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15 呪いの絹布③


 紫霄宮の奥、緋色の帳が垂れる一室。蘭明蕙は卓の向こうに座し、静かに茶を啜っていた。対面には程麗真が座している。彼女はゆったりとした姿勢を保っていたが、指先が扇を握る力に僅かに緊張が滲んでいる。


「程貴妃、翡翠苑の侍女が供述しました。この布の献上を命じたのは、あなたで間違いないのですね?」


 蘭明蕙の声は柔らかだったが、その目は鋭く相手を射抜いている。程麗真は扇を仰ぎ、艶然と微笑んだ。


「ええ、確かに私が選びましたわ。太后様への贈り物として相応しいと思いまして」


「贈り物?」蘭明蕙は茶碗を置き、指先で卓を軽く叩いた。「随分と珍しい品ね。南方の商人が扱う布にしては、あまりにも特殊な香りがする」


「南方の品は高貴で、珍重されるもの。私の実家も南方の出ですもの、馴染みのある品を選んだだけですわ」程麗真はしなやかに言い放ったが、その瞳には警戒の色が宿っていた。


「ええ、まさにそれが問題なの」蘭明蕙は微笑んだ。「この布には毒が染み込ませてあった。しかも、それはあなたの故郷でしか採れない特殊な草から抽出されるものだったわ」


 程麗真の扇がぴたりと止まる。


「ご存じかしら?  この毒は皮膚から徐々に吸収され、数時間後に呼吸困難を引き起こす。慕容燕が苦しみながら息絶えた様子を見た者たちは、呪いだと恐れていたけれど……私にはただの毒殺にしか見えないのよ」


 部屋に静寂が落ちた。柳青荷がそっと息を呑む。


「程貴妃、私がこの布を使うと知っていたのは誰かしら?」


 蘭明蕙の問いに、程麗真は微かに目を伏せた。緊張の糸が張り詰める。


「……偶然では?」


「いいえ、これは偶然ではない。誰かが意図的に仕組んだものよ」蘭明蕙はゆったりと扇を広げ、軽く煽いだ。「さあ、あなたはただの駒か、それとも策を巡らせた主か……どちらなのかしら?」


 程麗真は扇を握り締めたまま、沈黙を守っていた。白磁のような肌は青白く、かつての艶やかさは影を潜めている。


「程麗真。あなたが仕掛けた毒の布について話しましょうか」


 蘭明蕙の声は静かで、しかしその一言一言は鋭い刃のように程麗真の心を抉った。


「……存じません」


 程麗真はかすかに顎を上げたが、その声には覇気がなかった。蘭明蕙は薄く笑い、そっと指先で盃を転がす。


「では、どうしてあなたの実家の故郷でしか手に入らない草が、この布に染み込んでいたのかしら?」


 程麗真の指先がぴくりと震えた。御薬房の調査により、この毒は南方の山岳地帯にしか自生しない珍しい草の成分だと判明している。そして、その産地は程麗真の父が治める土地だった。


「そんな……それだけで、私がやったと?」


 程麗真は苦しげに笑う。しかし、蘭明蕙は容赦しなかった。


「あなたは私を排除し、後宮の力関係を変えようとした。そして、あの布は私への献上品だった。もしも慕容燕が興味を示さなければ、今頃この命はなかったかもしれないわね」


「違う……私は……!」


 程麗真の肩が大きく揺れた。否定しようとするが、言葉が続かない。


「呪いを信じて恐れる者が犯人とは限らないわ。むしろ、呪いという迷信を利用し、恐怖の影に隠れた者こそが真の黒幕……」


 蘭明蕙は彼女を見据え、淡々と続けた。「あなたが犯人よ」


 長い沈黙が流れた。蝋燭の火が揺れ、静寂の中で程麗真の震えが露わになる。


「……私は……ただ……皇后のようになりたかったの」


 ぽつりと漏れた言葉は、虚ろな響きを帯びていた。


「皇后・沈玉蘭しん ぎょくらんにはどうしても敵わない。彼女は完璧で、誰もが彼女を恐れ、従う。私もそうありたかった……でも、太后様がいる限り、私は脇役のまま……」


 程麗真は天井を仰ぎ、苦笑した。「後宮の勢力図を変えられれば、私は……」


「愚かね」蘭明蕙はため息混じりに言った。「誰かの真似をしても、あなたはあなたでしかないのよ」


 程麗真は目を伏せた。もはや弁明の言葉はなく、ただ静かに肩を落とすのみだった。


 部屋には冷たい沈黙が満ち、蝋燭の灯が揺らめいている。外からは、夜の帳が静かに下りる気配が感じられた。


「皇后のようになりたいと願うのなら、もっと賢い方法を選ぶべきだったわね」


 蘭明蕙の声音は冷ややかだった。彼女は静かに程麗真を見下ろし、手元の茶碗を弄ぶ。程麗真の指は硬く握り締められ、その爪が手のひらに食い込んでいるのが見えた。


「皇后のようになりたかった……」


 程麗真の声はかすれていた。彼女は膝を折り、崩れるように座り込む。瞳には悔しさと絶望が滲んでいた。彼女の計画はすべて暴かれ、逃げ場はなかった。


 その手が、袖の奥へと滑り込む。


「それ以上の無駄な足掻きはやめなさい」


 蘭明蕙の声が落ち着いた響きを持つ一方で、柳青荷が警戒して一歩前に出た。しかし、次の瞬間、程麗真は袖から取り出した小瓶の蓋を歯で開け、一気に毒を呷った。


「……!」


 柳青荷が飛び込もうとするが、間に合わない。程麗真の身体が痙攣し、唇から黒い液がこぼれ落ちる。目を見開いたまま、彼女はがくりと前へ倒れた。


 静寂。


「ふう……」


 蘭明蕙は溜息をつき、そっと扇を広げる。「最後まで浅はかだったわね」


 柳青荷は複雑な表情で程麗真を見下ろしながら、かすかに首を振る。「自業自得とはいえ、あまりにもあっけない最期ですね……」


「そうね……」


 蘭明蕙は身を翻し、静かに紫霄宮へと戻っていった。


 紫霄宮の奥深く、蘭明蕙は文机の前に座り、ゆっくりとお茶を淹れた。部屋の片隅では柳青荷が、先ほどの出来事を思い返しながら彼女を見つめている。


 茶の湯気がゆらゆらと立ち昇り、蘭明蕙は茶碗を口元に運ぶ。そして、ふっと微笑んで呟いた。


「……これでまた暇になっちゃうわ」


 柳青荷は思わず苦笑し、肩をすくめる。「……どうせ、すぐにまた暇つぶしの事件が舞い込んできますよ」


 蘭明蕙は薄く笑みを浮かべたまま、静かに茶を啜った。


 後宮の夜は、どこまでも深く、静かだった。



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