18 龍の間の死体③ 「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」
夜の帳が下りる中、紫霄宮の一室には静寂が満ちていた。揺らめく燭火の光が、蘭明蕙の細長い指先を照らす。彼女は扇を軽く回しながら、深く考え込んでいた。机の上には、御薬房の調査記録と、龍の間の設計図が並べられている。
「核心はここにある——」
蘭明蕙の目が細く光る。
「御薬房と龍の間。この二つに共通するものが事件の鍵だわ」
柳青荷がそっと記録をめくりながら、不安げに問いかけた。
「共通点……ですか?」
蘭明蕙は小さく頷く。
「方翠鳳が事件当日に訪れた場所は、紫霄宮、御薬房、そして龍の間。紫霄宮では皇后に会えず、御薬房では何かの薬を受け取った。そして最後に彼女は龍の間で死体となって現れた……。これらを繋ぐものは何かしら?」
彼女は指で机をトントンと軽く叩く。
「答えは二つ。ひとつは 毒の出どころ 。もうひとつは 床の仕掛けを知る者 」
青荷が息をのむ。「それが……交差する場所に、黒幕がいる……?」
「ええ。そして、まさにその人物こそが、龍の間に遺体を運び込む手筈を整えた者でもあるわ」
蘭明蕙は扇を閉じ、すっと立ち上がった。その動作には一分の隙もない。
「すべての証拠は揃った。あとは私が真相を解き明かす番——」
蘭珀然が静かに目を伏せた。
「ついに、決着の時ですね」
蘭明蕙は微笑し、燭台の火を指先でそっと仰ぐ。炎が揺れ、壁に映る影が一瞬だけゆらめいた。
「さあ、優雅な推理を始めましょうか」
そして、夜の静寂の中、蘭明蕙は御薬房、龍の間へと歩みを進めた。
***
御薬房の奥深く、ひんやりとした空気が漂っていた。並べられた薬棚の間を、蘭明蕙は静かに歩く。宦官・蘭珀然と侍女・柳青荷が彼女の後に続き、部屋の奥では御薬房の長・方慧仙が硝子瓶を慎重に取り扱っていた。
「お探しの毒について、ようやく確証が得られました」
慧仙は、灯火にかざした瓶の中身を見つめながら言った。瓶の中には淡い琥珀色の液体が揺れている。
「これは 芙蓉露。皮膚から吸収され、摂取から数時間後に発作を引き起こす毒です」
蘭明蕙はわずかに目を細めた。
「時間差で効果を発揮する毒……つまり、方翠鳳は龍の間で毒を盛られたのではなく、もっと前に仕込まれていた可能性が高いわけね」
慧仙は深く頷く。
「ええ。芙蓉露は即効性がないため、摂取してからしばらくは何の異常も感じません。しかし、一定時間が経過すると、突然呼吸困難を引き起こし、死に至る。しかも、皮膚に塗るだけで効果を発揮するため、食事や飲み物に混ぜる必要がないのが特徴です」
青荷が息をのんだ。「では、一体どこで毒が仕込まれたのでしょうか?」
蘭明蕙は、扇の先で机を軽く叩きながら思案する。
「事件当日、方翠鳳が訪れたのは 紫霄宮、御薬房、そして 龍の間 。龍の間で毒を盛るのは難しい。となると——」
珀然が低く呟いた。「毒は、紫霄宮か御薬房で仕込まれた……?」
慧仙が記録の束をめくりながら答える。
「当日、方翠鳳様はここで何かを受け取っていたはずですが、記録にはその詳細がありません。ただ、ある薬が棚から持ち出された痕跡がありました」
蘭明蕙の目が鋭く光る。
「その薬が 芙蓉露 だったとしたら……?」
部屋の空気が一瞬、凍りついた。
「誰かが、彼女に毒を仕込むため、御薬房で薬をすり替えた可能性があるわね」
青荷が不安げに呟く。「では、御薬房の中に犯人が……?」
蘭明蕙は静かに扇を閉じた。
「あるいは、御薬房と関わりのある者が黒幕ということになるわ」
慧仙が厳しい表情で息を吐く。
「いずれにせよ、御薬房の誰かが関与していたのは間違いないでしょう」
蘭明蕙は扇を片手に立ち上がる。その目には、すでに真実を見抜く確信が宿っていた。
「すべての糸が、ひとつに繋がったわ」
夜の静寂の中、燭火がわずかに揺れ、彼女の影を壁に長く映し出していた。
***
龍の間は静まり返っていた。煌びやかな彫刻が施された柱がそびえ立ち、天井には金糸で刺繍された龍が威風堂々と描かれている。だが、その神聖な空間の中央、かつて方翠鳳の遺体が横たわっていた場所には、今はただ冷たい床が広がるばかりだった。
蘭明蕙は扇を片手に、その場に静かに立っていた。柳青荷と蘭珀然がそばに控え、彼女の言葉を待っている。
「床の仕掛けは、重さによって開閉する構造だったのね」
蘭明蕙は細い指先で床のわずかな継ぎ目をなぞる。その瞬間、微かにざらついた感触が伝わってきた。
「ここを見て」
彼女の指し示す場所には、かすかに泥の痕跡が残っていた。それは乾いて粉のようになり、床の隙間に入り込んでいる。青荷が不思議そうに眉をひそめた。
「こんなところに泥……?」
「ええ。これは湿った泥ではなく 干からびた泥 。つまり、遺体はこの場で殺されたのではなく、 別の場所から移された 可能性が高いわ」
珀然が床を注意深く観察しながら低く呟く。
「しかし、これほど重い遺体を運び込むには相当な労力が必要です。ましてや、この神聖な龍の間に……」
蘭明蕙はゆっくりと扇を開き、口元に笑みを浮かべた。
「だからこそ、この仕掛けが使われたのよ」
扇の先で床を軽く叩くと、その音はどこか鈍く響いた。
「仕掛けを知る者でなければ、このトリックを使うことはできない。つまり、犯人は 龍の間の構造を熟知している内部の者 ということね」
青荷が息をのむ。「内部の者……?」
「ええ。さらに重要なのは、ここに遺体を『 置いた 』のではなく、『 出現させた 』という点よ」
慧仙の語った毒の特性、そしてこの仕掛けの存在——すべてを組み合わせると、一つの答えが浮かび上がる。
蘭明蕙の瞳が鋭く光った。
「黒幕の正体が、見えてきたわね」
燭火が揺れ、壁に映る影が妖しく踊った。