、また母上の『暇つぶし』が後宮の大騒動に繋がるのですね」
「まあ、それもまた一興よ」
太后は軽く笑うと、そのまま歩を進めた。
「ならば、余計に面白くなってきたわね」
宮廷の静かな回廊に、彼女の楽しげな声が響く。柳青荷は「まったく…」と小声で呟きながらも、その後ろをしっかりとついていくのだった。