第二話 ウィンズ公爵領へまいりましょう
遅れた春が訪れるウィンズ公爵領まで二日と少し、私たちが着いたころには日が暮れかけていました。
遠くから見ても煌々とした都市、ウィンズ公爵領エヴァンゼリンは街灯はことのほか多く灯り、交通の要衝であるため夜でも馬車が行き交っています。他国からユルベール王国に入ってくる輸入物資の多くはここを通るので、日夜ひっきりなしに人が溢れている、といつかのアスターの手紙にも書いていました。
今までイリアス侯爵家に仕えてくれていたメイドたちとは、ここでお別れです。元イリアス侯爵家の悪評がこれ以上立つ前に離れなければ新しい雇い主を探せません。それに、十分な退職金を受け取っていますから、彼女たちは無事故郷に戻れるでしょう。皆、ずっとよく仕えてくれていた顔ぶれです。非常に名残惜しいですが、別れの挨拶を済ませて、私とキュリアは荷物を持って、アスターの手紙の地図を頼りに歩きます。
てくてく、見知らぬ土地を歩きます。王都とは色が違い、赤褐色の屋根瓦と白壁の建物が多いです。どこの家からも明かりが溢れ、おかげで慣れない市中も心細くはありませんでした。
「キュリア、こちらでいいのかしら」
「はい、まっすぐです。でも、おかしいですね。このまま進むと、街の中心に行きますよ?」
「そんなところに住んでいるのかしら。大きな店舗ばかり見えるけれど」
「うーん、とりあえず、行ってみましょう。見つからなかったら、夜が更ける前に宿を取って、また明日ということで」
「そうね、そうしましょう」
キュリアは頼りになります。前のメイド長の養女で、養父母が亡くなってからはずっとイリアス侯爵家の屋敷で家族同然に暮らしていました。十七歳という年齢は同じですが、私の姉のようなものです。
通りを歩いていると、美味しそうな匂いが交互に流れてきます。住居から漂う夕食のシチューの香り、夜も開いているパティスリーで焼き菓子が出来上がった匂い、パブで大量の肉が焼かれて油っこいけれど食欲をそそる香ばしさ。ちょっとアルコールの匂いもします。通りにテーブルと椅子が店舗からはみ出るように並べられて、お祭りのようです。
屋敷にいると、人の活気ある匂い、というのは珍しく、穏やかなものばかりです。舞踏会も晩餐会も、お茶会だってそう。私の見聞きする範囲では、こんなに刺激的なことはありませんでした。
アスターは、こんなところに住んでいるのでしょうか。何だか、イメージとは違います。とても上品で、繊細な文字を書いていて、気遣いも文章も卓越しています。まさに教養人、だと思うのですが、うーん。
「あ、お嬢様、こちらですよ! あの広場、間違いありません、ここに書かれているディズリー広場です!」
私が道の先にある広場と、地図の真ん中にぽっかりと空いたディズリー広場が同じものである、と確認するまで、大した時間は必要ありませんでした。すぐ近くの建物の壁に、「この先、ディズリー広場」と標識があったからです。
ここまで来れば、アスターの家はすぐ近くです。ディズリー広場に面した屋敷、と書かれています。ずいぶん賑やかなところに家があるものです、でもこれならもう迷いません。
私はわくわくしながら、広場へ躍り出ます。円形の広場は、領都エヴァンゼリンの中心です。ここから——と、屋敷らしきものを探したのですが、うん? と首を傾げてしまいました。
右から大劇場、官庁舎、美術館、証券取引市場、レストラン。ひしめく建物に、あれ、どこに屋敷が? と分からなくなってしまいました。
私とキュリアが周囲を見回していると、一人の商人らしき若い男性が声をかけてきました。
「お嬢さんたち、どうしたんだい? 誰か探しているのかい?」
「あ、いえ、この住所に行きたいのですが、ご存じありませんか?」
「どれどれ」
私は地図を見せ、アスターの家があるはずの広場を指差します。
若い男性は、すぐに地図の場所が分かったようです。振り返って、広場に面した三階建ての建物の一つに視線を送りました。
「ああ、これだよ。この建物。ウィンズ公爵邸さ」
それは、驚くことに、官庁舎と美術館の間に、玄関がありました。よく見れば表札にちゃんと金文字で「ウィンズ公爵」と書かれています。
ごくごく普通に、白壁の建物に鉄製の黒い扉です。大きな屋敷でもなく、ここに本当に住居があるのか、アパートメントなのかしら、などと考えつつも、私は若い男性に礼を言い、玄関に近付いてドアノッカーを叩いてみました。
コンコンコン、と三回叩いて、様子を見ます。すると、すぐに鉄製の黒い扉は開きました。
中から出てきたのは、金髪のひっつめ髪の女性で、メイドではなく、執事の格好をしていました。
ああっと、黙っていては失礼です。私は、用件を切り出します。
「夜分遅くに申し訳ございません。私、ミリアライゼ・イリアスと申します。こちらにお住みの、アスター様と文通をしておりまして、ご招待与りましたものですから」
私は執事服の女性へ、サイン入りの地図を見せます。執事服の女性はそれを受け取り、一つ頷きました。凛々しい、はきはきとした声で答えます。
「ふむ。アスター、ですね?」
「はい。いらっしゃいますでしょうか?」
「少々お待ちください。話は伺っておりますが、念のためこちら、主人に確認を取ってまいります」
「はい、よろしくお願いいたします」
そう言って、執事服の女性は地図を持って、また中へと戻って行きました。鉄製の黒い扉は閉められ、待ちます。
ところが、ほんの数分もしないうちに、建物の中から走ってくる足音がして、一旦扉の向こうで止まり、そして鉄製の黒い扉は再び開かれました。
現れたのは、艶やかな黒髪の男性です。真っ白なドレスシャツにワインレッドのタイ、黒のスリムズボンといった簡素ながらも気品ある服装で、年齢は私よりも上でしょう。もしかすると、十歳くらい違うかもしれません。それにしても、柔和な笑みが魅力的な方です。
男性は、私の両肩を掴んで、大いに喜んでいました。
「ミリー! よかった、ちゃんと来てくれて!」
私をミリーと呼ぶ人間は、そう多くはありません。それこそ、父母や幼いころから知っている友人くらいです。他には、そう、アスターです。
目の前の男性が、アスター?
驚きのあまり言葉が出ない私へ、我に返ったらしきアスターは手を離して、自己紹介をしました。
「こほん、申し遅れた。僕がアスターだ、本名はウィンズ公爵トワイス・ディズリー。初めまして、だね」
アスター、いえ、ウィンズ公爵トワイス・ディズリーは、上品に微笑みます。
思い描いていたアスターとは違いますが、悪い人ではなさそうです。私はトワイス……いえ、アスターですね。私にとってはアスターです。アスターに連れられて、私とキュリアはウィンズ公爵邸へと招き入れられました。