41 死を呼ぶ鈴 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
死を呼ぶ鈴
美しい月が後宮の屋根瓦を照らし、夜風が涼やかに庭の竹を揺らしていた。そんな静寂の中、紫霄宮の奥では、一人の女性が退屈そうに扇をあおいでいる。
太后・蘭明蕙。
後宮の実質的な支配者にして、名探偵(自称)。
しかし、今夜の彼女は探偵どころか、ひどく手持ち無沙汰だった。
「はぁ……暇ねぇ……」
軽やかに溜息をつきながら、扇を閉じる。
その優雅な仕草だけを見れば、まるで詩の一節のようだったが、隣に控える侍女・柳青荷は薄ら寒いものを感じていた。
(やばい……これはやばい……!)
青荷は冷や汗をかきながら、そっと太后の機嫌を取ろうとお茶を差し出す。
「太后様、今夜の白毫銀針は特に香り高いですよ?」
しかし、太后はちらりと茶を見ただけで、また遠い目をする。
「ふぅ……お茶も囲碁も飽きたわねぇ……」
青荷の心に警報が鳴り響いた。
(まずい!! 太后様が『暇』なんて言い出すと、絶対によくないことが起こる!!)
「え、ええと! で、では詩を詠んではいかがでしょう?『紅梅香る月夜の宴』とか!」
「そんな気分じゃないわ」
「え、ええとええと、ではご自分の書を編纂するとか!」
「面倒だわ」
「え、ええと——」
その時だった。
チリン、チリリン……
突然、後宮の静寂を切り裂く鈴の音が響いた。
しかも、それはどこか不気味で、背筋を冷たくするような響きだった。
青荷はびくっと肩を震わせ、恐る恐る太后の顔を見る。
一方、太后は——
扇を手元で軽く回しながら、薄く微笑んでいた。
「ほらね?」
その瞬間、夜の空気を突き破るように——
「ぎゃああああああ!」
遠くから女官の悲鳴が上がる。
青荷の心が絶叫した。
(やっぱりいいいいいい!!!!!)
この後宮では、太后が『暇』を口にすると必ず事件が起こるのだった。
***
事件現場は、翠竹庭の奥にある離れ。
夜の静けさの中、そこには一人の女官が無惨に倒れていた。顔には苦悶の表情が刻まれ、口元には白い泡……。
いかにも毒殺です、といわんばかりの光景だった。
「うわぁ、なんだかすごく毒殺っぽいですね……」
青荷は小さく身震いしながら呟く。背筋に寒気が走る。
(絶対毒殺……どう見ても毒殺……!)
一方、太后・蘭明蕙はといえば——。
相変わらず落ち着いた様子で、倒れた女官のそばに落ちている鈴を拾い上げた。
チリン、チリリン……
夜風に乗って、不気味な鈴の音が響く。
青荷はビクッと肩をすくめた。
「太、太后様、その鈴を鳴らすのやめてください! 怖いですから!」
しかし、太后は相変わらず涼やかな笑みを浮かべたまま、ゆったりと青荷を見つめる。
「青荷、この鈴の音を聞いてどう思う?」
「……不吉です」
即答だった。
太后はくすくすと笑い、鈴を軽く指で回した。
「そうね。でも、実際にこの鈴を聞いた人が次々と倒れているのよ?」
青荷の顔がみるみる青ざめる。
「そ、それってつまり、呪い……?」
ガクガクと震えながら、おそるおそる太后を見る。
「ひええ、こ、これが噂の『死を呼ぶ鈴』……!」
太后はそんな青荷の反応を楽しむかのように、ゆるりと扇を広げた。
「まぁ、呪いのように見せるのが目的だったのでしょうね」
「えええええ!?」
青荷は慌てふためく。
「じゃあ、やっぱり人為的な仕業なんですか!?」
「もちろんよ」
太后は微笑みながら、鈴を指先で弾いた。
チリン……
その音に青荷はまたビクッとなり、涙目になりながら叫ぶ。
「た、太后様、怖がってる人の前でそんなに鳴らさないでくださいよぉ!!」
太后はそんな青荷の反応を見て、ますます楽しそうに微笑むのだった——。
***
月明かりが静かに差し込む御薬房。
そこは後宮のあらゆる薬や毒が保管され、管理されている場所だった。
