乞食の女神様
朝早く、会社への道を歩いていく。
周りは人でいっぱいだ。都会なので当然なのだが、まだ慣れ切っていない。
俺は今年の春に街へ出て、とある小さな企業に就職した。
田舎との差が激しいせいかして人疲れしてしまう。まだまだ入社して二ヶ月、頑張らなきゃなあ。
そんなことを考えながら行っていると、そこに異様な影を見つけた。
ビル群に溶け込むようにしてそこに鎮座していたのは、一人の女性だった。
もしもそれが普通の女性だったら俺は何の違和感も覚えずに通り過ぎたことだろう。しかしその女性の容姿が、少し目立っていた。
薄いピンク色の民族衣装のようなワンピースを纏っている。黒髪はチリチリで、目鼻立ちが東南アジア系独特で彫りが深い。
キョロキョロと行き交う人々を見つめる丸い瞳が印象的だった。
「……何してんだろ」
外国人だろうか? それなら、どうしてこんなところに。
俺は思わずこう問いかけていた。
「あのぅ。どうしたんですか?」
そもそも外国人だったら日本語が通じるかどうか怪しいのだが……。
彼女はゆっくりこちらを見る。瞬間、目が合った。
「ここで人々の様子を見守っているのです」
どうやら日本語が通じたようだ。
宗教的なことだろうか? よくわからない。
仕事に遅刻しそうなのだが、俺はそれでももう少し聞いておきたかった。
「何を見守っているんです?」
「民の安寧を、とでも言いましょうか。富める人も病める人も見つめる、それが私の役目ですから」
彼女の言葉で俺は神父を思い出した。
結婚式に「富める時も病める時も~」と言うあれだ。でもあれはキリスト教の風習でありアジア系の彼女とは関係がない。
そもそも普通に訛りすらなく日本語を喋っている。彼女は一体何者なのだろうか?
「ええと……あんたは」
「私ですか? 私は女神です」
少しの躊躇いもなく、真剣な顔で彼女は言った。
俺は大きく首を傾げる。聞き間違いと思ったが、それにしてははっきり聞こえた。
そこで俺はある考えに至る。そうだ、自分を神様だと信じ込む人間が世の中には少なからずいるらしい。天照大神の生まれ変わりだのなんだの言っている彼ら彼女らと同じように、目の前のこの女性もそう思っているのだ。
俺は変な宗教や人間になど絡むのは御免だった。
「へえそうか。じゃ、これで」
「少しお待ちください。私は女神です。女神なんですよ? 信じてくださらないのですか?」
逃げようとする俺へ、女性が縋りついた。
俺は気味が悪かったので払い除けようとしたが、なんとなく悪い気がしてしまいそれができなかった。
「信じるよ。信じるから、これでも食っとけ」
口調は先ほどまでからずいぶん雑になっているのは、頭のイカれた女に払う敬意などないと思っているからだ。
それでも俺はポケットをガサゴソやると、たまたま入っていたビスケットを手渡した。
「ほら。家も飯もないんだろ?」
「はい。今は身一つです」
やはりホームレスだった。
きっと彼女は難民で外国から入り込んできたものの頭がおかしいので路上生活者になるしかなかった、そんな哀れな人なのだろう。
俺はため息を吐いてさっさと歩き出した。
その後ろ姿を、女性がじっと見入っていることにも気づかずに。
そしてその後、会社に見事遅刻した。
* * * * * * * * * * * * * * *
次の日も彼女はいた。
「またいたのか」
「ええ、しばらくここにいるという約束ですので」
そして俺はまたも女性に話しかけてしまっている。道端で座り込んでいる彼女を見ると、なんだか放っておけなくなるのだ。
雨に濡れている小動物を見た時の感覚に近い。そしてこの日は雨が降っていた。
「寒くないのか」
「ブルブル震えます。これが寒いという感覚なのであれば、おそらくそうでしょう」
「……じゃ、雨宿りしたらいいじゃないか。こんなところでずぶ濡れにならなくても」
女性は首を傾げた。どうやら雨宿りも知らないらしい。
「あそこのビルの軒下にでも入っとけ。多少はマシだと思う」
「でもここが民を見渡すには一番いいのです」と女性は言った。
が、このままでは梅雨の冷たい雨で体温が奪われてしまう。俺は無理矢理彼女を軒下へ連れて行った。
