第2話 優しい香りの記憶
頭が重い、目が覚めてから1番に思ったことがそれだった。それに嫌な夢も見た。
あの時のことを思い出すたびに心が凍ったように冷たくなる。もう7年も前のことだ、いい加減忘れてしまえればいいのに。
いつまではなれてくれないのだろう。
当時彼が仕えていた伯爵家はとある事件に巻き込まれて国の重鎮の陰謀により濡れ衣を着せられていた。そして伯爵家の無実を証明できるのはこの国の宰相をしていた公爵家当主だけだった。そこの公爵家当主にいたく気に入られていた私にはそこの嫡男との縁談が挙がっていたのだ。
私はあの後彼の頼み通りにアランデール公爵家に嫁入りし、夫の仕事の伝手を頼って彼の望んだ書類や記録を用意した。
自分でも馬鹿なことをしているのは分かっていた。夫に事情を話し、協力してもらって、自分たち夫婦の身を危険にさらして、彼のために動いたのだ。
全てが終わって、伯爵様の疑いが晴れたのは私が結婚してから2年後、今から5年前だ。
いわゆる政略結婚をしたけれど、別に貴族の中では珍しいことでもないし、私は大切にしてもらっていたと思う。
夫も夫で私と結婚する前にいた恋人が忘れられず、私たちはなんだか似た者同士だった。これから1番に愛しい人が隣にいない人生を共に歩んで行く戦友だったのだ。
仲はよく、社交界でもおしどり夫婦という形で通っていた。
そう、私は恵まれていたし、確かに幸せだったのだ。
3ヶ月前、夫が流行病に罹って死んでしまうまでは。
頭の痛さを堪え、ぐだぐだとベッドに篭っていると、控えめにドアのノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
布団を剥いでベットの淵に腰掛ける。ドアが空き、部屋に入ってきたのは侍女のコリーヌだった。
「お、おはようございます、奥様」
「……ええ、おはよう、コリーヌ」
名前を呼べばコリーヌはどうすればよいかわからない迷子のような顔をした。グッと目に力を入れ、下唇を噛んでいる。
「いつも通りでいいのよ、コリーヌ。むしろそうしてちょうだい。……最後の朝なのだから」
そういうとコリーヌさますます泣きそうな顔になって、はいと静かに返事をしてから私の朝の身支度にとりかかる。
今日で最後なのだ。
私は今日、この屋敷を出て、アランデール公爵夫人ではなくなる。
ドレスを着て、髪を結うために鏡台の前に座ると、鏡ごしにまだコリーヌが暗い顔しているのがわかった。
(ああ、この屋敷には私のことを惜しんでくれる人がいるのね)
そう思ったらなんだか胸が暖かくなった。
「コリーヌ、いつまでそうしてるの、早く髪を結ってちょうだいな」
「……はい、奥様」
言いたいことが沢山あるのだろう。けれども彼女は呑み込んで自分の仕事に専念している。そういう姿が好ましかったのだ、この屋敷の使用人は。
夫が死んでから、この公爵家は夫の弟のものとなった。私と夫の間に子供がいなかったからだ。そして、夫と仲の良くなかった義弟は、兄の妻など用はないと、私に実家の子爵家に帰るように私に命じた。
私としてもこの先帰るつもりもなかったが、実家の方も出戻りはいらないらしい。私は領地の外れの屋敷へ行くように言いつけられた。おそらく、この先私はその屋敷から出ることは叶わないのだろう。そしてそこで一生を終えるのだ。
社交界のどろどろとした駆け引きも、血生臭い足の引っ張り合いも、華やかな名声も、何もない代わりに穏やかで安定した、つまらない日々が待っている。
でも、それでいいのだ。私は今まで幸せだったのだ。優しい夫に、よくできた使用人。この7年、私は確かに幸せだった。
それに、忘れられない恋もした。
その全てをもって、私は眠るような日々を送る。
「奥様、できあがりました」
ゆっくりと時間をかけて髪を結って、化粧を仕上げてくれたコリーヌにお礼を言って、鏡の中の自分と目を合わせた。
つり気味な目元から覗いた蒼い目は、自分でも不思議なほどに凪いでいた。
「ああ、お美しいですわ、奥様」
「ほんとうに、ありがとう」
また涙ぐみ始めたコリーヌを視界の端に映して、きらきらと綺麗な自分の姿を目に焼き付ける。つやつやとした金色の長い髪も、雪のように白い肌も、社交会でお世辞を貰えるほどのスタイルも、全てこの使用人たちの仕事の賜物だ。
忘れない、ここでの日々を。
「それじゃあ、行きましょうか」
