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番外編~雪の音~

 その日の夜はいつもと違っていた。


 パチパチと薪の爆ぜる音……揺らめく炎の影

 静まった部屋……

 暖炉の前に座り込んだまま、アテカは動かなかった。

 眠る時間はとうに過ぎている。

 一日は終わり、することはもう何も残っていない。

 夜着にも着替えた。

 長い黒髪も丁寧に梳き終わった。

 けれど、この夜、睡魔はアテカを見限ったように、いつまでたっても一向に訪れようとはしない。


 すぐ隣では、祖母のリオネラが椅子に腰掛け、長いショールを編んでいる。

 それは、アテカが14歳の誕生日にもらう約束のもので、随分と前から楽しみにしていたものだった。

 ふんわりと暖かそうなショールはきれいな萌葱色をしており、裾にはたくさんのモチーフが描かれている。使い古しの毛糸からできあがっているなどとは、誰も思わないだろう。

 リオネラの手指は本当に魔法のようだった。

 幾度も古着をほどいては、まるで新品のように作り替えことができるのだ。

 そんな手仕事を眺めるのがアテカは大好きだった。

 だが、今夜ばかりは、そんなことも忘れてしまったかのように、鼓動だけがとくとくと鳴り続けている。


 リオネラもまた、いつになくのんびりとくつろいでいた。

 夜更かしを望まない彼女が、今夜はなぜか寝台へ行けとも言わない。

 だが、それがなぜか、アテカにはわかっていた。

 こんな時の彼女は、常に(待っている)のだ。

 それは、アテカが胸にあることをどうしても言い出せないでいる時―――リオネラもまた、静かに時が満ちるのを待っている。

 思い悩み、葛藤に疲れたアテカが重い口を開く時を、何も言わず待ち続けてくれているのだ。


 しかし、言葉にするには勇気がいった。

 こんなことを聞く娘など、ドーラの村では自分ひとりかも知れない。

 聞くのが恐い。

 でも……知りたい。



「お!おばあさま……私……教えて欲しいことがあるの!」

 切羽詰まったような声は、意外にも小さな部屋によく響いた。

 それにはさすがのリオネラも呆れたようで、おやまあ、という風に孫娘を見返した。

「なんて大声なのかね。驚かさないでおくれ」

 上品に老いた顔は、こんな時でも微笑みを絶やしたことがない。

 小さく結い上げた髪はすでに真っ白で、リオネラはドーラ村で一番の年嵩だったが、その笑顔を見るたびにアテカは美しいと思った。

 編みかけのショールを足元の籠へしまい込んだのを見計らって、孫娘は甘えたように膝に縋りついた。

「おばあさま!」

 赤ん坊の頃から癒されてきた祖母の温もりを感じていると、昂っていた心も次第に落ち着いてゆく。

 さやさやと頭を撫でられる心地よさに浸りながら、アテカは躊躇いがちに尋ねた。

「私……おとうさまのことを知りたいの」

「それは、おまえの―――つまり、父親のことかい?」

 アテカはこくんと頷いた。

「私に、この髪の色をくれた人……おかあさまが国を旅して選んだ男の人……」

 ドーラの村の全ての女たちがそうであるように、アテカもまた父親というものを知らない。古くからの伝統か習わしか……村には男の影はなく、女たちは外で子供を授かることになっていた。

 腹に子が宿ると女たちは再び村へ戻り、皆に見守られながら子を産んだ。

 一族の集まりである故の血筋か、それとも奥深い山に囲まれたこの土地がそうさせるのか。生まれる子は全て女で、しかも、髪か目の色を除いた全ての特徴を母から引き継ぐのだった。

 母は美しい赤毛だったという。

 アテカの髪は月の消えた夜のように黒い。

 たったひとつだけ母親と異なる髪の色こそが、血を分けた父親から譲られたものに違いなかった。


「どうしてまた、そんなことを聞くんだい?」

 問われて、アテカは細い眉を寄せる。

 実は今日、雪の合間をぬって仲のよい娘たちと共に東の村へ下りたアテカは、そこで見たこともない子供たちに囲まれたのだった。

 沼や湖に張る氷を楽しみに来たどこかの子供なのか……自分たちと同じ年頃の男女だったが、彼らは嫌悪の表情でいきなり固めた雪玉を投げつけてきたのだった。

(みんな見て。魔女の子供だって。女ばっかりの村から来たんだって。気持ち悪い!)

(母親とまるっきりおんなじ顔だってさ。父親は人間じゃないかもしれないって、おじさんが言ってたぞ)

(ねえ、あなたたちのお父さんは何処にいるの?結婚式もしないのは、やっぱり魔女だから?)


 くちさがない村人の陰口はいつものことだった。しかし、流行病や風土病によく効く煎じ薬は、ドーラの女たちしか作れないことを知っている者であれば、このようなことはしない。

 追い立てられるアテカらを救ったのは村人だったが、売りに来た薬の代金を押しつけた後は逃げるように去っていってしまった。

 一緒にいた娘たちは、特に気にする風でもないようだった。

 こんなことには慣れているとでも言いたげに、或いは、全く関心すらないのかもしれない。

 ただ、アテカだけが、その時の言葉に深く傷ついていたのだった。

「おかあさまのことはいっぱい聞いたけど、おとうさまのことは聞いたことがなかったから……」

 だが、父親のことを聞きたがる娘など、村にはいない。普段、ドーラの女たちは男の話はしないし、恋の旅を終えた後は娘が全てで、男はもはや意味のない存在だと言う考えがここでは普通なのだ。

