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14 呪いの絹布②

 御薬房の奥深く、薬草の香りが立ち込める部屋で、方慧仙は机の上に広げられた布をじっと見つめていた。手元の小さな鉢に湯を注ぎ、布の端を浸す。すると、湯に溶けた何かがじわりと広がり、かすかに青紫色を帯びた。


「ふむ……」方慧仙は指先にその液を少しつけ、銀の針に垂らす。瞬く間に針の先が黒く変色した。「やはり、この布には毒草の成分が染み込ませてありますね」


 柳青荷が身を乗り出した。「毒草? どんな?」


「『鬼息草きそくそう』の成分です。皮膚から徐々に吸収され、数時間後には呼吸困難を引き起こす……。まるで見えない手に首を絞められるように苦しみ、最終的には窒息死するのです」


「うわぁ……」柳青荷は顔をしかめ、身震いした。「そんな恐ろしいものを……。これを触っただけで死ぬなんて!」


 蘭珀然が肩をすくめる。「青荷、いちいち怯えていたら後宮では生き残れないよ。それに、今も平然と立っていられるということは、どうやら君の皮膚は毒を吸収しにくいらしい」


「ちょっと! まるで私が鈍感みたいな言い方しないでくださいよ?」柳青荷は頬を膨らませた。


 蘭明蕙は微笑みながら、布を指先で撫でた。「この布を使ったのは慕容燕だけ?」


「はい、太后様。この布は今朝、後宮の織物職人から献上されたもので、本来なら紫霄宮に届けられるはずでした。でも、たまたま慕容燕様がそれを手に取ってしまったんです」


「たまたま、ね……」蘭明蕙は細い指で布の端をつまみ、光にかざした。「ならば、犯人はこの布が私の手に渡ることを前提に仕掛けたのでしょう」


 柳青荷がはっとして目を見開く。「ということは……!」


「つまり、私を殺したかった者がいるということ」蘭明蕙は優雅に茶を啜った。「この布の送り主は誰?」


 方慧仙が慎重に答えた。「記録によれば、これは翡翠苑の尚服局しょうふくきょくから送られたものです」


 蘭珀然が苦笑する。「翡翠苑といえば、貴妃たちの住まいですよね。皇后派の勢力圏……。この毒が仕込まれていたとなると、狙いは明白ですね」


 蘭明蕙は静かに微笑んだ。「まったく、人の暇を奪うのが好きな連中ね」


 蘭珀然が軽く笑う。「後宮で『暇』を楽しめる人なんて、太后様ぐらいでしょうね」


 柳青荷が腕を組んで唸った。「でも、誰が? 何のために?」


 蘭明蕙は茶碗を静かに置く。「それをこれから解き明かすのが、私の新しい暇つぶしになりそうね」


 ***


 静かな御薬房を後にし、蘭明蕙は紫霄宮の庭へと歩みを進めた。足元には朱色に染まった敷石が続き、風に揺れる柳の枝が長く垂れ下がっている。遠くでは白梅の花がひっそりと香りを放ち、冷えた空気の中に甘い余韻を残していた。


 柳青荷がその背に続き、やや早口に報告する。


「この布ですが、翡翠苑の侍女が南方の商人から受け取ったと言っています」


 蘭明蕙はふと立ち止まり、庭の池へ視線を落とした。水面には夕陽が赤く映え、ゆらゆらと揺れている。その橙と紅の混ざり合う色は、まるで誰かの血を思わせた。


「南方?」彼女は低く呟くと、ゆっくりと指を組み合わせた。思考を巡らせながら、薄く微笑む。「では、その商人を探しなさい。そして、誰の指示で布を献上することになったのかも調べるのよ」


 柳青荷は背筋を伸ばし、真剣な表情で頷くと、その場を後にした。軽やかな足音が次第に遠のいていく。


 蘭明蕙はふと顔を上げ、空を仰ぐ。陽が沈みかけ、紅い光が宮殿の屋根をなめるように照らしていた。けれど、その輝きも刻一刻と陰に沈んでいく。


 ——誰が、この闇に紛れて策を巡らせたのか。


 池の水面に映る紅い光が、静かに揺れながら、やがて闇に溶けていった。


 柳青荷が後宮の闇へと消えていった後、蘭明蕙はゆっくりと立ち上がり、庭の奥へと歩みを進めた。庭の木々は夕闇に包まれ、風がそよぐたびに葉擦れの音が静かに響く。彼女の視線は、どこか遠く、見えぬ策を巡らせる者の影を追っていた。


「太后様、そろそろお戻りになられては?」蘭珀然が静かに声をかける。


「そうね。そろそろ動き出す頃かしら」


 蘭明蕙は微笑みながら紫霄宮へと戻る。


 ***


 柳青荷が南方の商人を探しに出た後、蘭明蕙は蘭珀然とともに紫霄宮の広間へと戻った。静かな灯りが揺れるなか、太后は扇を手にしながら考え込む。


「この布が私を狙ったものであるなら、犯人は私の習慣をよく知る者ね」


 蘭珀然は微笑しながら答えた。「母上は毎晩、読書の際にお気に入りの布を膝に掛けておられる。確かに、その習慣を知る者なら、毒を仕込むにはうってつけでしょう」


「では、その布がなぜ慕容燕の手に渡ったのかが鍵ね」蘭明蕙は扇を閉じる。「翡翠苑の侍女が関わっていたというなら、皇后派の陰謀の可能性が高いわ」


 しばらくして柳青荷が戻ってきた。「太后様、商人の所在が分かりました。宮中へ頻繁に出入りする者ではなく、昨日初めて後宮に来たとのことです」


「それは怪しいわね」蘭明蕙は目を細める。「商人本人はどこに?」


「……既に消えていました。遺された証言によると、彼は北方の言葉を話していたそうです」


「北方?」蘭珀然が驚いた。「南方の品を扱う者なのに?」


 蘭明蕙はゆっくりと微笑んだ。「つまり、この商人は偽装された存在ね。誰かが細工して南方の毒を使い、私を狙ったということ」


 翌日、蘭明蕙は影衛司に命じて、翡翠苑の侍女たちの監視を強化させた。その結果、ある侍女が夜中にこっそり宮中の外へ伝書を送ろうとしたところを捕らえられた。


「誰に指示されたのかしら?」蘭明蕙は椅子に腰掛け、侍女を見下ろす。


 侍女は震えながら口を開く。「…… 程麗真てい れいしん貴妃様です……」


 蘭珀然が低く呟いた。「皇后の側近……」


「やはりね」蘭明蕙はゆったりと立ち上がる。「私がこの布を手にすることを知っていたのは、後宮の上位者のみ。そのうえで犯行を実行できる者は限られる」


「ですが、なぜ慕容燕様が?」柳青荷が問う。


「おそらく、皇后派はこの機会に二つの目的を果たそうとしたのでしょう」蘭明蕙は静かに続ける。「一つは、私を亡き者にすること。もう一つは、皇帝の寵愛を独占する慕容燕を排除することよ」


「では……」蘭珀然が一歩前に出る。「次の手は?」


「皇后派に、私が生きていることを思い知らせてあげるわ」蘭明蕙は優雅に微笑んだ。「それと、彼らの思惑通りにはならないということもね」


 



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