第14話
太陽が天の高みへと達する頃、男達は最初の村を訪れた。
のどかな葡萄畑の合間に広がる、古い村である。
村人は皆、呑気で明るく、よそ者にも愛想がいい。頼めば誰かが必ず都合をつけて、次の村まで送り届けてくれると御者は太鼓判を押した。
手間賃をはずめば地酒の葡萄酒がついてくることは間違いないと、陽気に声を弾ませる。
「この村に飯屋は一軒だけですが、味は申し分ねえです。そこで待っててもらえれば、その間に話をつけてきますんで。ただし、手間賃を出す時はそこの現金の旦那でお願いしますよ。小切手の旦那はちょっとばかり遠慮願いてぇもんで。へえ」
しみじみと述べられた言葉に、ふたりの男はそれぞれの顔に複雑な表情を浮かべた。
集落の奥へと踏み込むと、馬車はことさらゆっくりとした速度で進んだ。
村の中は古さの目立つ建物が多かったが、石段のある玄関はどこもきれいに掃き清められていた。窓辺には美しい花々が飾られており、吹き込む風がそよそよとカーテンを揺らしている。柵で仕切られた庭も手入れが行き届いており、見ている者の目が飽きることはなかった。
時折、毛艶の良さそうな犬が現れて馬車を追いかけたが、侵入者に吠えかかることもない。
「暮らす者の人柄がわかるような村ですな。実に気持ちがいい」
ハロンズは茶色い目を輝かせ、上機嫌で言った。都会暮らしのラクタスに対し、得々と持論をまくしたてる。
「家を見れば人がわかると言いますが、村や町も同じです。愛に溢れた場所は人の心を惹きつけるものです。心象の豊かさについても、また然り。この村は人々の心の現れなのです」
「では、君は実際に会う前から、相手の人となりがわかると言うんだね?」
興味深げに聞いていたラクタスが、おどけた調子で聞き返した。悪戯っぽい光を忍ばせた眼差しを、ハロンズはむう、と睨み返した。
「オールランド殿。人間は時に、すぐれた直感力を発揮するものですぞ。信じていただいて結構です。この村に邪な心を持つ人間は一人たりともいません!」
「では、その髭に賭けて誓うかい?」
え?とハロンズの目が丸くなる。赤茶色の豊かな口髭を指でなぞった。
「この髭に・・・とは?」
「君の言う邪な心を持つ者が一人でもいた場合、その髭をきれいさっぱり剃るというのはどうだろう?君の直感が本物かどうか、試してみる勇気があればの話だが?」
言葉の最後に、ラクタスがわざとらしく眉を上げてみせる。その仕草を見逃さなかったハロンズは、きゅっとネクタイを締め直した。
「いいでしょう!私も男ですからな。勇気を引き合いに出されては、逃げるわけにもいきますまい」
「ほう・・・」
ただし・・・と、お返しとばかりに不敵な笑みを突きつける。
「あなたも紳士なら、勇気には勇気を持って臨んでいただきたい。私の直感が正しいと判断された場合、私からもひとつお願いがあるのですが、もちろん、かまわんでしょうな?」
「願いとは?さっきの私の問いに関する答えなら―――」
そんなラクタスの言葉を、ハロンズは大げさな手振りで制した。
「いや、あれはあれです。私は未だ思考中ですので、申し出た通り、答えが見つかるまでどうか保留に願います」
“異能者”に対するラクタスのこだわりとも言うべきものを、ハロンズは質問した。だが、その答えを得る為には、まず、捉え損なっている事実を修正する必要があるという。だが、未だその手がかりは掴めず、ハロンズはその問いに無期限の保留を願い出ていた。
髭の男は笑みを消し、いたって真面目な顔で言った。
「実は、この髭はハロンズ家代々に受け継がれる誇りの象徴なのです。十二の時に伸び始めてから手入れは怠ったことがなく、当然、剃り落としたこともない。自信と誇りに揺らぎがない限り、これはここにあるべきものなのです。あなたには理解できんでしょうが、言わば、私の命とも言うべきものなのです」
「命?はは・・・それは少し大げさでは―――」
「失礼だが、髭を伸ばされたことは?」
言いかけた言葉を無視して、ハロンズはずい、と身を寄せた。
「あ、いや・・・私はまるっきりだめでね。うまく生え揃わないから、いつもこのままなんだ」
剃り残した痕も無さそうな、つるりとした頬を撫で上げる。何かに気づいたように、ラクタスははっとその動きを止めた。
「・・・では、君は私にも髭を伸ばせと?」
しかし、今度もまたハロンズは首を横に振った。
「まさか!そこまで私は無慈悲ではありませんぞ。惨めに伸ばされた髭ほど、見ていて痛ましいものはありませんからな。不幸としか言いようがない!」
心の底から楽しんでいるかのような笑顔である。
ラクタスは顎を押さえたまま、その男を無表情に見上げた。
「君のその態度から察するに・・・その髭を賭けた代償は大きい、と言うことを言いたいんだな?」
