13 呪いの絹布 ①
呪いの絹布
月光が庭の石畳を白く照らし、夜の冷気がじっとりと肌にまとわりつく。風が竹林を揺らし、葉擦れの音が闇の中で不気味にさざめいた。
慕容燕は、翠竹庭の中央に立っていた。
初めは、ふらつく足取りだった。指先が震え、真珠のように白い肌がじわりと青ざめていく。喉が引きつるように波打ち、肩が異様に痙攣した。
「……あ……っ、ぐ……」
絞り出される声は掠れ、まるで喉の奥に見えない手が突っ込まれているかのようだった。次の瞬間、彼女の体が大きく弓なりに反る。
「ぐ、ぁ……ぁあ……!」
痙攣が全身を襲い、白い指が爪を立てるように空をかいた。口から泡が溢れ、どろりとした唾液が顎を伝う。紅い唇の端から、かすかに血の混じったものが滲んでいた。
足元の石畳に、黒々とした影が落ちる。彼女の視界はぐらりと揺れ、竹の葉が歪んで見えた。喉から搾り出すような喘ぎが漏れ、最後の力を振り絞るかのように手を伸ばす。
だが、その指が何かに触れることはなかった。
次の瞬間、彼女の体は力なく崩れ、鮮やかな緋色の衣が庭に広がる。髪飾りが地面に落ち、かすかな鈴の音を響かせた。
竹林のざわめきの中、翠竹庭に死の静寂が訪れる。
──どこか遠くで、夜鳥が鳴いた。
***
紫霄宮の奥深くにある書室。
窓辺にしつらえた机には、湯気の立つ茶碗と、色とりどりの菓子が並んでいる。柔らかな陽が障子越しに差し込み、池の水面を朱色に染めていた。
「はぁ……退屈ねぇ」
蘭明蕙は白磁の茶碗を片手に、心底つまらなさそうにため息をつく。目の前には、ほんのりと甘い香りのする桂花糕が載った皿があったが、手をつける気も起きない。
「後宮にはもっとこう……刺激的な出来事があってもいいと思わない?」
「いや、事件がない方が平和でいいんですけど!」
柳青荷が素早くツッコミを入れる。彼女は向かいに座りながら、器用に胡麻団子を摘んで口に運んだ。
「太后様、昨日も『退屈ねぇ』って言いながら、影衛司の報告を茶請けにしてませんでした?」
「情報は最高のお茶うけよ。それに、面白い話が一つもなかったのよ」
「それは良いことじゃないですか!」
柳青荷がぷくっと頬を膨らませる。その姿を見て、蘭明蕙は微笑んだ。
そのときだった。
「太后様!」
書室の扉が勢いよく開かれ、華麗な衣をまとった美青年が飛び込んできた。
「……珀然?」
蘭珀然は一瞬、雅やかな室内の雰囲気に呆気にとられたが、すぐに表情を引き締める。
「事件です。翠竹庭で慕容燕様が倒れました」
「おやおや」
蘭明蕙は愉快そうに目を細め、ようやく桂花糕に手を伸ばした。
「ふふ、やっと暇つぶしができそうね」
***
月が朧に霞む翠竹庭の中、慕容燕の身体はひしゃげた人形のように倒れていた。紅の衣が黒々とした土の上に広がり、顔色は蝋のように白く、唇には紫の斑点が浮かんでいる。
「あ……呪いの……絹布……」
侍女の一人が震える声で呟いた途端、周囲の空気が凍りついた。
「呪いよ!呪いが容燕様を殺したのよ!」
「さっきまで何ともなかったのに、あの絹布を手にした途端……!」
蒼白な顔をした侍女たちが、互いに身を寄せ合いながら後ずさる。誰も彼女の遺体に近づこうとしない。竹の葉が風にざわめき、影がゆらりと揺れるたびに、誰かが小さく悲鳴をあげた。
「これじゃ……霜華楼で死んだあの妃様と同じ……!」
「呪われた者は皆、口から黒い血を……」
一人がそう言いかけた途端、別の侍女が耳を塞いで叫んだ。
「やめて! 口にすると呪いが移るわ!」
息を詰めたまま、誰もが死体を直視できず、足元の土を睨みつける。沈黙の中、ぽたり、ぽたりと冷たい夜露が落ち、震える侍女の肩を打った。まるで死者の冷たい指が、背後から触れたかのように。
***
翠竹庭には、まだ怯えた侍女たちのすすり泣きが響いていた。竹林の間を吹き抜ける夜風が、ざわざわと不気味な音を立てる。そこに、蘭明蕙がゆったりとした足取りで現れた。彼女の後ろには柳青荷、そして宦官の蘭珀然が続く。
地面に横たわる慕容燕の顔は蒼白く、唇には紫の斑点が浮かんでいる。瞳はうっすらと開かれたまま、すでに生気を失っていた。
「呪いだ……」
「呪いの絹布のせいで……!」
侍女たちは震えながら口々に叫び、誰も死体に近づこうとはしない。
蘭明蕙は、ふっと微笑を浮かべた。
「呪い?」
その静かな声に、侍女たちはびくりと肩を揺らした。
「え、ええ……。今朝、太后様に献上されるはずだった絹布を、慕容燕様が手に取られたのです。すると、突然苦しみ出して……」
震える指で、侍女の一人が床に落ちた絹布を指さした。
蘭明蕙はしゃがみ込み、布を拾い上げた。白地に牡丹が刺繍された見事な品だ。しかし、指でそっと擦ると、微かにざらついた違和感が残る。
「呪いではなく、毒ね」
蘭明蕙は、ゆっくりと目を細めた。
「青荷、この布を御薬房に持っていきなさい。方慧仙なら、何か分かるでしょう」
「はい、太后様」
柳青荷は慌てて布を受け取り、大事そうに抱えた。
「本当に……呪いではないのでしょうか……?」
恐る恐る尋ねる侍女に、蘭明蕙は肩をすくめて笑う。
「後宮にあるのは、人の欲と毒だけよ」
夜風が再び吹き抜け、竹の葉がさわさわと囁いた。