第四話 文通のきっかけ
ちょっとだけ布団から出ることが億劫な、空気の冷えた朝を迎えました。
王都とは違う気候に、ああ、違う土地へ来たのだな、と思い知ります。
ベッドから起き出して、髪と服を整えて、化粧をする気力がなかったので、そのまま部屋を出ます。ちょうど起こしに来たキュリアと出会い、そのまま食堂へと向かいます。
すでにアスターは起きていて、食堂の四人がけのテーブルに着いて、新聞を広げて読んでいました。私を見つけて、顔を明るくします。
「ミリー、おはよう。よく眠れたかい?」
「おはようございます。ええ、とてもよく。おもてなしいただき感謝します、アスター」
「そう堅苦しくならなくていい。昨日が初対面とはいえ、十年も手紙のやり取りをしてきたから、他人でもないだろう? 僕はずっと友人だと思っているよ」
それもそうだ、と素直に納得はしませんが、厚意には甘えようと思います。アスターがそう思っているのなら、遠慮するのは逆に申し訳が立ちません。昨日初めて顔と本名を知ったばかりの、十年来の文通相手。ちぐはぐな感じですが、不思議とずっと友人だったかのようにアスターと話せるのは、何だか嬉しいです。
朝食が運ばれてくるまで、少しおしゃべりをすることにしました。
「そういえば、アスター。ずっと気になっていましたが、どうして私と文通をしようと思ったのですか?」
アスターは新聞を折りたたみ、身を乗り出して答えます。
「きっかけは、十年前、郵便の手違いで君のところに僕の手紙が届けられて」
「はい。知っているのはそれだけで、詳しい背景は聞いていないままだったと思って」
「ああ、なるほど。ええっと、どこから話そうか」
言葉を整理していたのでしょう、少し悩んでから、アスターは語りはじめました。
「十年前、僕は王都にいた祖母へ手紙を送っていたんだ。祖母は多忙だった僕の父と仲違いをしていて、王都にあった屋敷の管理とウィンズ公爵領への窓口の維持を名目に、そちらにいた。恥ずかしながら、僕は祖母を慕っていて離れたくなかったが、どうしても一緒には行けなかった。だから、せめて交流は続けたくて、手紙のやり取りをしていたんだ」
ちょうど、ブルーベルがおしゃべりで渇いた喉を潤すように、と蜂蜜の香りがするレモンティーをそっと持ってきてくれました。私とアスターはそれを飲みながら、話に没頭します。
「アスターという名前はね、祖母との約束で、次期公爵たる者、弱音や私信を他者に読み取られてはまずいから、という理由で素性を知られないようペンネームを使っていたんだ。内容も、できるかぎり差出人が誰だか分からないように誤魔化して。ちなみに祖母は本名のミリアライゼを使っていて……君と同じ名前だった。古風な名前だし、この国ではあまり見かけないから、あのとき豪雨で濡れて文字が読めなくなった手紙の名前だけを頼りに届けられた先が、君のところだった、というわけだ」
なるほど、確かに最初に手違いで届いた手紙は、滅多にない雨に濡れて、何とか私の名前——実際にはアスターの祖母の名前——だけが読み取れました。おそらく、郵便配達人はアスターの祖母は知らず、私のことを知っていて、地区ごとの担当者もよく入れ替わりますから、珍しい名前はここに違いない、と思い込むことはありえる話です。偶然に偶然が重なったとしても、なかなかないことでしょうが、そのおかげで私はアスターの手紙を受け取ることができました。
私はその後、手紙の差出人住所がウィンズ公爵領とだけしか書かれていなかったのですが、幼いころはそれで届くのだと信じて、「ウィンズ公爵領アスター様」と宛先をしたためました。身に覚えのない手紙が届きました、本当の受け取り主へもう一度送ってあげてください、と書いて送り返したのです。
「君から手紙が返されたとき、実は嬉しかったんだ。同じ年頃の友人はいなくて、皆、僕のことを次期公爵だ何だと言ってよそよそしい。それが、精一杯努力して僕へと書いた手紙が、とても暖かくて可愛らしくて、僕の身分も性別も何も知らない相手だと思ったら、このまま交流を続けてみたい気がしてね。大人ぶって返信を出してみた、というわけさ」
