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16 龍の間の死体①  「後宮の名探偵・太后様の暇つぶし」

 龍の間の死体



 紫霄宮の庭は、柔らかな春の日差しに包まれていた。

 蘭明蕙は藤棚の下にしつらえた腰掛に身を預け、白磁の茶碗を指先で軽く回す。茶葉の香りが穏やかに立ち上り、彼女は目を細めた。


「平和ねえ……」


 ぽつりと呟くと、そばに控えていた柳青荷がくすりと笑う。


「太后様がそう言うと、不思議と不穏な気配を感じますね」


「まあ、平和とは退屈の別名だから」蘭明蕙は優雅に茶を啜り、「退屈しのぎに、何か面白い話でもしてちょうだいな」


 柳青荷は顎に指を当て、しばし考え込む。


「では、昨日の翡翠苑の話を……ああ、でもこれは陛下のお耳に入ると厄介かもしれませんし……」


「面白い話と言ったでしょう?  つまらない配慮は不要よ」蘭明蕙は微笑む。


「では、皇后様の侍女が──」


 柳青荷が話し始めたその時だった。


「太后様! 大変です!」


 息を切らしながら飛び込んできたのは蘭珀然だった。彼は普段の冷静な面持ちとは違い、やや興奮気味である。


 蘭明蕙は茶碗をゆっくりと置き、柳青荷と顔を見合わせる。


「ほら、やっぱり平和じゃなかった」


 柳青荷が肩をすくめると、蘭明蕙は軽く息を吐き、優雅な手つきで扇を開いた。


「さて、何が起こったのかしら? まさか庭の鯉が逃げ出したなんて話ではないでしょうね?」


 蘭珀然は眉をひそめ、「それどころではありません」と声を低める。


「龍の間に……死体が出ました」


 その言葉に、蘭明蕙はわずかに眉を上げた。


「龍の間?  そこは皇帝ですら滅多に入らない場所でしょう?」


「はい。鍵は厳重に管理されており、簡単に入れるはずがありません。それなのに、今朝になって急に、亡骸が現れたのです!」


 蘭明蕙は茶碗をそっと置き、立ち上がる。


「……また、暇つぶしができるわね」


 彼女は柳青荷、蘭珀然とともに、静かに龍の間へと向かった。


 ***


 龍の間へと向かう道は静寂に包まれていた。宮殿の回廊を渡るたび、遠くで風に揺れる竹の葉擦れの音が微かに響く。春の陽が廊の敷石を照らし、その光と影が揺らめくたびに、まるで何かが蠢いているかのような錯覚を覚えた。


 やがて、龍の間の前にたどり着く。


 そこにはすでに数人の宦官と宮女が集まり、顔を強張らせながらひそひそと囁き合っていた。彼らの間には怯えと好奇心が入り混じった奇妙な空気が漂っている。


「道を開けなさい」


 蘭明蕙の静かな声が響くと、ざわめいていた人々は一斉に口をつぐみ、慌てて道を開けた。


 重厚な扉が軋むような音を立てて開く。


 中へ一歩踏み入れると、そこはまるで時が止まったかのようにひっそりと静まり返っていた。龍の間は通常、皇帝の儀式や特別な場面でしか使われない神聖な空間。そのため、普段は誰も立ち入ることが許されていない。


