02 銀髪の美少女
とりあえず、状況を一旦整理しよう。
まず、俺はバイト先へと向かうために玄関先へと向かった。
そして、靴紐を結んでる時に若い女の人の声を聞いて、全てを完了させていざバイト先へと向かおうと腰を上げたら、現在に至るという———————
「……全く意味が分からないな」
目の前の少女といい、辺りを見渡した雰囲気といい、俺の暮らしていた現実とはあまりにもかけ離れすぎている。
非現実的な想定が、脳裏にちらつく。
すると、目の前にいる彼女が不思議そうな表情を浮かべながら問いかけてきた。
「あなた、誰?」
「いや、それは俺が聞きたいことなんだが」
「なんでスライムじゃないの?」
「……何を言ってるんだ?」
スライムと言われれば、ファンタジー小説とかに出てくる下級モンスターを彷彿とさせる。
てか、冗談でも人のことをスライムとか言うか? 普通……。
「でも、人間じゃないのよね」
「もしかして俺、人間だと思われてない?」
「そうよ」
「そうか」
今までの短い人生経験の中で、人間かどうかを疑われたことなんて一度もなかった。
いや、普通なら誰もそんなところを疑ったりはしないだろう。
だが、彼女の猛攻はまだ続く。
「あなた、スライムでも人間でもなければ一体何者なの?」
「いや、まさに俺が今それを聞きたいんだけど。第一、手足も生えてるし誰がどう見ても人間以外考えられないと思うんだが」
確認のため、身体を調べてみたものの、スライム要素なんてどこにもなかった。
服装もいつものラフな部屋着を着ており、どう見繕ってもスライムとは程遠い。
だけど、興味深そうに見つめてくる彼女の意思は、簡単に捻じ曲がるほど柔らかくはなかった。
「スライムに手足が生えてるなんて珍しいわ」
「……どうして君はそこまで俺をスライムにしたがるんだ?」
「私、間違えたこと言ってないわ」
「間違えたこと言ってるから、反論してるんだろ」
「あなた、変わった生き物ね」
「それは今まさに俺が思ってることだけどな」
このまま彼女と話していても一向に埒が明かない。
とりあえず、今置かれている状況を理解するためにも彼女ではない誰かに聞く必要がある。
しかし、その必要はすぐに無くなった。
「スライムの代わりに、あなたが出てきたわ。それが何よりの証拠よ」
彼女の綺麗な声色が、冷静だった俺の脳内を猛烈にかき乱す。
「スライムの代わりにあなたが出てきた」という彼女の言葉が、「スライムを召喚したらあなたが出てきた」という意味合い以外で使われているとは考えにくい。
信じられない事実が導き出された今、想定が現実へと変わってしまったのである。
つまり、ここは俺の住んでいた国とは程遠い、辺境の異世界の地で間違いないようで——————
「……不思議だな」
思っていたのとは違う感情が込み上げてくる。
異世界に来れば、全てがハッピーライフだと思っていた。
異世界転生にしろ、異世界召喚にしろ、夢のような現実に憧れて、異世界に来れば幸せな気分で満たされると本気で信じていた。
だが、実際はそんなことなかった。
期待も、夢も、憧れも、元いた世界に取り残してきたかのように、今の俺の胸中には何も残っていなかった。
「どうしたの?」
異変に気が付いたのか、彼女が俺の元へと歩み寄ってくる。
そして、俺は自分の姿を彼女の透き通る銀色の瞳で改めて確認した。
闇色の髪にサファイアのような澄んだ瞳。
垂れ目で死んだような眼をしたその顔つきは、元の世界の面影をきちんと残している。
まるで、着色料を上から塗られたような感覚だ。
「さて、どの先どうするか……」
彼女の話が本当なら、俺は彼女のスライム召喚に紛れてこの世界に召喚されたことになる。
なんで数多くいる人間のうちの俺が、一体何のために召喚されたのか。
いや、そこは今考えることでもないだろう。
まずはこの世界のことを知っておかないといけない。
その上で生きていくために必要な事を一つずつ覚えていく——————
「……って、普通に面倒だな」
「……」
突然ボソボソと呟き出したせいか、彼女は珍しいモノを見ているような眼差しを俺に向けてくる。
「本当に、変わった生き物ね」
「俺の何がそんなに変わってるんだ?」
「変わってるわ、こんなスライムは見たことないもの」
「だから、俺はスライムじゃない。普通の人間だ」
「スライムよ。なのに、あなたの思考は曖昧だわ」
「すでに答えが出ている気がするのは俺だけか?」
頭の中が膨大な情報量で支配されているせいで、彼女の言葉の意味を表面上でしか捉えられず何を言っているのかさっぱり理解できなかった。
いや、多分支配されていなかったとしても理解できなかっただろう。
それでも、見据える眠たげな銀色の瞳が俺に何かを伝えようとしているのだ。
しかし、それが何なのか全く分からない。
「私は、あなたが羨ましいわ」
相も変わらず無機質な表情で、彼女は今も尚真っ直ぐ俺の目を見据えている。
「俺のどこが羨ましいんだ?」
「感性が豊かなところよ」
「いや、俺はそこまで感性は……」
そう言いかけた瞬間、背後から今まで感じたことのない強烈なプレッシャーが襲い掛かってきた。
いや、プレッシャーというのは恐らく錯覚。
彼女の瞳に映る化け物の姿を目にしてしまったから、プレッシャーなどという錯覚を引き起こしているのだ。
体長三メートルをも超えるであろう巨体に、湾曲を描く鋭く尖った二本の牙。
その様はまるで、かの有名な「サーベルタイガー」のようだ。
全身の力が硬直し、逃げることすらもままならない。
俺はこのまま、噛み殺されてしまうのだろうか?
早く逃げないといけないと頭の中で分かっていても、恐怖が全身を支配しているせいでどうすることもできない。
せめて、目の前の彼女だけでもこの場から逃がさないと、と声を発しようとした次の瞬間——————
「グルァァァァァァ!」
今にも襲い掛かってきそうな勢いで、背後の化け物は咆哮する。
もうダメだと、俺は必死に瞼を閉じた——————だが、一向に襲い掛かってくる気配を感じない。
一体どうしたのかと彼女の瞳越しで化け物の様子を窺おうとして、俺は言葉を失った。
純正のクリスタルのような二つの宝石の中に宿る、妖しく光る水色の瞳孔。
そして、その瞳の奥には薄氷の檻に閉じ込められている化け物の姿があった。
空を見上げても雲一つない快晴、氷が作り出せるような環境じゃないのは明白だ。
きっと魔法のようなもの……なのだろう。
だが、初めて目にした魔法は、そこまで感動的なものではなかった。
それよりも気になることが目の前で起こっていたから——————
「……君がやった、のか?」
面と向かって彼女に尋ねてみる。
すると、妖しい双光を消した彼女が、儚げな表情を浮かべながら言葉を綴った。
「私は、あなたが羨ましいわ」