2 密室の死 ①
紫霄宮の朝は、いつもなら静かに始まる。だが、この日は違った。
「遺体発見!」
鋭い声が響くと、影衛司の密偵・陳星河は素早く動いた。緊急の報せを受け、彼は翡翠苑へと急ぐ。石畳を蹴る足音、後宮の女たちのざわめき、遠くから響く鳥の声が、冷えた空気の中で交錯する。
翡翠苑の小さな離れに着くと、すでに数人の女官と侍女たちが青ざめた顔で集まっていた。立ち尽くす者、口を押さえて涙ぐむ者、目を逸らす者。だが、皆一様に怯え、誰一人として部屋の中に踏み込もうとはしない。
「開けたのは誰だ?」
陳星河の問いに、震える声が返る。
「私……春蘭でございます……」
若い侍女が一歩前に出た。顔は蒼白、唇はわずかに震えている。彼女の視線は虚空を彷徨い、まるで悪夢から覚めきれないかのようだった。
「扉を開けたとき、鍵は?」
「内側から……閉まっておりました……でも……」
春蘭は息を詰まらせる。その先の言葉を発することが恐ろしいのだろう。陳星河は短く息を吐き、彼女の肩越しに部屋の中を覗き込んだ。
そこには、馮玉蓮の遺体があった。
寝台の上、華やかな刺繍の掛け布が半ば剥がれた状態で、彼女は横たわっていた。白い寝衣は胸元から紅く染まり、その中心には短剣で突きさされたような傷跡があった。
血の匂いが空気を重くする。
陳星河は眉をひそめた。馮玉蓮の顔は苦悶に歪み、目は大きく見開かれている。何かに怯えたまま、そのまま絶命したかのようだった。
だが、異様なのはそれだけではなかった。
部屋の空気が妙に冷たい。
朝とはいえ、春の訪れた後宮でこの寒さはおかしい。陳星河はわずかに息を吐き出した。白く曇るほどではないが、確かに肌を刺す冷気がこの部屋には漂っている。
「おかしいな……」
呟くように言いながら、彼は部屋の様子を改めて見回した。扉も、窓も、すべて内側からしっかりと施錠されている。逃げ道など、どこにもない。
「密室か……」
陳星河は目を細めた。
犯人が外へ逃げた形跡はない。ならば、どうやって? いつ? そもそも、なぜ馮玉蓮は殺されなければならなかったのか?
「太后様に報告を。」
影衛司の別の密偵が静かに言った。
「承知した。」
陳星河は短く答え、再び遺体を見下ろす。その表情には、まだ解けぬ謎の影が濃く落ちていた。
***
紫霄宮の朝、それはまさに至福の時間だった。
青空の下、庭の花々は朝露に濡れ、優雅に揺れている。緑の葉を揺らす風は爽やかで、鳥たちが心地よさそうにさえずっていた。
そして、その庭の中央では―― 太后・蘭明蕙が、優雅にお茶とお菓子を楽しんでいた。
「はぁ~~、暇ねぇ……。」
ふわりと湯気を立てる龍井茶の茶碗を手にしながら、太后は頬杖をついて嘆いた。
「こんなに美味しいお茶とお菓子があるのに、退屈だなんて贅沢すぎますよ。」
横で侍女・柳青荷が、さくっとした焼き菓子を口に運びながらツッコむ。
「いいのよ、青荷。お茶とお菓子は心を潤すけれど、頭は潤わせてくれないの。」
「なるほど……深いようで、ただの暇つぶしの悩みですね。」
柳青荷は「まったくもう」と肩をすくめた。
庭先の卓上には、見目麗しい点心が並んでいる。桃饅頭に、胡麻団子、金糸のように繊細な桂花糕……どれも口に入れれば、甘美な香りが広がる逸品ばかり。
太后はひとつ、白くふっくらとした桃饅頭を手に取り――
「……やっぱり、事件のひとつでも起こらないかしら。」
「やめてくださいよ!? 人の命を賭けた娯楽みたいにしないでください!」
柳青荷が即座にツッコミを入れた、その瞬間――
ドタドタドタッ!!
「太后様!大変です!」
庭の静寂を破り、影衛司の密偵・陳星河が息を切らせながら駆け込んできた。
「……ほら、来たわ。」
太后はにっこり微笑みながら、茶碗を静かに置いた。
「まさか、本当に呼び寄せたんですか……?」
柳青荷は呆れた顔をしつつ、桃饅頭をそっと皿に戻した。どうやら、のんびりした朝はここで終わりのようだった。
陳星河は息を整える暇もなく、膝をつきながら報告を始めた。
「重臣の妾、馮玉蓮が寝所で刺殺されました! 扉も窓も内側から施錠され、完全な密室です!」
「ほう、密室殺人ね?」
太后・蘭明蕙は茶碗を手に取り、何とも楽しげに湯気を眺めながらつぶやいた。
「……ええ、それで?」
「……ええ、それで? じゃないですよ!!」
柳青荷がすかさずツッコむ。
「事件です! 殺人ですよ! もっと驚いてください!」
「だって、驚いても驚かなくても、起こったことは変わらないでしょう?」
「それはそうですけど……!!」
柳青荷が頭を抱える横で、大后は悠然と茶をすすっている。その余裕っぷりに、報告に駆けつけた陳星河も思わず肩を落とした。
「しかし、これは厄介な事件です。現在、影衛司が現場を封鎖していますが、どうやって犯人が侵入し、殺害に至ったのか……。」
「密室かぁ……。」
太后はつまらなさそうにため息をつくと、目の前に並べられた点心をじっと見つめた。
「青荷、そこの桂花糕を取ってちょうだい。」
「ええ!? 今、その話!? 事件の方じゃなくて!?」
「だって、お腹が空いては推理もできないわ。」
柳青荷は「もう!」と叫びながらも、渋々桂花糕を太后に渡す。
「……で、その妾はどんな女性だったの?」
口の中で桂花の香りを楽しみながら、太后はふと興味を示した。
「皇帝の寵愛を受ける可能性がありました。しかし、後宮での地位は低く、正室とは仲が悪かったとか……。」
「ふぅん。嫉妬と権力争い、ありがちな話ね。」
太后は軽く微笑むと、ふわりと立ち上がった。
「それじゃあ、退屈しのぎに現場を見に行きましょうか。」
「なんだか、名探偵が現場に向かうみたいなノリですね……。」
柳青荷が呆れながらもついて行き、陳星河は「いや、これって本当に太后様の出る幕なのか……?」と、疑問を抱きつつも先導した。
こうして、太后は密室殺人事件の謎を解くために動き出した。