第6話
「あ!」
びくりとしたのは最初だけで、アテカの目はすぐに時計に釘付けになっていた。
きらきらと透きとおったガラスの中で、カチコチと規則正しい音を奏でながら二本の針が仲良く寄り添っている。時間にして三時を少し回ったところであった。時計の文字盤には小さな丸いくり抜きがあって、そこから精巧な機械の動く様が見られるのだった。
(なんてきれい…)
思わずうっとりと眺めていると、蓋の裏側にも何かが彫金されていることに気づいた。今度は模様ではなく飾り文字を刻んだようなものである。上下二段になっていて、二段目は短く、名前のようにも見える。だが、装飾用に崩した字体は田舎育ちのアテカにはなんとも読みにくいものだった。
眉を寄せていると、上からデシムが覗き込んできた。
「飾り文字ですね。任せてください。え、と…これはまた、随分と熱烈だなあ」
意味ありげな笑みを忍ばせ、人差し指をちょこんと上蓋に乗せる。
「ここに描かれているのはレコニアという花です。特に上流階級のご婦人方が自分の秘めやかな愛情を許されざる立場の相手にこっそりと伝えるときに好んで引き合いに出す花で―――」
「悪いけど…よくわからないわ」
世情に疎いアテカに、少年はうーんと唸った。
「要するに、『愛』をしたためた贈り物ですよ。レコニアの花言葉は『熱情』ですからね。愛しい人に添えた恋の花言葉。そして、時計は一日中愛を刻み続ける、ってとこです。気障というか、貴族趣味というか…ぼくには到底、理解できませんけどね」
そう言いながら、今度は蓋の内側を指し示した。
「この最初の行は、『全ての愛をあなたに捧ぐ』とか何とかで、こういった場合の決まり文句のようなものです。贈り主は『エリーネ』だか『セリーネ』だかって女性です。飾り文字になっているのは、人に知られたくないからでしょう。それにしても、これって特注品ですよ。軽く一万リルはいきそうですね。すごいや」
「一万リル…」
あっさりと言ってのけるデシムを、アテカは信じられぬという目で見ていた。
花言葉にまで精通している少年にも驚いたが、時計は女性からの秘めたる想いを込めた高価な贈り物だったのだ。しかも、どうやらその愛にはなんらかの障害があるらしい。もちろん、恋の相手はラクタス・オールランドに違いないのだ。破格ともいえる金額を費やしてまで愛を届けたいと思う女性の心情を思うにつれ、切なく、居たたまれない気持ちがわきおこる。
アテカの胸がじんとうずいた。
「あれ?どうかしましたか?」
突然立ち上がったアテカは、デシムの問いかけにも答えず、網棚に仕舞ってあった自分の鞄を荒々しく引き下ろした。
そうして、小振りな鞄のぐるりを取り巻いている二本のベルトを外し、蓋を開けてたたみ直した上着と懐中時計を丁寧にしまった。再び元通りにベルトを締め直すと、今度は羽織っているショールのピンをしっかりと留めなおした。
「あの…アテカさん?」
挙動に不審なものを感じ取ったデシムが腰を上げたときにはすべての身支度を終え、デッキへ向かって歩き出していた。微塵の迷いも感じられない動作で内ドアを開けて進み、そのまま外へと通じるデッキドアを開く。轟音と共に舞い込む風がスカートと髪を大きく翻したが、アテカは気にしなかった。
吹き付ける風の向こうに見えるのは線路脇の赤茶けた土手。その向こうに広がる草原、そして、雲ひとつない青空だけである。
アテカは荷物を持ったまま注意深くデッキの端に立ち、足下を確認した。
流れは速かったが、決して飛べない高さではない。着地さえ気をつければ、何の問題もないのだ。
そうして、いよいよ足を踏み出そうとした時、いきなり鞄を持つ腕がガシリと捕らえられた。
「きゃっ!」
ぐいと引き戻されてよろめくアテカの脇をすり抜けたのはデシムだった。開いたドアが大きな音を立ててバタンと閉じられた。
「な、何考えてるんですか!あなたって人は!」
そう叫ぶと、デシムは険しい顔でアテカを振り返った。
「冗談じゃない!まさか、本当に飛び降りる気だなんて…死ぬ気ですか!」
怒気を含んだ表情で、あり得ないという風に首を振る。
「そこをどいて。邪魔をしないでちょうだい。私はセロースに戻るわ。どうしても・・・この時計だけでも返したいのよ」
アテカは懐中時計の話を聞き、何としても持ち主に返すのだと決意をしていた。
愛をしたためた贈り物であるのなら、正当な所持者の手元に戻さねばならないし、それなら、どこかの駅でいつ来るかわからないセロース行きの汽車を待つよりも、今ここから引き返した方が断然よいと思ったのである。線路を辿ってゆけば、数時間後には確実に持ち主のいる町へ着くのだから。
