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40 消えた処刑人の剣  「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」

 消えた処刑人の剣 



 紫霄宮の庭園——そこは静寂と優雅さに包まれた世界だった。春の陽射しが柔らかく降り注ぎ、池の鯉はのんびりと水面を揺らし、柳の枝が風にそよぐ。鳥のさえずりが響き、穏やかな午後の時間が流れていた。


 そんな中、一人の女性が、退屈そうに溜め息をつく——後宮の実質的支配者、蘭明蕙らん めいけいである。


「はぁ……退屈ね」


 金細工の茶器を手に取り、気だるげにお茶を啜る。まるで世界の終わりでも迎えたかのような口ぶりだ。


 それを聞いた侍女、柳青荷りゅう せいかは、一瞬、眉をぴくりと動かした。(また始まった……)と心の中で嘆息しつつも、表情はにこやかに取り繕う。


「またですか、太后様」


「ええ」蘭明蕙はしなやかに扇を動かしながら、どこか物憂げに言った。「ここ数日、何の事件も起こらないのよ。せっかく後宮にいるのに、こんな平穏じゃ暇すぎるわ」


「普通、それは良いことでは?」


 青荷は苦笑しながら、(少なくとも、宮中の者にとっては平和が一番なんですけど……)と密かに思う。しかし、蘭明蕙にとっては違うらしい。


 そんな他愛のない会話をしている最中——


 すっ……


 庭園の入り口に影が差した。


 端正な顔立ちを持つ宦官、蘭珀然らん はくらんが、静かに姿を現した。風にたなびく衣がどこか劇的な雰囲気を醸し出しているが、普段穏やかな彼の顔に険しい色が浮かんでいるのが気になる。


 蘭明蕙は茶をゆっくりと飲みながら、軽く目を細めた。「どうしたの?」


 蘭珀然は一呼吸置き、静かに口を開いた。


「太后様、後宮の倉庫から処刑人の剣が消えました」


 後宮の倉庫——そこは普段、宮中の物資を厳重に管理する場所だった。古びた木の棚が並び、帳簿を記した竹簡がきっちりと整理されている。埃っぽい空気が漂い、宮女や宦官ですら滅多に立ち入らない。


 そんな静かな倉庫の一角で、あるべきはずのものが忽然と姿を消した——処刑用の剣である。


「ええっ!? 処刑用の剣が盗まれた!?」


 青荷は、思わず声を上げた。思わず隣の蘭明蕙らん めいけいを見やるが、彼女は相変わらずの優雅な微笑を崩さない。


「そうです」


 静かに頷いたのは、宦官の蘭珀然らん はくらん。その端正な顔には、どこか思案の色が浮かんでいる。


「それを保管していた宦官、李徳文り とくぶんが昨夜、剣の異変に気づいたようです。しかし——」


「しかし?」


「今朝になって彼は自室で死んでいました」


「は!?!?」


 青荷は思わず飛び上がった。


「ちょ、ちょっと待ってください! 剣が消えただけじゃなく、持ち主まで!?」


「そういうことです」


「ええええ!? めちゃくちゃ物騒なんですけど!? そもそも、後宮に処刑用の剣なんて置いてあること自体がおかしくないですか!?」


「おかしくはありませんよ」蘭珀然は落ち着いた口調で言う。「皇帝陛下が特に危険視する罪人は、正式な処刑場ではなく、後宮で処分されることもありますから。」


 ……しん……


 庭園に、一瞬の静寂が訪れる。


 春風が吹き抜け、柳の葉がさわさわと音を立てた。


 次の瞬間——


 ぱちんっ!