そこから、私とアスターの十年にも及ぶ文通が始まった、という次第です。きっかけは本当に偶然だったのですが、アスターから届く手紙は私の一番の楽しみでした。どんな人だろう、と想像が膨らむこともしばしばでしたが、まさか男性とは思いもよりませんでした。
相槌を打ちながら、私はしみじみとします。アスターも、しみじみと頷いていました。
「その君が、もうこんなに立派なレディになったんだね。そうか、結婚を考えるような年齢か」
その言葉に、私は笑ってしまいました。アスターは不思議そうな顔をしていますが、まるでアスターは父親のようなことを言った自覚がないのでしょう。
おそらく年上のアスターからすれば、私は友人というよりも、年の離れた妹くらいに思われているのかもしれません。一人っ子の私としては、新鮮な体験です。
だから、遠慮なく、もう一つの疑問を聞いてみました。
「アスター、私、家に篭ってばかりだったものですから、実はあまり貴族のお家のことには詳しくなくて……ウィンズ公爵家とは、どのようなお家柄なのでしょう?」
すると、アスターは意外すぎてか固まり、目を何度か瞬かせていました。
「え? 知らないのかい?」
「は、はい……申し訳ございません」
「ああ、いや、そうだな、悪い。自惚れが過ぎた」
私は早い段階で婚約者がいましたし、父の仕事の関係であまり外には出してもらえませんでした。暗殺や誘拐を警戒して、同じ貴族の家にも遊びに行けなかったほどです。おかげで、舞踏会に出たことも一度だけ、マークスの婚約者のお披露目、という形だったので、置き物のように扱われ、ろくに会話を楽しむこともありませんでした。
なので、公爵という身分がとても高貴な血筋のお家柄ということは知っていても、それだけなのです。ましてやウィンズ公爵家は王都でそれほど存在感はなく、領地に留まることが多いのでしょう。ウィンズ公爵領はアスターが住んでいる栄えている土地、以外の情報は、私の中にはありませんでした。
ただ、さすがに、不勉強に過ぎました。せっかくアスターの住む土地なのですから、多少は調べてから来ればよかった、と私は赤面します。
アスターは、まあまあ、と苦笑して慰めてくれました。その横で、ブルーベルとキュリアの手で前菜のサラダとスープがテーブルに並べられています。
「一言で言うと、この国一の財産を持つ家、と思ってもらっていい」
「はあ」
「ウィンズ公爵領は、いつか手紙にも書いたと思うが、周辺国からユルベール王国への輸入品の多くが経由される土地だ。そして小麦、岩塩、木材、鉄鉱石といった原材料となる品々は、エヴァンゼリン周辺の街や村で加工されて、ユルベール王国に流通する。つまり、商工業が盛んで、関税はもちろん各組合からの一年の税収入額はユルベール王国自体の税収入の七割近い。まあ、ここに色々計算が入るから、単純に比較はできないんだけど」
それはユルベール王国の生命線を握っていると言っても差し支えがないのではないでしょうか。
公爵という最高位の爵位にふさわしいだけの財力が、ウィンズ公爵家には備わっているようです。
さらに、アスターはこんな大事なことをさらりと言ってのけます。
「ついでに、ウィンズ公爵家は昔から各国王族との婚姻が多くて、大体の国の王位継承権は持っている。実際に王位には就けなくても、それなりに価値はあるんだよ」
王位継承権、という単語は、貴族でさえそう易々と使えるものではありません。
多くの場合、王家と王家の血を引く貴族にだけ、王位継承権は保持されています。ですが、それが広がるということはあまり好ましくありません。価値の低下はもちろん、本来の王家の血筋から遠い人間が王になってしまうと、それまで大切にされてきた正統性が薄れてしまうからです。
ですから、末端の王位継承権者は、多くは放棄させられます。我が家は昔王位継承権を持っていてと血統を誇ることは許されますが、王位を狙うことは許されません。それだけの権力、財力、正統な血を持たない人間に、王位継承権を持たせてはいけないのです。
そのくらいは歴史の勉強がてらに教えられることですから、私も知っています。なので、ウィンズ公爵家が「大体の国の王位継承権は持っている」というのは、ものすごいことなのです。それだけ幅広い土地の王位に近く、正統性を保ちながら家を維持している、それがどれほど憧憬と羨望と尊敬の目で見られることか。たかが大臣になる程度の我が家では、比べものになりません。