 しかし今、その神聖な場所の中央に、一人の妃が横たわっていた。


 方翠鳳——薄桃色の衣が広がるように床に流れ、彼女の肌は血の気を失い青白くなっている。まるで静かな眠りについているようだが、その表情には苦痛の痕が刻まれていた。


 蘭明蕙は近づき、じっと彼女の顔を見下ろす。


「不思議ね」


 低く呟く。


 争った形跡はない。衣服も整然としており、乱れは見受けられない。毒殺か、それとも別の方法か——。


 室内に目を走らせたとき、ふと床に細かい溝が刻まれているのが目に入る。


 蘭明蕙はゆっくりとしゃがみ込み、白くしなやかな指でその溝をなぞった。すると、柳青荷が驚いたように声を上げる。


「太后様、見てください!  床が少し……動いています!」


 柳青荷が指差した先で、微かに床板が沈む。


 蘭明蕙は薄く笑みを浮かべた。


「なるほど……機械仕掛けの床ね」


 優雅に立ち上がり、蘭珀然に視線を向ける。


「後宮の大工を呼ぶべきかしら?」


 蘭珀然は静かに頷く。彼の黒髪がふわりと揺れた。


 ——これは単なる事故ではない。誰かが仕組んだものだ。


 蘭明蕙は亡き方翠鳳の姿を見つめながら、そっと目を細めた。


「さあ、謎解きの始まりよ」



 龍の間の静寂の中、方慧仙が慎重に方翠鳳の遺体へと歩み寄った。御薬房の長として幾度となく後宮内の検視を担当してきた彼女は、手元の銀針を取り出し、方翠鳳の唇にそっと触れさせた。


「やはり……反応が出ました。銀針が黒ずんでいます。毒によるものですね」


 周囲に控える宮女たちが息をのむ。柳青荷が一歩前に出て尋ねた。


「ですが、太后様。彼女の口元には泡もなく、指先にも痙攣の跡がありません。経口摂取ではないのでは?」


 蘭明蕙は腕を組み、遺体をじっと見つめた。そのとき、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。


「……この香り、気づいたかしら?」


 柳青荷は目を瞬かせ、方翠鳳の袖口に顔を寄せる。


「確かに、微かに甘い香りがします。でも、これは香袋のものでは……?」


 方慧仙がそっと袖をめくると、内側の布に淡い黄褐色の染みがついていた。


「これは……?」柳青荷が訝しげに呟く。


 方慧仙は指先でその染みをなぞり、慎重に匂いを嗅いだ。


「おそらく、これは南方に自生する『夜香花やこうか』の抽出液。これ自体は無害ですが、ある種の成分と組み合わせると皮膚から毒素を吸収する性質があります」


「つまり、彼女は袖口から毒を吸収し、命を落としたということね?」


 蘭明蕙が冷静に言葉を紡ぐ。柳青荷が驚いたように方翠鳳の袖を見つめた。


「でも、どうしてそんな毒が袖についていたのでしょう?」


 蘭明蕙は静かに微笑を浮かべた。


「そこが、この事件の核心部分よ」


 部屋の空気がさらに張り詰める中、彼女の視線は床の細かな溝へと向けられていた。


「次は、この床の仕掛けを探る必要がありそうね……」



 龍の間の静寂を破るように、柳青荷が慎重に床を踏みしめた。すると、微かに沈む感触があり、かすかな軋みが響く。蘭明蕙がそれを見逃すはずがなかった。


「面白いわね」と彼女は呟くと、蘭珀然に目配せし、さらに床を注意深く調べるよう促した。蘭珀然が床板の隙間に手をかけ、力を込めると、わずかにずれた板の下から、かすかに乾いた泥の粒がこぼれ落ちた。


「屋内でこれほど乾いた泥があるなんて不自然ですね」と柳青荷が眉をひそめる。


 蘭明蕙は扇で口元を隠しながら、ゆったりとした口調で答える。「つまり、遺体は一度別の場所に隠され、時間差でここに現れるように仕組まれていたのね」


 蘭珀然が床の仕掛けをさらに詳しく調べると、決定的な証拠が見つかった。


「太后様、ご覧ください。この床は、一定の重さが加わると開閉する機構になっているようです。遺体が一時的に下へ落とされ、時間が経ってからまた現れるように細工されていたのでは?」


 蘭明蕙は静かに頷いた。「なるほど。だから発見されたときには、すでに毒が回りきっていたというわけね」


 彼女の涼やかな眼差しが、龍の間全体を見渡す。事件の真相が、少しずつ姿を現し始めていた。




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