鏡台の椅子から立ち上がり、扉へと向かう。控えていた侍女が開けてくれたドアを抜けてエントランスへと向かった。
玄関口にはすでに実家からの迎えの馬車が来ていた。
シンプルで最低限の装飾をあしらった馬車。10年前に投資が成功してボロ儲けしている子爵家にしては地味であるが、出戻りは目立たずひっそりと帰ってこいというわけか。しかし目的地までつけば良いし派手に帰るつもりもないのでこちらとしてもありがたい。
馬車に乗る前に後ろを振り返ると7年間共に過ごしてきた使用人たちとそのさらに後ろには良く手入れの行き届いた美しい屋敷がみえた。
私付きの侍女であったコリーヌは目を真っ赤に晴らして泣きじゃくっており侍女長や同僚に支えられていた。よく一緒に花の世話をした寡黙な庭師、お菓子は作らないといいつつ私の好きなブリオッシュをよく作ってくれた料理人、公爵家の奥方にふさわしいように厳しく指導してくれたマナー講師。
親しい顔ぶれに胸の奥が熱くなる。政略結婚ではあったがこの屋敷では本当に人に恵まれていた。
この人たちが今まで私にかけてくれた情に感謝を込めて深く礼をした。公爵夫人が使用人に向かって最上級の礼をするなんてマナーの先生に主人としての威厳がなんて怒られそうだけれど。今回ばかりは先生も黙って見ていた。
顔を上げて微笑むと使用人たちも笑ってくれる。そういう温かさが好きだった。
「それではみなさん、ご機嫌よう」
そう言い残して今度こそ馬車に乗り込んだ。
3日間かけて到着した子爵領は相変わらず長閑な田舎だった。12歳のころに王都の学院に通うために実家を出てから今まで数えるほどしか帰っていなかったのでなんだかよその敷地に来たみたいでそわそわする。
子爵領に到着したと実家に伝令は送ったが、直接目的地のお屋敷に向かうため実家のある子爵領唯一の町は今回は素通りだ。
私に与えられた屋敷は小さな村の外れ、森の中に建てられた家で、先々代の当主が建てたらしい。
立地は不便らしいが積極的に外と関わる予定もないので私にとってはどうでもいいことだ。ただ静かに暮らせれたならそれでいい。
開けた道からどんどん森の中に入ってきて窓の外には木しか見えなくなってきた。そのままぼーっと流れる木々を眺めていると古めかしいこじんまりとしたお屋敷がみえてきた。
馬車の速度が徐々に落ちてゆき、窓の外を通り過ぎる木々もゆっくりとなっていった。やがて黒い鉄の門の前で止まった。
「到着しました」
御者はそう告げると馬車のドアの前へと回り込み、ゆっくりと開けた。
「どうもありがとう」
長旅ですっかりと重くなった腰を無理矢理持ち上げる。これから私はこの地で生きてゆく。ゆっくりと深呼吸をして馬車の外へと足を踏み出した。
外は快晴で、馬車から出た瞬間に眩しい光が目の奥に刺さった。曲がった腰を伸ばすように大きく伸びをして前を向くとこれから住む屋敷が目に入る。近くで見ると意外と大きい。そして屋敷の門の前に佇む人を見て目を疑った。
その人はピシリと背筋を伸ばし、エメラルドのように輝く目をしっかりとこちらに向けていた。一呼吸置いてから深く綺麗に礼をしてこう言ったのだ。
「お待ちしておりました。本日よりこの館の家令を務めさせていただきます、エリック・ベルンハルンでございます」
その人物こそ私の初恋の相手であり、私を公爵家へ嫁ぐように仕向けた男。私の友人である伯爵令嬢に仕えているはずの人だった。
驚きすぎて言葉も出ない。固まっている私をよそに軽く挨拶をしてこれまで3日間共に旅をしてきた御者が馬車に乗り込み行ってしまった。
残されたのは私とエリックだけだった。
今は穏やかな春の気候なはずなのに身体中から汗が出てきているような感覚になった。いるはずのない人物がそこにいて。自分はいま幻でも見ているのではないかとさえ思った。
何も反応しない私に相手もどう動こうか考えているようでしばらく意味もなく無言の時間が続いた。どうしたものかと黙っていると先に口を開いたのはエリックだった。
「それでは…………奥様、中へ」
「……私はもう奥様ではないのだけれど?」
いきなり出した声は自分で思ったよりも低くて少し怒っているような口調になってしまった。相手もそうとらえたようで、もともと感情があまり出ない顔をさらに硬くした。
「失礼いたしました、では、お嬢様」
「お嬢様って歳でもないのだけれど?」
