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第6話 シロツメクサの零した涙





湖へと続いているという小道は思っていた以上に小綺麗で歩きやすかった。裏の森には長いこと人が立ち入ってないと思っていたが、存外そんなこともないのかもしれない。しっかりと土が固められた平な道に、両脇には低木が立っていた。花は咲いていないので春に咲く花ではないのかもしれない。



私は差している白い日傘をくるりと回した。隣を歩くエリックをちらりと見上げるといつもと変わらない無表情で黙々と歩いている。出発前までは困ったり焦ったりと色んな表情を見せていたのに、すぐこれだ。




「エリック」


「はい、ルクミシア様」


「湖はどんなところなの?」


「小さな湖で、……周りにはシロツメクサが群生しています」


「へぇ、素敵ね」




そして相変わらずこちらから話しかけると反応するがそれ以外は黙っている。艶やかなまつ毛をふせて、形の良い唇をキュッと引き結んでいるエリックを相手が何も言わないのを良いことに私はじっと見つめた。



羨ましいくらいに綺麗な顔。神様が計算して造ったような美しさだ。学院時代には彼には沢山の信奉者がいた。アイリスは主人だったのでマシであったが、ただのアイリスの友人であった私がエリックの側にいるのを彼らに気に入られずにやっかみを受けたものだ。男女問わずあの手この手で嫌がらせを受けた。




「……どうかなさいましたか」


「いいえ、何でもないわ」




私の視線に耐えきれずに動いた唇。こちらが何もないと告げると、また元のようにキュッと引き締まった。




一度だけ、その唇へ触れようとした事がある。学院時代の話だ。




女子寮と男子寮の間にある談話室。消灯間際のそこは人気がなく寂しげだった。アイリスとエリックとお喋りした後、談話室にブランケットを忘れてしまい、取りに戻ってきた私はそこで一人居眠りをするエリックに遭遇したのだ。


美しいエメラルドグリーンの瞳は白い瞼に覆われ、手には私のブランケット。あまりの美しさに、私は思わず『触れたい』と、そう感じた。


いつもは固く結ばれていた、少し開いた唇に、自分の唇を寄せて、止めた。


我に返ってみるとずいぶん大胆な事をしている自分に気づき、怖気付いたのだ。


結局私はその後何をすることもなく恥ずかしくなってその場を去ってしまった。本来の目的であるブランケットも置いてきてしまったため、次の日にエリックが届けてくれた。エリックがブランケットを持っている事を知っていたのに初めて知ったような顔をした私の演技はひどいものだった。エリックは何も言わなかったけれど、もしかしたら違和感を感じていたのかもしれない。



過去の恥ずかしい思い出に浸っていると急に細い小道から視界が大きく開けた。立ち止まってみると、目の前には青く透き通った湖。白い花が愛らしいシロツメクサがびっしりと生えている湖岸。周りの木が高いため上を向くと青空は丸く切り取られているかのようだ。




「……きれいね」


「はい、綺麗です」




隣に立っているエリックも同じように湖を見つめていた。キラキラと陽の光を反射している湖を瞳に収めるように、じっと見ていた。




「青色の…宝石みたい」


「はい、あなたの…」


「私の何かしら?」


「いえ…」




エリックが言葉を濁した。緑色の瞳は気まずげに逸らされてまつ毛は下を向いている。

私はエリックをじっと見て追い討ちをかけるように問うた。




「私の、何かしら?」


「ルクミシア様の……瞳のようだと」




その言葉を聞いて私は目を見開いた。エリックがそのような事を言うとは思わなかったのだ。



エリックに瞳について褒められたことはない。というかエリックは人を褒めるようなキザなことを言うタイプではないのだ。思っていても口には出さず、こちらが聞いて言わせれば言うが私はいつもエリックの言葉が本音か建前かあまり見分けはついていなかった。



自分の頬が熱くなるのを感じる。何も言わない私をエリックは一瞬伺うように見た後、またすぐに視線を逸らした。なんだかこの雰囲気が学院時代に戻ったようで胸がチリチリした。




