30 密室の湯殿殺人 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
――密室の湯殿殺人――
紫霄宮の縁側、午後のひととき。
金色の陽光が障子越しに降り注ぎ、風がゆるりと庭の木々を揺らす。静かで穏やかな時間が流れる中、一つだけ異質な音が響いていた。
「ん~……美味しいわぁ。」
蘭明蕙は、繊細な細工が施された桃花餅を口に運び、恍惚とした表情を浮かべた。
「やっぱり茶には甘いものよね。事件の後の甘味は格別だわ。」
そんな彼女の隣では、柳青荷が呆れたように腕を組んでいる。
「太后様……事件があったばかりなのに、ずいぶん余裕ですね。」
「だって、暇だったんですもの。」
もぐもぐ。
言いながら、また一口。桃花餅のあんこの甘さが口の中に広がる。
「ふぅ……平和ねえ。」
――いや、全然平和じゃない!
青荷は心の中で思い切り突っ込んだが、もちろん口には出さない。
「まったく、太后様は事件が起こると嬉しそうに推理なさって……解決したら満足げにお菓子を楽しむんですから……」
「そりゃあ、事件がないと退屈だもの。」
「えええええ!? 退屈って!! そもそも後宮で事件が起きること自体、おかしいんですよ!?」
「でも、起こるものは仕方ないじゃない? なら、楽しんだ方が得でしょ?」
にっこり微笑む蘭明蕙に、青荷はがくりと肩を落とした。
「母上、また事件を楽しんでいましたね?」
「やれやれ、また太后様が妙なことを言っていると聞いて、確かめに来ましたよ」
静かに襖が開き、蘭珀然が現れた。
彼は白皙の肌に漆黒の長髪を持ち、宦官でありながらまるで貴公子のような佇まい。
その整った顔には、苦笑とも呆れともつかない表情が浮かんでいる。
「母上、また事件を楽しんでいましたね?」
「ええ、とても面白かったわ。」
即答。
「……はぁ。」
ため息と共に席についた珀然は、卓上のお菓子に目を向けると、ひょいと一つ摘まんで口に入れた。
「ん、美味しいですね。」
「でしょ?」
母と息子が並んでお菓子を味わう光景は、一見すると穏やかな親子の団欒のようだ。
――ただし、話している内容が異常なのを除けば。
青荷は思わず頭を抱えた。
「珀然様まで……!」
「だって、美味しいじゃないですか。事件が解決した後くらい、甘いものを楽しんでもいいでしょう?」
さらりと言う珀然に、青荷は言葉を失った。
(この親子、やっぱり感覚がちょっとおかしい……!!)
「次の事件が楽しみね?」
「さて、今回の事件も無事に解決したことだし――」
蘭明蕙は湯呑を手に取り、涼しげに微笑んだ。
「これでまた、暇になっちゃうわ。」
――フラグ発言!!!
青荷は全力で頭を振った。
「いえいえいえいえ! そんなこと言うとまた事件が起こりますって!!」
「そうかしら?」
「そうですよ!! なんならもう次の事件が起こる気がしてきましたもん!!」
「ふふ、それなら楽しみね。」
「楽しんじゃダメですーー!!!」
青荷の叫びが後宮に響き渡る中、蘭明蕙は上機嫌にお茶をすする。
その横で、珀然が肩をすくめていた。
「でも、確かに皇后派の動きが怪しいですね。すぐに次の事件が起こるかもしれませんよ。」
「えっ!? 珀然様まで!?」
青荷の悲鳴に、蘭明蕙と珀然は優雅にお茶とお菓子を楽しみながら、静かに笑う。
「ふぅ……やっぱりお茶とお菓子があれば、何もいらないわね。」
蘭明蕙は、優雅に湯呑を傾け、満足げに微笑んだ。
対面では、柳青荷がすでに悟った顔でこちらを見ている。
「……太后様、次の事件の気配を感じてますね?」
「ふふ、どうかしら?」
すっと扇を開いて顔の下半分を隠す蘭明蕙。その目が、どこか楽しげに光る。
青荷は「またか……!」と心の中で叫びながら、深々とため息をついた。
そこへ、ひとりの宮女が駆け込んできた。
「太后様、大変です!!」
「ほらね。」
青荷が絶望した表情を浮かべる中、蘭明蕙はしれっとお菓子を一口。
一方で、すでに諦めの境地に達している蘭珀然は、お茶を飲みながら静かに尋ねる。
「それで、今度はどんな事件ですか?」
宮女が息を整えながら報告する。
「紫霄宮の湯殿で……侍女長の杜彩霞が亡くなっているのが見つかりました!」
「ほう。」
蘭明蕙は興味深げに頷く。
「死因は?」
「溺死……のようですが、湯殿は内側から鍵がかかっていて、誰も入れないはずだったのです!」
「密室、ねえ。」
蘭明蕙は湯呑を置き、すっと立ち上がった。
「青荷、珀然。支度なさい。」
「はぁ……やっぱりこうなるんですね……。」
青荷はしぶしぶ後に続き、珀然は微笑を浮かべながら扇を開いた。
「母上、本当に推理が好きですね。」
「暇つぶしには、ちょうどいいでしょ?」
――こうして、新たな事件の幕が開いた。
***
湯殿の扉が開かれた瞬間、もわっと湯気が溢れ出た。
「うわぁ……これはなかなか……」
青荷が顔をしかめながら扇で湯気を払うが、あまり意味がない。まるで雲の中に突っ込んだようだ。
紫霄宮専用の湯殿は、美しい白檀の香りが満ち、広々とした浴槽にはお湯がたっぷりと張られている。
壁には繊細な蓮の彫刻が施され、湯の表面には花びらが浮かぶ――本来ならば極上の癒しの空間。
しかし、今はその湯の中に侍女長・春芳の遺体が静かに浮かんでいた。
青荷が息を呑む。
「……すごく穏やかに浸かってますね。」
「……青荷、それはさすがに不謹慎じゃない?」
隣で蘭珀然が眉をひそめる。
「す、すみません! でも、本当に気持ちよさそうで……」
「まあ、確かにね。」
蘭明蕙は扇を開き、まるでのんびり湯浴みでも楽しむかのように遺体を眺めた。
春芳の顔は苦痛に歪むことなく、まるでただ目を閉じているようにすら見える。
周囲に争った形跡もない。
「溺死のようだけど、浴槽の深さはせいぜい腰ほど。普通、大人が溺れるかしら?」
蘭明蕙が首を傾げる。
「確かに、お湯の中で動けなくなるほどの深さじゃないですね」
青荷が浴槽の縁を覗き込みながら答えた。
「それに、お湯も綺麗です。もし毒が使われたなら、何かしらの痕跡が残るはずなのに……」
珀然も腕を組み、ゆっくりと浴槽を見渡す。
「となると、毒殺の可能性は低いですね」
「……ふふっ。」
蘭明蕙は含み笑いを漏らしながら、扇を軽やかに翻した。
「違うわよ、珀然。毒を使って殺した後で、その毒を消し去ったのよ」
「えっ!? そんなこと可能なんですか?」
青荷が思わず大声を上げた。
「ええ、後宮の湯殿ならね」
蘭明蕙の唇が優雅な笑みを描く。
――湯殿の湯気の向こうで、彼女の推理が光り始める。




