27 書庫に眠る毒の巻物「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
翠竹庭——凌月珊の居所
「わ、わたくしが……陛下を毒殺しようとしたですって!?」
豪華な屏風の前で、寵妃・凌月珊は、まるで雷に打たれたかのように目を見開いた。
「そんな恐ろしいこと、わたくしがするはずありません!」
涙ぐみながら、震える手で繊細な刺繍の入った袖を握りしめる。
「ええ、そうでしょうね」
対する蘭明蕙は、相変わらずのんびりと扇を開閉しながら、まるで他人事のように微笑んでいた。
「凌妃自身がそんな大胆なことをする度胸があるとは思えないわ」
「そ、そうです! わたくしはただ、陛下にお喜びいただきたくて……」
凌月珊はふるふると首を振り、青荷に助けを求めるような視線を送るが、青荷は困ったように肩をすくめるだけだった。
「でもねぇ、不思議なことがあるのよ」
明蕙はくるりと扇を回しながら、面白がるような声で続けた。
「あなたの側仕えの蘇蓮が、密かに国外の商人から毒を手に入れていたことが分かったの」
「そ、それは……?」
「まさか知らなかった、なんて言わないわよね?」
凌月珊の顔がみるみる青ざめる。
「わ、わたくしは何も知りません! ほんとうに!」
「そうなの?」
明蕙はあえて信じるそぶりを見せず、そっと手元の茶杯を弄んだ。
「だってね、蘇蓮はあなたの身の回りを世話する側近でしょう? そんな人が密かに毒を入手していて、あなたが何も知らなかったなんて、ちょっと不自然じゃない?」
「で、でも、わたくしは本当に何も……!」
凌月珊は必死に否定するが、その焦りようは逆に怪しく見える。
「……ふむ」
明蕙は顎に指を添え、少し考え込んだ。
「確かに、あなたが直接手を下したとは思えないのよね。でも……」
扇を閉じ、凌月珊の目をまっすぐ見据える。
「あなたの側近たちは、もしかすると『あなたのために』勝手に動いたのかもしれないわね?」
「えっ……?」
凌月珊の表情が一瞬固まり、その後ゆっくりと唇を震わせる。
「そ、そんな……!」
彼女の目に涙が溜まり、今にも泣き出しそうだった。
「おそらく、あなたを皇后よりも優位に立たせようとする誰かが、陛下を排除しようと考えたのでしょう」
「そんな……そんなこと……!」
凌月珊は肩を震わせながら、しばらく何かを考えていたが、ついに小さくつぶやいた。
「……蘇蓮……」
「やっぱり、心当たりがあるのね?」
太后は余裕の笑みを浮かべる。
「さあ、もう少し聞かせてもらいましょうか?」
こうして、大后の推理はさらなる真実へと近づいていくのであった。
***
紫霄宮——太后・蘭明蕙の御前
「ええい、手を離しなさい! わ、私は何もしていませんわ!」
ひらひらと袖を振り乱しながら、御薬房の女官・王芙蓉は暴れた。だが、影衛司の密偵たちはそんな茶番に付き合うつもりはない。ぴたりと動きを封じられ、まるで布袋の中の魚のようにじたばたするばかり。
「ほうほう、ずいぶんとお元気ね。」
蘭明蕙は優雅に扇を広げ、くつくつと笑った。
「だ、だって! 私はただ、言われた通りに動いただけで……!」
「ふふ、それは結構。では、誰の指示だったのかしら?」
明蕙がのんびりと尋ねると、王芙蓉は口をぐっと結び、ちらりと隣を見る。そこには、同じく捕らえられた凌月珊の側近・蘇蓮の姿があった。
「……申し訳ございません、お嬢様……」
蘇蓮はしょんぼりとうつむき、ついに観念したように口を開いた。
「私たちは……ただ、お嬢様をもっと高いお立場に……!」
「そ、そんなつもりはなかったのに……!」
傍らで見守っていた凌月珊は、半ば泣きながら叫んだ。が、その必死の抗弁も、明蕙の冷静な視線を前にすると、ただの言い訳にしか聞こえない。
「なるほどね」
太后は扇を閉じ、軽く頬杖をついた。
「つまり、あなたたちは『お嬢様のため』に勝手に毒を仕入れて、勝手に皇帝を狙った、と」
淡々とした言葉とは裏腹に、その目はまるで鷹のように鋭い。
「ち、違います! 陛下を狙うつもりはなかったんです! ただ、皇后を……」
「皇后を排除し、お嬢様を後宮の頂点に据えたかった……そういうことね?」