「物乞いするならここでしろ」
「私は物乞いをしているのではありません。私は女神です」
「はいはい」
俺は今度はパンを恵んでやった。昨日と違い、おそらく彼女がまたいるであろうことを予想して用意しておいたものだ。
女性は頭を下げて「感謝します」と言うなり、物凄い勢いで食べ始めた。よほど腹が空いていたと見える。
俺はそんな様子を見ながら会社に行かねばと思い出す。入社早々遅刻ばかりしては辞めさせられてしまう。
「じゃあな」
「さようなら」
俺たちは別れた。
* * * * * * * * * * * * * * *
不思議なことに、俺は女性にどこか好感を持っていた。
それは彼女が年若く美しかったこともあるだろう。しかし実際のところ、彼女の澄んだ黒瞳に魅入られてしまったのだと思う。
毎日通い詰め、食事を恵んでやり軽く言葉を交わす。
日常に突如生じた『非日常』を楽しんでいるのかも知れない。
ある日、俺が「なんでここに来たんだ?」と聞くと、女性からこんな答えが返ってきた。
「一人前の女神になるための修行です。一年間、人間として下界で生き抜く。そしてその期間が終わると、大女神と呼ばれるものになります」
「大女神?」
「普通の小さな女神たちを統べる者たちのことです」
よくわからないが、とにかく俺は彼女の話を聞いていた。それが妄想だとしても、夢があって楽しいではないか。
女性は真面目な顔で話し続ける。その様子がとても可愛かった。
そうして月日が過ぎた。
* * * * * * * * * * * * * * *
「今日の晩にお迎えが来るんです」
突然、女性がそんなことを言い出したので俺は驚いた。
「お迎えって……?」
「天からの使いです。そこで私は、正式に大女神として認められるのです。私はあなたのおかげで一年間を生き抜けた。感謝します」
勢いよく頭を下げる彼女。
俺は呆然とした。
「え、あ、でも」
確かに一年間だけと以前言っていたし、気づいたらあっという間にあれから一年が過ぎている。
俺は働き始めて一年目の節目から少しが過ぎた頃合いで、ようやく都会にも馴染めた頃だったというのに。
心の支えがガタリと音を立てて崩れる感覚だった。
「最後に、何かお礼をしたく思います。何か欲しいものはありますか?」
俺は何も答えられなかった。頭の中が真っ白になっていたから。
「いらない」とだけ言って、会社に向かって走り出した。
* * * * * * * * * * * * * * *
どうして俺は、乞食の女になんて惹かれてしまったんだろう。
それも自分を女神などと名乗る、言っては悪いがキチガイだ。俺はどうしたことか、キチガイに惚れているのだ。
冷静になれ。
彼女が本当に女神であるはずがない。ならば彼女が消えることもないのだ。明日もいつも通りそこにいて、俺を待ってくれている。
違う違う違う違う違う。
彼女は本当に頭のおかしな人間なのか?
俺の中には確かな疑問が生じていた。
ずっと前から思っていた。女性が本当の女神なのではないか? と。
馬鹿な考えなことくらい知っている。でもその妖しい雰囲気や言動に、どうしても「それらしさ」を感じてしまう。
もしも本当にそうだとしたら。
仕事そっちのけで俺は頭を悩ませた。怒鳴る上司の声も、それを嘲笑う同僚たちの声も耳に入らない。
ゆったりとしたピンクのワンピースを地面に広げて、丸い黒瞳でこちらを見上げる女性。彼女が好きだ。俺は彼女が好きなんだ。
絶対に別れたくなんてない。
『欲しいものはありますか?』
朝の女性の言葉を思い出した。
あの時は答えられなかった。でも、欲しいものなら、ある。
俺は会社が終わるや否や、夜更けの街へ繰り出した。
* * * * * * * * * * * * * * *
「こんばんは。もうあなたとは会えないと思っていましたのに」
女性――女神はそう言って、ふふっと微笑んだ。
その笑顔が可愛くて、俺は見惚れてしまう。
「ああ。別れが惜しくて」
「私は今宵に修行を終えるのです。もうすぐ、お迎えが来るはず」
夜空を見上げる女神。
俺も空を見た。何もない。
「他の女神が迎えに来るのかい?」
「ええ、その予定です。……なんだか寂しいですね」