太后・蘭明蕙と青荷が訪れると、すでに薬学の専門家・方慧仙が待っていた。
彼女は冷静な表情で腕を組み、太后の手元にある鈴をじっと見つめる。
「この鈴、どこか変じゃない?」
太后が指先で鈴を軽く転がすと、方慧仙は慎重にそれを受け取り、じっくりと観察した。
「……確かに」
慧仙は眉をひそめ、木製の小さな匙を取り出すと、鈴のわずかな隙間をそっと擦る。
すると——
ふわっ……
ごく細かい粉末が、鈴の中から舞い上がった。
「……!」
青荷は慌てて一歩後退し、袖で口を押さえる。
「な、ななな、何か飛びましたよ!? 今の絶対ヤバい粉ですよね!? 毒ですよね!? もう吸い込みました!? 私、大丈夫ですか!? ねえ、私、息してもいいですか!?!?」
慧仙は冷静にうなずいた。
「落ち着きなさい、柳侍女。まだ危険な量ではありません」
「いやでも! 吸っちゃったらもう遅いですよね!? 太后様、私の遺言、ちゃんと聞いてくださいね!? お墓には『後宮一健気な侍女、ここに眠る』って刻んでください!!!」
青荷が半泣きで騒ぐ中、太后は優雅に扇をあおぎながら、くすくすと微笑んだ。
「大げさねぇ」
「どこがですか!? 太后様ならともかく、私は普通の人間なんですからね!?」
「そうねぇ……」
太后はしばらく考えた後、鈴を手に取り——
すっ
突然、青荷の目の前に差し出した。
「青荷、振ってみる?」
「……え?」
青荷は固まった。
そして、次の瞬間——
「絶対にイヤです!!!!!」
彼女はものすごい勢いで後ずさり、背後の薬棚に激突。
棚がガタガタと揺れ、今にも薬壺が落ちそうになる。
「ちょっ!? ちょっと!?」
慧仙が慌てて薬壺を押さえ、太后は楽しげに扇を口元にあてた。
「冗談よ、冗談」
「全っ然笑えませんから!!」
青荷は肩を抱きながら涙目で訴えた。
「もう、こんな危ないもの、さっさと処分してください!!」
慧仙は鈴を慎重に持ち直し、冷静に説明を続ける。
「この粉は、おそらく無色無臭の吸入毒ですね。極めて細かい粒子なので、空気中に舞い上がり、それを吸い込んだ者が中毒を起こす仕組みです」
「なるほどね」
太后は納得したように頷き、再び鈴を弄びながら微笑んだ。
「では、問題はどうやってこの毒を鈴の中に仕込んだのか、ね」
「ええ、その点も含めて調査が必要ですね」
慧仙が神妙な顔でうなずくと、青荷はまだ涙目のまま太后を睨む。
「……もう、二度と私に鈴を振らせようとしないでくださいね……?」
「ふふ、どうかしら?」
太后は扇を閉じると、いつもの優雅な微笑を浮かべた——。
青荷は依然として鈴を警戒しながら、おそるおそる尋ねた。
「で、では……犯人の目的は、一体……?」
太后は優雅に扇を広げ、ゆったりとした口調で答えた。
「この鈴を使えば、まるで“鈴の音を聞いた者が次々と死ぬ”ように見せかけることができるわね」
「呪いの仕業に見せかけるために……!?」
青荷の顔が一気に青ざめる。
まさか、こんな迷信じみた方法で人を殺そうとする者がいるとは……。
「ええ、そうすれば誰も直接の犯人を疑わないわ」
太后は指先で鈴をくるくると回しながら、にっこり微笑む。
「うまくいけば、自分の手を汚さずに、特定の人物を排除できるというわけ」
「そんな卑劣な……!」
青荷は拳をぎゅっと握りしめた。
しかし、太后はどこか楽しげに扇を閉じ、優雅に微笑んだ。
「でも、失敗ね」
「え?」
「だって、私の暇つぶしが始まったのだから」
バサッ——!
扇を勢いよく閉じた太后の笑みは、自信に満ち溢れていた。
青荷は思わず、涙目になりながら叫ぶ。
「だからぁ! 太后様が“暇つぶし”って言うと事件が増えるんですってば!!」
「ふふっ、仕方ないじゃない?」
「も~~~~~!!!」
青荷の嘆きの声が、御薬房に響き渡った——。