太后は微笑みながらも、その声には冷たさが滲んでいた。蘇蓮と王芙蓉は震え上がり、ついに観念したようにうなだれる。
「おやおや、後宮の勢力を変えたいなら、もっと別の方法があったでしょうに」
そう言いながら、太后は軽く手を振る。影衛司の密偵たちが素早く動き、王芙蓉と蘇蓮に手をかける。二人の「お嬢様ー!」という情けない叫び声が、紫霄宮に響き渡った。
「……はぁ……」
残された凌月珊は、まるで気が抜けたようにへたり込んだ。
「こんなことになるなんて……」
「まあ、あなた自身が黒幕じゃなかっただけ、少しは運が良かったわね」
明蕙は淡々と言い放ち、扇を軽く仰ぐ。
「で、でも……私はどうなるの……?」
「それは陛下と相談ね。」
にっこりと微笑みながら、明蕙はお茶を一口。事件の幕引きは、もうすぐそこだった。
紫霄宮の広間に、沈黙が漂う。
寵妃・凌月珊はすっかり青ざめ、膝をついている。先ほどまでの涙も枯れ、ただ項垂れるばかり。彼女の傍らには、つい先ほどまで「お嬢様のため!」と叫んでいた側近たちが、しょんぼりと肩を落としている。すでに影衛司によって連行される運命が決まっていた。
蘭明蕙は、そんな彼女たちをじっと見下ろしながら、扇をぱたぱたと仰いでいる。
「さて、凌月珊。あなたの処遇だけれど……」
その言葉に、凌月珊はびくりと肩を震わせた。すぐにでも処刑を言い渡されるかもしれない。冷や汗がつつつ、と額を流れた。
「……私、本当に何も知らなかったんです……」
「ええ、知っているわ」
明蕙はさらりと言う。
「でも、知らなかったで済まされる問題でもないのよ。あなたの身近な者が皇帝暗殺を企てたのだから」
凌月珊の背筋が凍る。これが後宮という場所だ。罪を犯したのが「自分ではない」からといって、必ずしも無事でいられるわけではない。
「……ですから、どうかお許しを……!」
彼女は必死に額を地につける。だが、明蕙は特に興味がなさそうにお茶をすすった。
「そうねえ。まあ、あなたを処刑してしまうのも、ちょっと惜しいわね」
「……ほ、本当ですか?」
ぱっと顔を上げる凌月珊。しかし、明蕙の唇に浮かぶのは、ただのんびりとした微笑みだった。
「ただし、一つ条件があるわ」
「じ、条件……?」
「これからは、私の庇護のもとで暮らしなさい」
凌月珊は一瞬、何を言われたのかわからず、ぽかんとする。そして、隣にいた柳青荷がすかさず突っ込んだ。
「……太后様、それってつまり、凌月珊様を自分の配下に加えるってことですか?」
「そうとも言うわね」
太后は涼やかに微笑んだ。
「今の彼女は、皇后派からも側室派からも微妙な立場でしょう? なら、私の元に置いておけば、無駄に争いに巻き込まれずに済むわ」
「え、ええっと……つまり、それは私が……太后様の……?」
「そうよ、私の庇護を受けるということは、私の駒として生きるということ」
にっこりと微笑む太后。だが、その笑顔の裏にあるものを察した凌月珊は、ゴクリと息を飲んだ。選択肢はない。選ばなければ、生き残れない。
「……よろしくお願いいたします……」
力なく答えた彼女を見て、柳青荷は思わず頭を抱えた。
「太后様、また面倒な人を増やしましたね……」
「だって、暇つぶしにはちょうどいいじゃない?」
太后はお茶をもう一口。こうして、凌月珊は太后派に組み込まれ、後宮の勢力図がまた少し変化することとなった。
***
「これでまた暇になっちゃうわ」
紫霄宮の一室。蘭明蕙は上等な茶葉を使った香り高い茶をすすっていた。窓から差し込む柔らかな光が、彼女の気まぐれな笑みを照らす。
「ふう、なかなか面白い事件だったわね」
対面に座っていた柳青荷は、半ば呆れ顔でため息をついた。
「太后様、本当に事件が好きですね……」
「だって、暇だもの」
さらりとした一言。しかし、その言葉の裏には、彼女が持つ類稀な知性と飽くなき好奇心が垣間見えた。
「でも、これでまたしばらくは静かになるんじゃないですか?」
「そうねえ。でも……」
太后は扇を広げ、口元を隠しながらくすくすと笑った。
「後宮って、静かになることなんてないのよね」
彼女の視線の先では、皇后派と側室派の間で新たな火種がくすぶり始めていた。
——後宮の陰謀劇は、これからも終わることはない。