「…休憩にしましょうか」


「はい、ルクミシア様」




そして私は火照る身体を誤魔化すように湖畔へと歩いていった。



水際から少し離れた位置にエリックがシートを引いてくれる。そこへ座って一息つくと、そよそよと肌を撫でる優しい風や、草花の香りを感じた。



エリックが水筒から持ってきていた紅茶をカップに注いで手渡してくれた。それを一口飲むと、柑橘系のフレーバーティーがすっきりと身体に染み渡るような感覚がした。




「エリック、あなたも座りなさいな」


「いえ、私は」




先程からシートの横に立っているエリックに座るように言うと早速拒否されてしまった。シートは2人座って荷物を置いても十分な広さがある。社交の場であったり誰かの目があれば使用人を主人と同じ場に座らせるのはマナー違反であるが、今は私とエリックの2人しかいないので気にする必要はない。




「座りなさい」


「ですが」


「座りなさいと、言ったのよ」


「…はい、ルクミシア様」




強めの口調で言うとようやくエリックがシートの上で正座した。私はそれを確認すると、鞄から持ってきていた小説を取り出した。




「私は本を読むから、あなたもゆっくりくつろいでいて」


「かしこまりました」




堅い返事が返ってきて本当にゆっくりして貰えるのか疑わしいがしつこく言い過ぎても仕方がないと思い、私は小説の表紙をめくったのだった。













「………」


「………」


「………」


「………」



静かで風か優しく吹き抜ける湖畔はとても快適で読書をするのに最適だった。ちょうど一章分を読み上げた所で、紅茶を貰おうとエリックの方を見ると、彼は正座のまま背筋を伸ばして待機していた。




「……エリック」


「はい、ルクミシア様」


「私はくつろいでいるように言ったはずだけれど?」




くつろぐようにと言ったら足くらいは崩しているものなのではないか。上品に足を折りたたんで背中は真っ直ぐでとても休んでいる体勢ではない。指摘をしてもエリックは動かない。ただ、湖から吹いてくる風がさらさらとエリックの黒い髪を揺らすだけだ。




「十分休ませていただいております」


「…そうかしら」




それでもこれ以上は彼の中で許容範囲の外なのかさっぱり体勢を崩す素振りは見せない。屋敷からずっと歩きっぱなしで、座る時もピシリと生真面目に姿勢を正して、エリックは疲れないのだろうか。



学院時代はアイリスの前ではもっと楽にしていたと思う。アイリスと同じテーブルで食事をしたり、同じソファに座ったりと、時に友人のように接していたように感じたが、今私の前だとそういうわけにはいかないということなのか。



アイリスと共に同じ昼食をとっていたことも、同じテーブルに着いてテスト勉強をしていたことも、ソファに横並びで座って談笑していたことも。全部、私では駄目なのだ。



勝手に想像してなんだか無性に寂しさを覚えた。そうだった。アイリスとエリックの関係は特別だったのだ。私がかつて憧れた、いや今も憧れているあの関係は、二人だけの特別なもので、主人が私になったからといって再現されるものでもないのだと、改めて思い知った。




そこまで考えて急に自分が世界一惨めに思えてきて、身の丈に合わない無い物ねだりをしているような、そんな感覚に陥った。




なぜ、エリックはここにいるのだろう。夫に先立たれ、公爵家を追い出されて実家からも腫れ物扱い。なぜそんな女の世話なんかをしているのだろう。ここにいなければ、今頃エリックは王都でかつての栄華を取り戻しつつある伯爵家のお嬢様の隣に美しく控えていたはずなのに。




「……エリック」


「はい、ルクミシア様」




エリックを使用人として雇うなんて私には有り余る幸福で、もったいない事のはずなのに。そう分かっているのに。名を呼べば、返事が返ってくる。私の名前を呼んでくれる。その事実が惨めで、そして嬉しくて仕方ない。