この世界を離れてしまうことなのか、俺と会えなくなることなのか。
後者であればいいなと思うが、それは傲慢なのだろうか。
俺は彼女に向き直った。
「――朝の話だけどさ」
「なんですか?」純粋無垢な顔で首を傾げる女神は、俺に問いかけた。
「それはな……」
しかしその言葉は続かなかった。なぜか?突然に空が光ったのだ。
夜なのに信じられないくらい眩しくて、俺は思わず目を閉じた。そしてすぐに開けると――。
「迎えに来たぞ、我が娘よ」
目の前に光の粒子が塊となって漂っていた。そしてそこから女の声がする。
信じられなかった。まるで夢のような光景に、俺は息を呑むしかない。
「お母様。お久しぶりでございます」
女神が立ち上がり、深々とお辞儀した。
彼女の立ち姿を見るのは初めてだった。背がすらりと高く、足が細くて美しい。まさに女神のようだった。
「ちょ、ちょっと待て。これはなんだ?」
すでに俺の頭の許容量をオーバーしている。
光が声を発し、それと平気な顔で話している女性。下級映画にありそうだが、実際に見るとなんというか……。
「驚かせて申し訳ない。元来、普通の人間に見られてはならないのだが。娘よ、もしや人間と心を通わせたか?」
「はい。この人は私に食物を恵んでくださいました。稀に見る心優しい人間です」
照れると同時に俺はなんと言っていいのかわからなくなった。
これは現実なのか? だとしたら、俺はどうしたらいいのだろう。
「そうか。なら褒美が必要だろうな」
「でもお母様、この方は褒美はいらぬとおっしゃっております」
「ほぅ。それは本当か。では我らは静かに立ち去るとしよう」
このままなら女神たちはいなくなってしまう。そう直感して、俺は慌てて口を開いた。
「あ、あ、あ。褒美、褒美をくれ」
くるりと女神がこちらに振り返る。輝かしい唇が言葉を紡いだ。
「心変わりされたのですね。何がご入用ですか?」
「……俺の欲しいもの。それはたった一つだ。それは、あんただ」
言った瞬間、胸が飛び出しそうなほど早鐘を打ち始めた。
言った。とうとう言ってしまったんだ。こんな地味なスーツ姿で、しまらない顔で。
途端に頬が熱くなっていく。対する女神は、目を見開いて驚いた。
「私を、ですか?」
「そう、あんたをだ。あんたが、あんたが欲しい。あんたが欲しいんだ!」
道端で出会った乞食。
縁もゆかりもない。特段彼女に優しくされたわけでもない。しかし好きになってしまったのだから、惚れてしまったのだから。
女神を手に入れたいと、そう思った。
彼女は少し躊躇うような表情をした。俺と光――お母様と呼んでいるそれ――を見比べる。
だがやがて、言った。
「承知いたしました。この身でよろしければ、あなたに捧げましょう」
「なっ!?」
「え……!?」
あまりにもすんなり受け入れられたものだから、俺も光の塊も驚愕の声を上げずにはいられなかった。
女神はそんな俺たちには構わず続ける。
「ということでお母様、私はもうしばらく地上に留まります。この方の妻となり彼が一生を終えるまで、私は天界に戻らず彼の所有物として過ごしますね」
……もはや彼女の結論を曲げることはできない。
そう思ったのだろう、光の塊はため息らしきものを吐くと仕方なさそうに言った。
「わかった。まあ人間の一生は短い。数十年やそこらなら、地上での滞在を許しても良かろう」
こうして、女神は俺のものになった。
そっと抱き止めると温かい。彼女を幸せにしようと、俺はそう決めた。
* * * * * * * * * * * * * * *
俺は、まもなく女神と暮らし始めるようになった。
彼女には名がなかったので、カーリーとした。本当に現地の人には申し訳ないが、女神がインド系の顔をしていたのと俺の知識が足りないせいである。
光の塊は時折現れてはいつも彼女のことを見守っている。本来は女神というのはあのような姿であるらしいが、カーリーは試験の際の人間の体から戻れていない。
もちろん戻らないのが一番だが。
普通のサラリーマンである俺と、乞食の女神様カーリー。
二人はやがて結ばれ、俺が死ぬまで一緒に過ごし続けるのだろう。
何度考えても夢みたいな話だなあと俺は思うのだった。