 蘭明蕙が手にしていた扇が音を立てて閉じられる。


 そして、彼女は口元に薄く笑みを浮かべながら、優雅に言った。


「面白いじゃない」


「えっ、何がですか!?」


 思わず青荷が声を上げた。


「この後宮で、そんなものが消えるなんてね」蘭明蕙は扇をくるりと回しながら、どこか愉快そうに続ける。「……暇つぶしには、ちょうどいいじゃない?」


「暇つぶし……!?!?!?」


 青荷の心の叫びが、春の陽気とともに風に流されていった——。


 青荷は頭を抱えた。だが、一方で蘭明蕙は、悠々と茶を口にしながら、扇を優雅に開いて言う。


「なるほど」


 ぱたり。


 扇を軽く閉じると、ふっと目を細めた。


「つまり、消えた剣と李徳文の死が関係しているわけね」


「た、太后様!? そんな楽しそうに言わないでください!」


 青荷の叫びが、穏やかな春風にかき消されていった——。



 ***


 李徳文の部屋は、もともと狭く質素な作りだった。だが、今はそれどころではない。


 ——部屋の中央に、李徳文が仰向けに倒れている。


「ひぃっ!」


 青荷は思わず身をすくめた。


 首元には深い切り傷、床には血溜まり。それだけでも恐ろしいのに、さらに不可解なことに凶器の剣がどこにもないのだ。


「こ、これじゃまるで幽霊の仕業ですね……」


 青荷が震えながら呟くと、蘭珀然らん はくらんは静かに床に跪き、じっと遺体を見つめた。


「幽霊なら、こんなに血まみれにならないだろう」


「そこは否定してくれなくていいんです!」


 青荷が半泣きで反論するのをよそに、蘭珀然はさらに細かく遺体を調べる。そして、ふと李徳文の手に注目した。


「……彼の手に、小さな傷がいくつもある」


「え?」


 青荷が恐る恐る覗き込むと、確かに指や手のひらに細かい切り傷が無数についている。


「さらに、剣を保管していた箱にも血痕がある」


「箱にも?」


 青荷が怪訝そうに眉をひそめると、太后・蘭明蕙らん めいけいが悠々と扇を開きながら言った。


「つまり、剣に何か細工がしてあった可能性が高いってこと?」


「ええ。おそらく——剣そのものに仕掛けが施されていたのではないかと」


 蘭珀然が冷静に推測すると、青荷は顔を青ざめた。


「ちょ、ちょっと待ってください! つまりこの剣、持ったら勝手に人を傷つける恐ろしい仕掛けがあるってことですか!?」


「ええ、そんなところでしょうね」


「そんな危ないものが後宮にあるって、一体どういうことなんですかー!!?」


 青荷の絶叫が、静まり返った部屋に響き渡った。


 ***


 しっとりと湿った地面の上に、一振りの剣が転がっていた。


「……発見しました」


 影衛司の密偵が差し出した布に包まれた剣を見て、青荷は恐る恐る覗き込む。


「や、やっぱり呪いの剣なんじゃ……」


「違います」


 青荷の妄想をばっさり切り捨てながら、御薬房の長・方慧仙ほう けいせんが剣を慎重に手に取った。彼女の目が鋭く光る。


「……これは普通の剣ではありませんね」


「どういうことです?」


 蘭珀然が問いかけると、方慧仙は柄の部分を指し示した。


「持ち手に極小の針が仕込まれています。触れた者に微細な傷を与え、そこから毒が染み込む仕組みです」


「ええええ!? そんな恐ろしい細工、誰がするんですか!」


 青荷が思わず数歩後ずさる。


「ふふ」


 ——場違いな笑い声が響く。


「……ふふふ」


 蘭明蕙らん めいけいが静かに笑っていた。


「ええっと……太后様?」


 青荷が青ざめながら声をかけると、蘭明蕙はゆったりと扇を閉じ、微笑んだまま言った。


「おそらく、剣を盗んだのは李徳文自身でしょうね」


「えええっ!? でも、彼は死んじゃいましたよ!」


 青荷がますます混乱する中、蘭珀然が冷静に推測する。


「つまり、誰かが彼を利用したということか」


「その通り」


 太后が美しい指先で扇をトン、と手のひらに当てる。


「李徳文は剣を盗んだが、気づかぬうちに自分が毒の罠にかかるよう仕向けられていたのよ」


「つまり……これは計画的な殺人だった……?」


 蘭珀然が低く呟くと、青荷は顔を引きつらせながら叫んだ。


「ちょっと待ってくださいよ! 剣を盗ませた上で、持ち主を毒殺するなんて、どんだけ手の込んだ犯行なんですか!?」


「まぁ、だからこそ面白いのよね」


 蘭明蕙は優雅に微笑んでいたが、その目だけは鋭い光を宿していた。



 ***


 紫霄宮の庭園。 春風が心地よく吹き抜け、柳の葉がさらさらと揺れる。蘭明蕙らん めいけいは優雅に椅子にもたれ、金細工の茶器を手に取っていた。


「また皇后様ですか……」


 青荷りゅう せいかは、深いため息とともに頭を抱えた。


「ええ、やっぱり皇后の差し金だったわ」


 蘭珀然らん はくらんが巻物を手に静かに頷く。調査の結果、問題の剣を細工した職人が、皇后・沈玉蘭しん ぎょくらんの命で後宮に呼ばれていたことが発覚したのだ。


「もう、なんでこう、いつも皇后様が絡んでくるんでしょうねぇ……!」


 青荷が半泣きでぼやくと、蘭明蕙はふっと微笑んだ。


「まぁ、それだけ後宮が退屈しないってことよ」


「そういう問題じゃありません!」


 青荷の鋭いツッコミをさらりとかわしながら、太后はしなやかに扇を開いた。


「でも、これ以上詮索するのは無粋というもの」


「えっ?」


「詮索しすぎると、私の可愛い暇つぶしがなくなってしまうでしょう?」


「そっちですか!?」


 青荷が思わずのけぞる。


 ——しかし、蘭明蕙はふと手を止め、どこかつまらなそうな表情を浮かべた。


「……それよりも」


「それよりも?」


 青荷は嫌な予感を覚え、全身の警戒センサーを作動させる。


 太后は茶を一口含んで、ため息混じりに呟いた。


「また暇になっちゃったわ」


「出たああああ!!!」


 青荷はがっくりと肩を落とし、心の底から嘆く。


「どうか、どうか穏やかに過ごしてください……!!!」


 ——こうして、太后の暇つぶしはまた一つの幕を閉じた。


 しかし、後宮の陰謀は尽きることがない。次なる事件の気配が、すでに静かに忍び寄っていた——。


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