「あなたは…何故ここにいるの?」


「ルクミシア様?」


「何故このような所で私の使用人をしているの?あなたは、あなたにはこんな所…」


「ルクミシア様、どうかなさいましたか」




正座をしていたエリックは立ち上がり、私の前で片膝をついた。腰を曲げ、こちらの顔を覗き込むエリックの眉は少し下がっていた。



困らせている。エリックからしたら急に主人の気分が下がって大変だろう。私自身こんなに精神が揺れるとは思っていなかったのだ。迷惑をかけたい訳ではないのに、目頭が熱くなる。




「…ごめんなさい取り乱したわ。少し歩いてくるから、あなたはここにいて」




そう言って立ち上がった私に合わせてエリックも立ち上がる。思ったより距離が近くて、背の高いエリックの胸元が私の目の前にある。私はそれを避けて湖の方へと歩いた。とにかく1人になってこの気持ちを鎮めたかった。




「ルクミシア様、お待ちください、私も」


「いいからっ、そこにいなさい。いいわね」




付いて来ようとするエリックを制止して私は再び歩き出した。後ろに人の気配はなく、エリックは私の命令を忠実に守っているようだ。



少し歩くと水際へとたどり着いた。透明な水は中までよく見える。深さは随分とありそうで落ちれば戻って来れそうになかった。私は足を滑らせないように慎重に水の中を覗き込むと、少し離れた所に魚が泳いでいるのが見えた。



銀色の体を揺らして優雅に水の中を泳ぐ姿を見ていると、心が少しずつ落ち着いてきた。私はほっと息を吐くと目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは先程のエリックの眉の下がった顔。



何故エリックが私の使用人をしているのか。今まで何度も頭をよぎっては考えないように、口に出さないようにしていたことだった。理由なんてどうだっていいと、エリックが側にいる喜びだけを甘受して、違和感は見ないふりして。



私は目を開けると、さっきまで泳いでいた魚はもういなかった。湖の真ん中の方へ行ってしまったのだろうか。あの魚が私の届かない所にいってしまったことに寂しさを覚えて、掴めるはずもないのに私は湖に向かって手を伸ばした。



(あ、まずい)



そう思った瞬間にはもう私の身体はバランスを崩していた。




「ルクミシア様!!」




エリックの声が聞こえて、落ちる、と思った時、私の肩が大きく後ろへ引っ張られた。



ドサリと地面に倒れ込む音。水の上ではなかったがどうやら私は転んでしまったようだ。しかし土や草の感触はなく、頬に当たるのは、少し硬くて温かいもの。

閉じていた瞼を開けて少しだけ身体を起こすと、視界いっぱいにエリックの美しい顔が映った。




「えっ」


「ルクミシア様、お怪我は」


「な…いわ」




私はエリックに覆い被さるように倒れ込んでいた。エリックは私の肩と腰に手を置いて、抱きしめるように私を支えていた。



シートがあったところからこの水際まで急いで来たのかエリックの呼吸は少し乱れていた。薄く形の良い唇がは熱い息を吐き、胸は少し大きく上下している。



自分の胸の鼓動がドキドキと耳に響く。エリックとの顔の距離はほんの数センチで、近くで見ても整った造形にため息が出そうだった。エメラルドの奥の瞳孔は大きく開いており、白い頬はほんの少しだけ赤みが差していた。



そしてなにより私の目が惹きつけられたのが、少し乱れた呼吸を吐き出す口元。あの日、夜の談話室で触れられなかったものがまた目の前にあった。この湖には私とエリック以外誰もおらず、私はエリックの主人という立場。



____________触れてしまってもいいのではないか。




そんな言葉が頭を過ぎる。そうだ。だって今エリックは私の使用人で、私の物なのだから。エリックだってキスくらいでは文句は言わないだろう。



触れてしまいたい。その感情に従って、私はゆっくりと、顔を近づける。どくどくと、こめかみのあたりを血が通う。目を伏せて、エリックと目を合わせないように、慎重に近づいて、止まった。