「それはすごいですね。知らないままでは、恥をかいてしまうところでした」
「そう言う君のイリアス侯爵家だって、伝統ある家で」
アスターは、はっとして、口をつぐみました。私は、それを咎める立場にはありません。
アスターはすぐに謝罪します。
「申し訳ない。つらいことを思い出させてしまうようなことを」
「いえ、大丈夫です。もう侯爵家はなくなりましたが、いつまでもそんなことを引きずっているわけにはいかないと、思えてきましたから。お父様もお母様も、財産を全部売り払って、新しい家を探して生きていこうと懸命になさっています。私だけ、甘えていてはいけませんね」
そうです。いつまでも落ち込んではいられません。
前に進まなくては。無念にも大臣の座を追われて、もっともつらかったであろう父は、絶望することなく再出発を目指しています。それを母が文句の一つも言わずしっかりと支え、何とかしようとしているのに、娘の私が何もしなくていいわけはありません。
「父と母を支えなくては。貴族でなくなったってかまいません、そんなことより生きていく道を探さないと」
それは、私は自分に言い聞かせるつもりでもありました。私は世間知らずの令嬢でしかなかった、でもこれからはそうはいかない。ちゃんと、できることをやっていかないといけません。何ができるかは、これから考えます。何かを学んだり、技術を習得したりしなくてはならないかもしれません。私にできるでしょうか。不安は確かに残りますが、同時にやる気も湧いてきています。
昨日、アスターの前で目一杯泣いたおかげで、私は吹っ切れたのかもしれません。そう考えると、やはり来てよかった。アスターに感謝しないといけませんね。
朝食のパンが並べられて、手をつける前に、アスターはこう言いました。
「それなら、君のご両親をウィンズ公爵領に呼ぼう。こちらに住んでしまえばいい。あらぬ悪評を流される王都より、ずっと住みやすいよ。ウィンズ公爵の僕が保証する」
アスターにそこまで言われてしまっては、私もあっさりその気になります。
「そう、ですね。王都なんか、出ていってしまえばいいのです」
「うん、そうだ。長年仕えた大臣を出所も不確かな噂と関係のない責任で罷免するようなところとは、もう関係を絶ったほうがいい。これからのことを考えよう、そうすれば希望も見えてくる」
うん、そうです。そのとおりです。
アスターは満面の笑顔で、話がついたことを喜んでいました。さて、冷めないうちに、じゃがいものポタージュをいただこうと思います。スープにサラダ、いくつもの種類のパン、それとチーズと卵に具材たっぷりのウフ・ココット。これだけで十分、お腹が張りました。
お腹が落ち着くまで、紅茶を飲みながら少し談笑して、柱時計が午前九時を指したところで、アスターはそろそろ仕事に取りかかるようで席を立ちます。
たたんだ新聞を持って食堂を出ていく前に、アスターはこんなお誘いをしてくれました。
「ミリー、午前中に執務を済ませて、午後から一緒に街に出よう。案内するよ」
「よろしいのですか? 街中を出歩くなんて」
「大丈夫、この街は治安もいいし、僕は市井の人々を見ることが好きなんだ。実際に現地で色々と目にしたほうが、財政改善のヒントも得られるからね」
アスターは友人に自分の自慢の街を紹介したくてたまらない、という様子です。であれば、ご厚意には甘えましょう。
あ、その前に。
「アスター、文具店に連れていっていただけませんか?」
「文具?」
「お父様とお母様に手紙を書きます。ウィンズ公爵領へ引っ越しをなさるよう、勧めてみます」
「なるほど。それなら、いい店がある。それに、僕のサインを二つとも付け足せば、少しは信用してもらえるだろう」
アスターの二つのサイン。私の友人アスターと、ウィンズ公爵トワイス・ディズリー。私の手紙と、それだけの信頼ある署名があれば、私の父母もきっと安心してこちらへやってくることができるはずです。
私はアスターを見送って、楽しみに午後を待つことにしました。