32 消えた密書と毒殺 『後宮の名探偵・太后様の暇つぶし』
後宮の名探偵・太后様の暇つぶし
消えた密書と毒殺
@ 翡翠苑、密書を持つ女官の死
月明かりが静かに翡翠苑の廊下を照らしていた。夜気は冷たく、静寂に包まれている。
女官・程香梅は、焦った様子で廊下を歩いていた。手には小さな封書——皇帝宛の密書を握りしめている。
(早く、早くこれを届けなければ——)
心臓が痛いほどに高鳴る。もしこの手紙を届け損ねたら、ただでは済まない。誰が味方で、誰が敵かもわからない後宮で、彼女の行動はまさに命がけだった。
しかし——
突如、息が詰まるような感覚が喉を襲った。
「……っ!」
体が強張り、足がもつれる。
(な、なぜ……?)
喉の奥が焼けつくように熱い。視界が揺れ、力が抜ける。密書を握ったまま、彼女は床へと崩れ落ちた。
次の瞬間、完全な静寂が訪れた。
——翡翠苑の廊下に、一人の女官が冷たく横たわる。
手の中には、未開封の密書。
「皇帝陛下 極秘」
その封に、光がわずかに反射していた。
@ 紫霄宮、太后の「暇つぶし」
「暇ね。」
紫霄宮の庭に面した広間。蘭明蕙は肘掛け椅子にゆったりと座り、扇で頬を仰ぎながらぽつりと呟いた。
「太后様、それ、今朝だけで三回目です。」
傍らで茶を淹れていた柳青荷が、呆れたように言う。
「だって本当に暇なのよ。」
「後宮には毎日何百人もの女官が働いていて、誰かしら何かしら問題を起こしてるはずですけど?」
「そういう雑事はつまらないの。」
太后は軽く溜息をつき、茶碗を指先でくるりと回す。
「私が求めているのは、もう少しこう……知的な刺激なのよ。」
「知的な刺激……?」
「例えば、宦官長のカツラの秘密とか、皇后様の新しい陰謀とか。」
「前者は刺激の種類が違いますし、後者は刺激が強すぎます!」
柳青荷は頭を抱えつつ、仕方なく話題を変えることにした。
「では、最近の蘭香院での騒動でも。」
「蘭香院?」
「ええ、昨夜また女官たちがこっそり花札賭博を……。」
「また?」
太后は扇で口元を隠しながら、くすりと笑う。
「あの子たち、もはや兵士のようね。で、何を賭けていたの?」
「今回は金釵でした。」
「まあ、それはまた豪華ね。負けた子は?」
「『私の嫁入り道具だったのに!』と泣き叫び……。」
「ええ、ええ、どうせまた宦官たちが仲裁に入ったのでしょう?」
「その通りです。蘭珀然様が出てきて、『人生もまた賭けの連続、負けを認めることも大切ですよ』と達観したことを言っておられました。」
「ふふ、珀然らしいわね。」
太后は微笑しながら茶を一口飲んだが、その次の瞬間——
「太后様、大変です!」
突然、慌てた様子の宮女が駆け込んできた。
「翡翠苑で、女官が死にました!」
一瞬の静寂。
太后は扇を閉じ、柳青荷に目配せしながら微笑む。
「やっと暇がなくなりそうね。青荷、ちょっと調べてきて」
そう言いながら、彼女はゆったり扇で頬を仰いだ。
@ 密書の消失と女官の死
少し時間は遡る。
朝靄がまだ薄く漂う翡翠苑の書庫の前。ひんやりとした空気の中、鳥のさえずりが静かな庭に響いていた。
しかし、その穏やかな朝を破るかのように——
「きゃああああっ!」
甲高い悲鳴が後宮に響き渡った。
「な、何事です!?」
女官たちが次々と駆けつけ、書庫の前で震える少女を見つけた。彼女の指先は震え、呆然と一点を指し示している。その視線の先——
程香梅の亡骸が、冷たい石畳の上に横たわっていた。
口元には血が滲み、苦しみもがいたような跡が残る。
「ひっ……!」
誰かが息を呑む。誰かが小さく悲鳴を上げる。そして、誰もが一歩ずつ後ずさった。
「ど、どうしましょう!? これは……!」
「まずは、すぐに宦官長様に……!」
「そうね! 早く報告しないと!」
女官たちは顔を見合わせながら慌てふためき、飛ぶようにその場を後にした。
誰も気づかない——倒れた程香梅の指先が、何かを掴むように少しだけ動いたことに。
そして、彼女のすぐそばに転がる封書の欠片に——。
宦官長・曹懐仁の大騒動
「な、なんだと!? 密書が消えた!!?」
翡翠苑の奥、報告を受けた宦官長・曹懐仁の声が響いた。彼は顔を真っ赤にして、汗を拭きながら立ち上がる。
「ど、どこを探しても見当たらんのか!? そんな馬鹿な!」
「はい、程香梅様が最後に持っていたとされるのですが……。」
「……それならば、彼女が盗んだということではないのか!?」
「そ、それが、はっきりとは……。」
「はっきりせんのか!!」
ドン! と机を叩き、曹懐仁はあちこちに怒鳴り散らす。しかし、事態ははっきりしないまま。
程香梅が本当に密書を盗んだのか? それとも、誰かに騙され、利用されただけなのか?
まさに混乱の極み。
「ちっ……このままでは皇后様に顔向けできん!」
宦官長の顔が青ざめる。もしこの密書の件が皇帝の耳に入れば、大問題だ。いや、もうすでに大問題になっている。
「と、とにかく後宮中をくまなく探せ! 必ず密書を見つけるのだ!!」
「は、はいっ!」
宦官たちは蜘蛛の子を散らすように飛び出していった。
一方、その頃。
「ふーん、なるほどね。」
紫霄宮の広間で、お茶を啜る蘭明蕙。報告を聞いた彼女は、さして興味がなさそうに指先で扇を弄んでいる。
「女官が死んで、密書が消えた……それで宦官長が大慌て、と。」
「ええ、まるで落ち着きのない鶏のようでした。」
柳青荷はため息混じりに報告を続けた。
「死因は不明、でも口元には血。密書は行方不明。どうやら後宮中が大騒ぎになっているようですね。」
「へえ……。」
太后は茶碗を揺らしながら、じっと考え込む。
「で、陛下は?」
「えーと……。」
柳青荷は少し考えて、答えた。
「まだ夢の中です。」
「……相変わらずね。」
蘭明蕙はくすくすと笑った。
「それにしても……。」
ゆっくりと椅子から立ち上がり、紫の衣の袖を揺らす。
「これはいい暇つぶしになりそうね。」
その瞳がふっと鋭さを増した。
「さあ、青荷。ちょっと見に行きましょうか。」
「ええっ!? いや、でもこれは宦官長様の管轄では……。」
「だからこそ面白いのよ。ほら、行くわよ。」
「は、はいぃ……!」
柳青荷は不満げに眉をひそめながらも、結局は従うしかなかった。
こうして——
太后様の「暇つぶし」は幕を開けたのだった。