また、怖気付いた。どこまでも勇気の出ない自分にこんなに苛立ったこともない。触れたいのに、触れられるのに。私の中にある清らかで、淑やかでありたいという心が邪魔をする。自分はどこまでも狡くて、自分自身にすら保身を持ち出す最悪な人間だ。




私はそっと、顔を離した。




「触れないのですか」




そう、目の前のエリックが言った。




私は一瞬エリックが何を言ったのか分からなかった。目を見開いた私はただ黙って言葉の意味を咀嚼しようと脳を空回りさせていた。




「あの時のように、逃げてしまわれるのですか」




あの時のように。エリックは確かにそう言った。あの時とは、私が思い当たるのはあの消灯間際の談話室しかなかった。しかしエリックは眠っていたはずなのに。




「あなた、起きて…」


「あの夜、寮の談話室でも、あなたは俺に触れなかった」




私の肩に置かれていたエリックの手が、頬を撫でて髪を梳くように頭に差し込まれた。腰に置かれた腕は引き寄せられ、また距離が縮まる。



ドクドクと、また胸が騒がしく鳴る。一つ気が付いたのは、私の手を添えているエリックの胸もまた強く鳴っていたこと。シロツメクサの花の白と、クローバーの緑、エリックの黒髪がチカチカと視界を埋めていく。真ん中のエメラルドグリーンの瞳と視線があった。




エリックが頭を持ち上げて更に距離が近くなり、そして、触れた。




唇と唇が触れた。そのことに私は頭が真っ白になって。あんなにも触れたいと思っていたのに何も考えられず、気が付いたら離れていた。



私が固まっていると、ポタポタと、エリックの頬に水が落ちた。次から次へと滴り落ちる雫は私の目から流れていた。私は泣いていたのだ。何故なのかは分からない。嬉しかったのか、悲しかったのか、それともまた別の感情からなのか、何も分からなかった。




「なぜあなたの使用人になったのかと、言いましたね」




黙って私の涙を受け止めていたエリックが言った。私の目からエリックの頬を伝った雫が静かにシロツメクサの上に落ちた。私は瞬きをしてから応えた。




「ええ、アイリスに、伯爵家に命令されたのかしら」




カリムラス伯爵家では私は女神のように奉りあげられているらしい。私が公爵家に嫁いだ後、伯爵家の濡れ衣の証拠を確保したからだ。そして同時に同情されている。好きな男のためにその身を差し出した憐れな女として。今まで何度かお礼の金品を差し出されたが、全て断ってきた。そんな伯爵家が、今の私の状態を知ると援助を申し出てもおかしくはなかった。



そして一度だけ、過去に私にエリックを従者として贈ると言い出されたことがある。当時のことを今思い出しても腹が立つ。私が学院時代エリックに好意を抱いていたと、伯爵家は知っているのだ。だからエリックを私に差し出して恩を返そうとしたのだろう。貴族は貸し借りが好きではない、返せていない借りは最悪家を途絶えさせる。私がエリックを受け取れば、好きな男と一緒にいられてよかったですね伯爵家のおかげですね、なんて言うのだろう。貴族とはそういうものだ。



私は伯爵家にも、そしてエリックにも、私への借りを返させるつもりはなかった。それなのに。




「いいえ、俺の意思で、あなたの側にいたいと、そう願いました」




何故この男はそんなことを言うのだろう。あの時決して私のものになることはなかった男が、何故今になって自らの意思でこちらへ向かってくるのだろう。




「何を、言っているの?……だってあなたはっ、あなたが、アランデールに嫁げとっ」




それ以上の言葉は出せなかった。ただ言葉以上に感情が溢れてきて、私はただエリックの胸の上で泣き続けた。エリックの顔は見えなかったが、そっと抱きしめてくれた体温と少し早い胸の鼓動は感じていた。



ただただ、目の前のこの男が憎らしくて、愛おしかった。












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