「これは、あなたのちょっとした思いつきに対する挑戦と受け取ってくれてよろしい。あなたも、オールランド家の誇りに見合う勇気を示すべきでしょう?」
「・・・・・・」
田舎の風景を満喫していた男達は、今や狭い空間で互いに睨み合うこととなっていた。馬の足並みは変わりなく、不揃いな敷石の上をのろのろと進んでゆく。風に乗った白い蝶が窓から流れ込み、ふわふわと二人の間を横切っていった。
ややあって、ラクタスが言い切った。
「いいだろう。で、私は何を賭ければいい?」
ハロンズの髭の片方が、くい、と持ち上がり、その瞳がきらりと光った。
「オールランド殿。あなたには、ご自分の一番の秘密を賭けていただきたい」
「・・・秘密?」
「そうです。もちろん、私にはあなたの秘密がなんなのかも、はたまた幾つお持ちなのかも知らない。だが、人間である限り、他人に知られたくない事は必ずあるものです。その中でも、あなたが特に一番だと思われている秘密・・・それを、私に明かしていただきたいのです」
暫し、ラクタスは呆気にとられたように目の前の男を見つめていた。
やがて、異様に青光りする瞳がふっと眇められた。
「だが、それでは自己申告ということになる。私が適当な事を言う可能性も考えているのかい?」
「ラクタス・オールランドともあろうものがですかな?」
「君は私を知らない。何物にも代え難いと思えば、でたらめを言うこともある」
「それはそれで結構―――」
ハロンズは何でもない、という風に肩をすくめてみせた。
「真実かどうかはあなただけが知っていることですからな。その時になって、嘘をつこうが沈黙しようが、実のところどうでもよいのです。ですが、真実に目をつぶれば、自分に恥じることになりますぞ。それでも構わぬというのなら、私は挑戦する相手を見誤ったということになるだけです」
「なるほど・・・要するに、私は自分自身の誇りを自分の手で秤にかけるというわけだ」
「付け加えるなら“秘密”などというものに、特に深い意味はないのです。むしろ、他人の秘め事など、知ったところで気が重くなるだけですからな。私は耳でも塞いでいるつもりです。しかし、相手が聞く耳を持たなかったとしても、それを口にする勇気はいかほどのものでしょうな?」
「この話はなかったことにする、という選択肢もあるのかい?」
「そうですな。あると言えば、そちらを選びますかな?」
どちらでもよい、といった態度でハロンズは相手を見やった。決定権を委ねられた方も、ただ、じっと相手を見返している。―――と、
「くっ・・・!」
押し殺したように笑ったのは、青い目の男の方だった。
「な・・・なんです?」
馬車の中に、暫し、軽快な笑い声が響く。ハロンズは相手の不作法に眉をひそめた。
「オールランド殿・・・」
「失礼・・・こんな風に追いつめられたのは、記憶にある限り初めてでね。冷や汗がでたよ」
「また、ご冗談を―――」
「本当なんだ。正直、どうしていいかわからない。降参してしまいたいくらいなんだ」
言葉とは裏腹に、若者は実に楽しそうに笑っていた。つられたハロンズも愉快げに声を上げる。
「その様子ですと、さぞや大変な秘密をお持ちのようだ。違いますかな?」
「そうなんだ・・・沢山ありすぎてね。どれが一番かもわからない。まったく、弁護士とは恐いものだな。君の機嫌を損ねたらどうなるか、身に沁みたよ」
「それで、どうされますかな?」
ラクタスは息を整え、笑顔のままで言った。
「これは挑戦なんだろう?私は一度受けた。変更はない」
「よろしい!あとで後悔されますぞ?」
「本望だね」
どちらからともなく差し出した手を、ふたりは握りしめた。
暫くの間は敵同士だとでも言いたげに、互いの指に力がこもる。
「村を出た時が楽しみですな。ところで、勝敗はどのようにしてつけるつもりです?」
「どのように、とは?」
「言い出したのはあなたですからな。当然、何か思いつかれているのでしょうな?」
「いや。まったく」
「何も?」
「何も」
「・・・」
ハロンズは生まれて初めて、渾身の力で相手の手を握り返した。
その後の一悶着が続く間も、馬車はのんびりと目抜き通りを流れていた。
ささやかな店構えが連なる通りは、幾分道幅も広い。一見したところ、ただの民家とも思えそうな風情ではあったが、軒下に慎ましやかにぶら下がる看板で、そこが何の店かがわかった。
どの看板も個性豊かに、鮮やかな色彩で売り物が描かれている。そして、時折目にする露台の上には、葡萄蔓で編んだと思われる可愛らしい小物が、ただ同然の値札と共に、きちんと並べられて置かれているのだった。
「変だな・・・」とラクタスが唐突に漏らしたのは、そんな通りに入って暫くのことであった。