 アテカ自身、今日のようなことがなければ、父というものに関心を寄せることはなかったかもしれない。

 けれど、悪口を聞かされて以来、会ったこともないもうひとりの親の存在が気になって仕方がなかった。

「どんなことでもいいの。大きい人だったとか、髭を生やしていたとか……」

「そうだねえ」

 祖母の返事はそっけないものだった。

「あの子は最後まで男のことは何も言わなかったからねえ。話と言えば腹の中のおまえのことだけだったから」

「そ、そうよね!おかあさま、私を産んですぐに亡くなってしまったから……」

 母が亡くなったのは旅で無理をしすぎたせいだと聞いている。

「いいの。ちょっと聞いてみただけなの……」

 なぜか鼻の奥につんとした痛みを感じ、アテカは慌てて暖炉の前へと戻った。目が潤んでくるのを押さえられそうもない。炎が大きくぼやけたかと思うと、ついに両目からぱたぱたと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 勘のいい祖母であれば、きっと泣いていることに気づいている。

 だが、その理由を理解しているかどうかは、アテカにはわからなかった。

(きっと私が、変なんだわ……)

 半年に一度、村を訪れる行商人からアテカが買うものは、決まって外の世界を記した本や夢のようなおとぎ話だった。他の娘が目を輝かせている異国の薬草や、新しい調剤機材などには全く興味が持てないでいる。

 小さな虫を瓶いっぱいに詰めて自慢しあうことも、お気に入りの動物の骨を探して歩く楽しみもない。

「おかしなアテカ」と、娘たちに揶揄されているのもそのためだ。



(時代が変わってゆくのかねえ……)

 不思議な声が呟きが聞こえたのは、その時だった。

 え?とアテカは急いで涙目をこすり、少しばかり振り返った。

「おばあさま?」

(そうさ。これも自然の流れなのさ。あの子も、この子も……ねえ)

「え、ええ?」

 アテカは驚き、きょろきょろと狭い室内を見回した。

 祖母の口ぶりが、まるで他の誰かと喋っているように思えたのだ。

 だが、こじんまりと片づいた部屋には、食事用の小さなテーブルと椅子があるだけで誰の姿も見えない。祖母はと見ると、椅子に腰掛けたまま、なぜか眠るように目を瞑っている。


 いつにない祖母の様子に、アテカはどきりと胸をふるわせた。

 急に恐ろしくなり、駆けよって節張った手を握る。

「目を開けて!おばあさま!」

 その声に、薄い瞼がゆっくりと持ち上がった。

「ああ……心配はいらないよ。ちょっとばかり母親たちと話していただけだからね」

 アテカはぽかんと口を開けた顔で、祖母を見つめた。

「驚いたかい?この歳になるとね。いろいろなことが見えたり聞こえたりするようになるのさ」

「まさか!……本当に?じゃあ、今、おばあさまが話していたのは、もしかしてご先祖様なの?」

 すごいわ!と、アテカは大声を上げた。

「おや……おまえが大きな声を出すから、行ってしまったよ」

「えっ!そんな……!」

「いいから、ここへおいで。アテカ」

 おろおろと宙を見つめる孫の手を引くと、リオネラは自分の膝の上へと座らせた。

 興奮の冷めない孫娘をなだめ、艶やかな黒髪を何度も撫で下ろした。

「おまえにも、そろそろ護りをつけてあげなくてはね。どうやら、その時期が来たらしいということさ」

 何のことかわからぬアテカは小首を傾げた。

「心配おしでないよ。これから先、ずっとおまえを護ってくれるものだからね。何処へ行っても心配しなくていいように。いつもは、女たちが村を離れる時だけでよかったんだけど、おまえはそうではないらしいからね」

「よく……わからないわ」

「わからなくていいんだよ。私たちは理屈でどうこう言える存在じゃないからね」

(それって……私たちが魔女ってことなの?)

 祖母の意味ありげな言葉に、アテカはもう少しでその問いを口にするところだった。

 おとぎ話に出てくる魔女は、それは恐ろしい女の魔物だ。そんなものであるはずがないとわかってはいたが、どうしてもその答えを聞きたくなる時もある。

 だが、結局はいつも言い出せずに終わるのだ。

「さ、もうおねむり。雪が降ってきたからね。明日はもっと冷えるよ」




 少しばかり不満げな孫娘は、それから暫くして寝台へ潜り込んだ。

 重ね合わせた毛布にくるまり、ほっとため息をつく。

 手足は氷のように冷たかったが、すぐに祖母もやってくる。二人で抱き合って眠れば、寒さなどどうと言うこともない。

 ふと何かを思い出したようにアテカは目を開け、固く閉ざされた窓を探した。

 雨戸を下ろしカーテンを引いた窓からは、何の音も聞こえない。

 けれど、祖母は「雪の音が聞こえる」と言う。

 どんな不思議なことも、祖母が口にすればそのように感じるからおかしなものだ。

 アテカは再び目を閉じると、夜の雪景色を思い浮かべた。

 深い山裾に抱かれた小さな村。

 女たちが静かに眠るドーラの里。

 雪はこれからも際限なく降り続く。

 冬は始まったばかりなのだ。



 やがて、アテカはうとうとと眠りの中に誘われてゆく。

 果たして夢なのかどうか。

 その耳にかすかにではあるが、「雪の音」が聞こえたような気がした。

 それは女たちの静かな暮らしによく似た、ささやかで安らぎに満ちた音に聞こえた。


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