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17 龍の間の死体②  「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」


 太后・蘭明蕙は、紫霄宮の静かな広間に佇んでいた。高い天井から吊るされた紗の帳が、風もないのにわずかに揺れ、薄い影を床に落としている。銀の香炉から立ち上る沈香の煙が、淡く揺れながら天へと消えていった。


 侍女・柳青荷が手元の記録を指でなぞりながら、低い声で報告する。


「方翠鳳様は、事件の直前に紫霄宮を訪れておられました。時間は酉の刻(午後五時前後)。皇后様にお目通りを願い出ていたようです」


「皇后が直接会ったのかしら?」蘭明蕙が問うと、青荷は小さく首を横に振った。


「いいえ。皇后様は『体調がすぐれない』として取り次がせなかったとか。そのため、方翠鳳様は少しの間、宮の前殿で待機されたようです。ですが結局、皇后様にはお会いできず、そのまま引き返されたようです」


 蘭明蕙は細い眉を寄せた。皇后の宮殿を訪れながら、肝心の皇后には会えなかったというのは妙な話だ。


「その後の足取りは?」


 青荷は次の記録をめくりながら答える。


「紫霄宮を出た後、方翠鳳様は御薬房へ向かっています。そこでは薬師のふう女官と話しておられたとか」


 蘭明蕙の目が鋭く光る。


「何の話かしらね?」


「それが……まだ確かなことは分かっておりませんが、どうやら『ある薬』を受け取っていた可能性が高いです。御薬房の記録には、当日、馮女官が何かを密かに包み、方翠鳳様に手渡したとあります」


 御薬房は王宮内で薬や毒を扱う特別な施設だ。薬一つ受け取るにも、必ず記録が残るはずなのに、はっきりとした品目が記されていないのは不自然だった。


 蘭明蕙は静かに扇を閉じる。


「紫霄宮で皇后には会えず、それでも何かを期待して待っていた。そして、その足で御薬房に立ち寄り、謎の薬を受け取る……」


 事件当日、彼女の最も近くに仕えていた侍女は休んでおり、代わりの侍女が世話をしていた。まるで何者かが、この日の彼女の行動を仕組んだように。


「青荷」


 蘭明蕙は侍女に視線を向ける。


「方翠鳳の侍女を探し出して話を聞いて。休んでいた理由と、代わりの侍女が誰だったのかも詳しくね」


「かしこまりました」青荷は深く一礼し、静かに部屋を後にした。


 蘭明蕙は、香炉の煙が消えていくのを眺めながら、扇をそっと膝の上に置いた。


(方翠鳳、あなたは何を求めていたの? そして、それを与えたのは誰なの?)


 静寂の中、ただ沈香の香りだけがゆっくりと広がっていった。


 ***


 龍の間——そこは、皇帝の象徴たる場であり、後宮の誰もが畏れ敬う場所だった。


 昼でも薄暗い広間には、天井から金糸で織られた緞帳が垂れ、四方の壁には歴代の皇帝を讃える絢爛たる壁画が施されている。中央には巨大な龍の紋様が彫られた御座があり、その背後には雲霞を描いた屏風が静かに佇んでいた。


 そんな神聖な空間の中央に、方翠鳳の冷たい亡骸は横たえられていた。


 蘭明蕙は静かに扇を開き、仄暗い室内を見渡した。死の気配が、沈香の香りに微かに紛れて漂っている。ここは通常、皇帝以外の者が無闇に踏み入ることすら許されぬ場所。それなのに、なぜ遺体がここに置かれたのか。


「ここは、あまりにも目立ちすぎる」


 傍らに控える宦官・蘭珀然が低い声で言う。彼の目は、遺体の周囲を注意深く観察していた。


「わざわざ龍の間に遺体を運んだ……つまり、犯人はこの事件を『ただの殺人』ではなく、何か特別な意味を持たせようとしたのでは?」


 蘭明蕙は扇の端を軽く叩きながら、思案する。


「あるいは、犯人はここが安全だと確信していたとも考えられるわ。龍の間は皇帝の許しなしに誰も立ち入れない場所。つまり、発見されるまで時間がかかると踏んでいたのかもしれない」


 青荷が静かに口を開いた。


「それなら、遺体が発見されたのが偶然だった可能性もありますね。本来なら、もっと遅くに見つかるはずだった……?」


「いえ」蘭明蕙はゆっくり首を振る。「この場に置いたのなら、遅かれ早かれ誰かが発見することは分かっていたはず。むしろ、発見させること自体が目的だったのかも?」


 珀然が腕を組み、眉を寄せる。


「皇帝や後宮の上位者に対するメッセージ……?」


 蘭明蕙は黙って遺体を見つめた。方翠鳳の死は、単なる後宮のいざこざではない。もっと大きな何かが動いている——そんな予感が、広間の静寂の中でひしひしと伝わってくる。


 沈香の煙が静かにたゆたう中、蘭明蕙はそっと扇を閉じた。


「この遺体が何を語りたいのか……解かなくっちゃね」


 静寂の中で、金糸の緞帳がわずかに揺れた。


 ***


 蘭明蕙は紫霄宮の書斎で、静かに帳面をめくっていた。灯火に照らされた机の上には、方翠鳳の動向を記した文書が幾つも広げられている。侍女の柳青荷と宦官の蘭珀然が、沈黙の中で彼女の言葉を待っていた。


「方翠鳳は、皇后派に寝返ろうとしていた……」


 蘭明蕙はそう呟くと、一本の書状を手に取る。そこには、彼女が皇后側の女官と密かに接触していたことを示す記録があった。


「元々は側室派の人間。凌貴妃の取り巻きだったが、最近になって皇后側に近づいていた……。これでは、どちらの派閥からも疎まれていたはずだ」


 青荷が慎重に言葉を選びながら口を開いた。


「皇后派に寝返るつもりだったから、側室派に狙われたのでしょうか?」


「確かにそれも考えられる。だけど——」


 蘭明蕙は帳面から目を離し、ふっと小さく息をついた。


「それだけで、これほど巧妙な手口を使うかしら?」


 龍の間の密室トリック、毒や薬を巡る不穏な動き、そして何よりも、事件の発覚を意図的に誘導するかのような犯人の仕掛け。これら全てを考え合わせると、単なる派閥争い以上の何かが絡んでいるように思えた。


 珀然が腕を組みながら、低く呟く。


「何者かが影で糸を引いている……そういうことですか?」


 蘭明蕙はゆっくりと頷いた。


「さらに帳面の調査を進めると、ある人物が不自然な動きをしていたことが判明した」


 その瞬間、室内の空気がわずかに張り詰めた。


 青荷が小さく息をのむ。「それは——?」


 蘭明蕙は、扇の先で机の上の一枚の書簡を軽く叩いた。その紙に記されている名は、事件に直接関与しているとは思われていなかった人物——だが、今になって浮かび上がる違和感。


「この者の動向を洗って。何かが見えてくるはずよ」


 外では夜の風が、木々の間をかすかに揺らしていた。やがて月が雲間から顔を出し、その冷たい光が蘭明蕙の鋭い瞳を静かに照らした。


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