26 書庫に眠る毒の巻物「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
翠竹庭——皇帝が寵妃たちと過ごすための美しい庭園。
蘭明蕙は 優雅に蓮池のほとりを歩きながら、扇でゆっくりと風を仰いでいた。
柳青荷はその後ろを 小走りでついていきながら、必死にメモを取る。
「つまりですね!」
「毒の巻物を仕掛けたのは、凌月珊の宮に仕える女官・宋蓮香」
「でも、凌貴妃本人は『そんなこと知らない!』と涙ながらに否定している、と」
「ふむふむ」
「まるで世にも悲しい冤罪事件のようですが、果たして本当に彼女は無関係なのか——?」
「……青荷?」
「はい!」
太后は ちらりと横目で青荷を見た。
「あなた、今ちょっと楽しんでない?」
「い、いえ、そんなことは!」
青荷は慌ててメモを抱え直し、咳払いをした。
「ですが、太后様、凌貴妃が本当に無関係なら、誰が勝手にこんなことを?」
「それよ」
太后は 蓮池を見つめながら、指で扇をとんとんと叩いた。
「凌月珊が自ら手を下したのではなく、彼女の周りの者が勝手に動いたとしたら?」
「そんなことあるんでしょうか?」
「あるわよ?」
太后は くすくすと笑いながら、池の中を指差した。
青荷がその方向を見ると—— そこには、鯉のエサを横取りしようとする小さな亀が、優雅に泳ぐ鯉の背中にしがみついている光景が広がっていた。
「……?」
「この鯉を凌月珊としましょう」
「は、はぁ」
「彼女はただ優雅に泳いでいるだけ。でも、その背中には亀がちゃっかり乗っていて、気づかぬうちにエサを奪っているの」
「つまり、凌月珊の周りの者が、彼女の知らぬ間に何かを企んでいた……?」
「ええ」
「で、でも!」
青荷は 慌てて池の亀を指さした。
「それなら、その亀——じゃなくて、黒幕が誰なのか突き止めないと!」
「ふふ、青荷」
太后は 楽しげに微笑みながら扇を閉じた。
「鯉の背中に乗る亀は、そう簡単に降りないのよ?」
「えぇぇ……!」
青荷は 池の中の亀を見つめながら、呆然と立ち尽くすのだった。
——こうして、真の黒幕探しが始まる。
***
紫霄宮——太后の居殿。
蘭明蕙は 卓に肘をつきながら、退屈そうに茶杯を転がしていた。
柳青荷は その横で巻物の整理をしながら、ため息をつく。
「太后様、またそんな態度を……」
「だって、面白くないんですもの」
「えっ?」
太后は 茶杯をひょいっと持ち上げると、その中身を一口飲んでから、にこりと微笑んだ。
「せっかくの毒入り巻物事件、てっきり後宮の女たちの陰謀かと思っていたのに——」
「ただの巻き添え事故ですって?」
「……は?」
青荷の手が止まる。
「だって、李博文ってば、たまたま皇帝より先に巻物を読んでしまっただけでしょ?」
「そ、そうですね」
「つまり、本当の標的は皇帝だった。でも李博文がうっかり割り込んだせいで、犯人の計画は台無しになったわけ」
「た、確かに……」
青荷は 何かを考え込むように、そっと顎に手を当てた。
「でも、そんなことってあるんでしょうか?」
「あるわよ」
太后は 卓の上の茶菓子をひとつ摘むと、ひらひらと扇であおぎながら、気怠げに言った。
「たとえば、あなたが私のお菓子をつまみ食いしようとして、でも先に珀然が食べてしまったとする——」
「えっ! そ、そんなことしません!」
「……」
「……しませんってば!」
「ふふっ」
太后は扇で口元を隠しながら、楽しげに笑う。
「でも、犯人からすれば『狙った相手じゃないのに勝手に犠牲にならないでよ!』って思ってるでしょうね」
「そ、それは……」
青荷は ちらりと横目で明蕙を見た。
(いや、むしろ『余計な手間を増やしてくれてありがとう』とか思ってそうな気がするけど……)
「となると、次の問題は?」
太后が 茶菓子をひとかじりしながら、青荷に促す。
「えっと……」
青荷は 慌てて手元の書簡を見直し、メモを指でたどった。
「本当に皇帝を狙ったのは、凌月珊の周りの者なのか、それとも別の勢力なのか——」
「ふふ、そういうこと」
太后は にっこりと微笑みながら、ゆっくりと扇を広げた。
「さて、まだまだ暇つぶしが続きそうね?」
「そ、そんな気軽な感じで……!」
青荷は 思わず額を押さえながら、心の中で叫ぶのだった。
***
紫霄宮——夜。
静寂の中、明るく灯された室内。蘭明蕙は 卓の上に広げられた書簡を扇で軽く叩きながら、興味深そうに目を細めた。
「国外の密輸品?」
柳青荷は 茶器を持つ手を止め、戸惑いながら答える。
「……ええ。影衛司の陳星河が調べたところ、霧隠は後宮で簡単に手に入るようなものではなく、海外からこっそりと持ち込まれたもの だそうです」
「ふぅん……」
太后は興味深げに扇を軽く閉じると、卓上の菓子を摘んで口に運ぶ。
「となると、この毒を入手した者が、事件の真相を握っているというわけね?」
「はい。それで……」
青荷は 報告書をめくりながら、やや渋い顔をした。
「御薬房の女官の一人が密かに毒を仕入れていたことが判明しました」
「へぇ……」
太后は扇を持ったまま、悠然と体を傾ける。
「その女官、どこに仕えているの?」
「……凌月珊様のところです」
扇の動きがぴたりと止まる。
「まあ」
「まさかとは思いましたが、調べたところ間違いありませんでした」
青荷は ため息をつきながら、手元の書簡を再び見直す。
「凌月珊様の側近にあたる女官・蘇蓮が、国外の商人を通じてこの毒を入手していたようです」
「……」
太后は しばらく考え込むように扇の骨をいじっていたが、ふっと笑った。
「なるほどね」
「太后様?」
「ちょっとした疑問があるのよ」
太后は悪戯っぽく微笑みながら、青荷の方をちらりと見た。
「ねえ、普通ならば『毒を仕入れた=犯人』と考えるでしょう?」
「えっ? まあ……そうですね」
「でも、蘇蓮は直接毒を仕込んだとは言っていないのよね?」
青荷は その言葉にハッとし、慌てて報告書をめくる。
「そ、そういえば……確かに!」
「つまり、誰かが蘇蓮を利用して毒を手に入れ、それを巻物に仕込んだ可能性がある ってこと」
太后は 楽しげに扇をぱたりと閉じた。
「面白くなってきたじゃない?」
「……もう、太后様!」
青荷は 頭を抱えたくなりながらも、結局は主の笑顔に振り回されるしかないのであった。