だが、デシムもまた、激しい剣幕でアテカに詰め寄っていった。
「馬鹿な!あなたみたいな人がここから落ちて、無事でいられると思ってるんですか!死なないまでも、怪我をするとか考えないんですか?頭を打つとか、足の骨を折るとか…誰だって考えるじゃないですか!」
「大丈夫よ。跳べるわ」
こともなげに言ってみせる。
子供の頃から山や谷を庭代わりにして暮らしてきたのだ。この程度のことであれば、いくらでも跳べると思った。擦り傷くらいはできるかもしれないが、大事に至るという考えは全く浮かばなかったのである。
何よりも、早く行かねばと言う焦りに突き動かされていた。
「どうってことないわ」
だが、そのひと言に、ついにデシムが切れてしまった。
「いい加減にしてください!あなたって人は、どうして目の前しか見えないんです?自分の危うさを全く理解してないじゃありませんか!無謀すぎるんです!たかが、時計くらいに命をかけるなんて、はっきり言って馬鹿です!」
初めて怒りを露にしたデシムだった。声を荒げ、それでも、怒りの奔流に飲み込まれまいと必死で堪えているようであった。いつもは若葉色に見える瞳が、今は深い緑色に変わっている。
「発想が無茶苦茶なんです!ちゃんと返したいなら真っ当な手順を踏めと言ってるんです!無知にも限度があります!危険を予測する知恵くらい働かせてください!もっと、自分のことを考えたらどうなんです!」
「考えてるわ!」
「考えてません!」
「だから、大丈夫だって言ってるでしょ!なんて分からず屋なの!」
「あなたに言われたくありません!」
互いに一歩も譲らず、揺れるデッキで二人は言い争っていた。そんないさかいを嗜めるように、遠くで立て続けに汽笛が鳴り続く。
いつまで続くかと思われた口喧嘩だったが、先に根をあげたのはデシムのほうだった。
「ああ、もう―――!」
突然、デシムはガシガシと乱暴に頭をかき乱した。
そうして、参ったとばかりに諸手を挙げて降参の意を示した。
「わかった、わかりました!白状します!みんな話しますから、どこにも行かないでください!」
唐突に意味不明なことを言い出したデシムは、面白くなさそうに下唇を噛んだ。
「本当は話すつもりなんてなかったんです。その必要もないと思ってたし・・・でも、黙ってるとアテカさん、何するかわからない人だってわかりましたから。だから言うんですけど」
「・・・何なの?」
事情を掴みきれず、アテカは聞き返した。
「これは嘘でも冗談でもないんですけど、怒らないで聞いてください・・・実はぼく、あの人を知ってるんです」
「あの人って?」
「ラクタス・オールランドですよ。名前くらいは聞いてますよね?実は彼、ぼくらの世界では少しばかり有名な人なんです」
「なんですって?」
驚きのあまり、アテカは叫んだ。
「彼は王都でオールランド商会っていう事業所を経営しています。そこの責任者なんです。多種多様な仕事の斡旋をする会社で、所在地もわかっています」
「・・・え?」
「だから、無理をしてセロースなんかへ行く必要はないんです。借りた物の返却はいつでもできるんですから」
にわかには信じられなかった。
だが、アテカはデシムにラクタスの名はひと言も告げていない。ホームでの会話も、耳に届いていたとは思えなかった。
「まさか、本当なの?」
そうだと頷き返すデシムに、アテカは開いた口が塞がらなかった。それが真実なら、今までのやり取りはいったい何だったというのか。
そうと知りながら必要な情報を与えず、アテカが翻弄する様子を静観していたことになる。なぜ、もっと早く教えてくれなかったのか?
「どうして黙ってたの!」
「どうしてって・・・」
デシムは前髪をすくい上げ、ばつが悪そうに言った。
「あの人に頼まれたからです。黙ってたのはぼくの一存ですけどね」
「・・・あの人って?」
嫌だなあ、とデシムは淡い若葉色の瞳を細めた。
「彼に決まってるじゃないですか。ラクタス・オールランドですよ。アテカさんが心配だから、ぼくにタールまで付き添うようにって、そう言われたんですよ」
「嘘よ!」
まさか、と思わずにはいられなかった。
何も心配しない、と言って消えていったのは彼の方ではなかったのか?
「どうしてあの人があなたにそんなことを言うのよ?」
すると、少年は天使のような笑顔でにっこりと笑った。
「雇用主の言うことには逆らえませんよ。だって、ぼく、あの人の会社の従業員なんですから」