「変とは・・・何がですかな?」
おうむ替えしに尋ねるハロンズに、ラクタスはちらりと視線を瞬かせた。
「人がいないんだ。出歩いている姿があってもいいようなものだが・・・」
そう言いながら、再び窓の外へと目を移す。つられて一度は覗き込んだハロンズだったが、すぐに興味を失ったように椅子に座り直した。
「昼時ですからな。腹が空けば、誰でも食い物のある場所を目指すものです。キッチンで食事でもしているのでしょう」
「私もそう思うんだがね。しかし、煙がでていないんだ。これまでのところ、どの家からもね」
「・・・煙?」
「煙突の煙だよ。オーブンでパンを焼くにも、肉に火を通すにも薪をくべるだろう?当然、今頃はどの屋根にも煙が立ち上っているはずだ。だが、一向にその気配もないんだ」
「なるほど・・・」
ハロンズは驚いて目の前の男を見つめた。言われてみればその通りだと感心する。改めて外を確認すると、所々に突き出た煙突からは、白い筋すら出ていないことが見て取れた。
「だが、私が気になるのは、人がいないことだ。子供の声すらしない。なぜなんだろう?」
「家に引きこもっているのでは?理由はわからんですが・・・」
「ん・・・」
言葉をひとつ飲み込むと、ラクタスは自分の頭の後ろにある小さな通用窓を開き、壁を叩いて御者を振り向かせた。
「聞きたいんだがね。この村はいつもこんなに静かなのかい?」
すると、暫くして怪訝そうな声が返ってきた。
「へ、へえ。私にもさっぱり・・・年に二、三度はここへも来ますが、こんなことは初めてでして・・・」
「今日は安息日ではないはずだが、礼拝でもしているのかな?」
「教会ですかい?この先にあるんですが、全員が入れるほどでかくはないですよ。それに、葬式にしたって、これほど静かにゃできねえってもんで。子供の数だけはやたら多いもんですから・・・」
戸惑いが握りしめた手綱に伝わったのかどうか―――馬は主人の合図を待たずに歩みを止めた。
「とりあえず、降りて様子を見たほうがいいですな」
「そうだな。何かわかるかもしれない」
暫くここで留まっているようにと御者に言い残し、二人は馬車を降りた。
じゃり、と地面を踏みつける音が途絶えると、辺りには、しんとした静けさだけが漂っている。前後を見回しても誰もおらず、説明すら求めようがない。
「これは奇妙ですな。本当に人がいない」
ハロンズは多少の薄気味悪さを背中に感じながらも、目についた店の中へと足を踏み入れることにした。
「ごめん・・・」
律儀に挨拶を入れながら扉を押し開ける。とたんに、染みついたような酒の香りが鼻をついた。看板に酒瓶と葡萄の絵が描かれていたとおり、ここは地酒を売る店らしい。
こぢんまりした店内は薄暗かったが、すぐ側に大きな酒樽が置かれているのが見えた。壁にも数種類の酒瓶がきちんと並べられているのがわかる。少しは飲み食いもできるのか、古びた丸テーブルがふたつ、奥に並べられている。
(おや・・・?)
気づいたのは、暗がりに目が慣れてきたせいでもあった。
テーブルに据えられた四脚の椅子のうち、二脚が弾きとんだように横倒しになっている。不審に思って奥へ行きかけると、靴の底でバリンと何かが割れた。
「うおっ!」
ハロンズは慌てて飛び退き、側のカウンターへと片手をついた。
びちゃりとした感覚に、思わず伸ばした手を引っ込める。見れば酒瓶が倒れており、そこからこぼれた葡萄酒がカウンターを濡らしているのだった。酒は流れて床に落ち、小さな溜まりを作っている。その近くにも砕けた酒瓶が見え、飛び散った中身が床に黒々と広がっていた。
(いったい、どうしたというのだ・・・?)
靴底に食い込んだ破片を取り除きながら、ハロンズは考えた。
このようなことが起こったにも関わらず、人はいない。喧嘩でもあったのかと思うが、謎は深まるばかりだった。不法侵入を覚悟で、奥の厨房から二階へと足を踏み入れる。非常事態であると言い聞かせながら、部屋ごとに声をかけて覗き見るが、やはり誰も答える者はなかった。
階下へ降りてゆくとラクタスがおり、店内の状態をじっと見つめていた。
「オールランド殿。二階に人はいませんな。そちらはどうです?」
「ああ・・・道にこれが落ちていた」
差し出された物を受け取ると、それは小さな子供の靴であった。
「なぜ、道にこんなものが?いったい何が?」
わかるはずもないと知りつつ、ハロンズは尋ねていた。幼い子供の持ち物を見たことで、動揺が増してゆくようであった。
「近くを見て回ったが、どこも空だ。なぜか、慌ただしく外へ出たような気配もある。ここと似たような感じだ」
靴先でばらまかれた破片をどけて道を作る。倒れていた椅子を元通りにすると、ラクタスはハロンズを指で招いた。
「外に出よう。話があるんだ」