「では、ご主人様」
「なんだか変な感じね」
このような可愛くない態度は取るつもりではないのに、何故かそっけない言葉ばかり発してしまう。それでも彼から奥様などと呼ばれるのは嫌だった。お嬢様やご主人様もなんだかむず痒かった。
「……それでは……」
「………」
「……ルクミシア様、どうぞ中へ」
「ええ、それでいいわ」
7年ぶりにした会話はあの時とはまた違う緊張感があった。7年前も私は彼の前では常にぶっきらぼうな態度をとっていたような気がする。心の内の熱をどうにかして隠したくて年上の彼に随分と生意気な口を聞いていたものだ。本来なら貴族と使用人で身分差があるのだが、学院内では身分関係なく平等に接するようにという決まりがあった。まあ守っているのは表面上だけで裏で貴族はふんぞり返っていたが。
もう一度どうぞと言ってエリックは私の少ない荷物を片手に鉄の門を潜り、金のゴテゴテした装飾がついたドアノブに手をかけた。ギィーっと古い音がなって開いたドア。私はまた深呼吸をすると屋敷の中に入った。
「ルクミシア様のお部屋に案内します。今日はお疲れでしょうからゆっくり部屋で休んでいてください。しばらくしたら荷解きを手伝いに参りますので」
そう言って部屋に着くなりエリックは去っていった。確かに疲れてはいるので1人になれる時間をくれるのはありがたい。十分な広さの部屋を見渡すと白を基調とした小花柄の家具やクッションが置かれた可愛らしい部屋でとても私好みだった。2階にある南向きの一番いい部屋に案内してくれたため、窓からは太陽の光が差し込んで部屋を明るくしてくれていた。
マナーは悪いが、天蓋付きのベットに倒れ込むと清潔なシーツの匂いと柔らかい感触に全身が包まれて旅の疲れをほぐしてくれた。
ゴロンと仰向けになってさっきから頭が追いつかなかったことを整理しようと思考を巡らせる。今日私は公爵家を出て実家の子爵家のお屋敷にきた。これから私は心穏やかで静かな日々を過ごす予定だったのだ。
しかし来てみれば現れたのは私の初恋の相手、エリックで。何故か今このお屋敷の使用人のようなことをしている。
「どうして……」
ポツリとつぶやいた言葉は花柄の天蓋に消えた。分からない。状況が飲み込めないのだ。少なからず使用人はつけてくれると思っていたがまさかエリックだったなんて聞いていない。どうして、なんのために、未亡人となって嫁ぎ先を追い出された私を笑いに来たのか。そもそも勤めていた伯爵家はどうなったのか。私が社交会にいたこの前のシーズンではなにか問題がおきたなどとは聞いていない。
そして先程から湧き上がる自分の感情に驚いていた。嬉しいのだ。7年、長い間会わなくて、私には夫もいたのに。それなのに、彼に会ってから胸の奥の熱が消えない。戸惑いよりも何よりも喜びが勝つなんて。なんて単純で浅はかな女なのだろう。
あの澄んだ緑の目に見つめられるだけで、心地の良い音色を奏でるような声を聞くだけで、艶やかな黒髪を視界に入れるだけで、どうしようもなく胸が高鳴ったのだ。
次から次へと出てくる感情のおかげで頭があまり動かない。
結局考えがまとまらずぼんやりとしていると、ドアをノックする音が聞こえた。ここにきてから自分以外の人はエリックしか見ていないのでおそらく彼だろう。
「はい」
ゆっくりと身体を起こし返事をするとドアの向こうから声がした。あの頃と変わらない少し低くて穏やかな声。
「エリックです。お茶をお持ちしました」
「どうぞ」
返事をするとガチャリとドアが開いた。失礼しますと一礼して入ってきたエリックは銀色のワゴンを運んでいる。近くでまた一礼すると、テーブルにティーセットを用意し始めた。私はベットから立ち上がりソファへと移動する。完璧な手付きで給仕される様を物珍しげに見ているとエリックと目があった。
彼はそれをすっとそらし、私の目の前に紅茶の入ったカップを置いた。
「いただくわ」
そう言ってカップを手に取り口元に近づけた。ふわりと香る独特な匂いにはっと息を飲んだ。ベルガモットの強いアールグレイの香り。
「これ…」
「お気に召しませんでしたか」
口をつける前に私が動きを止めたため、エリックがこちらを伺うような視線をむけてくる。私はカップを一度口元から離し、エリックの方を見た。
「どうしてこの紅茶を?」
「お好きだったと、記憶していたもので…」
また幾分か硬くなったような彼の声。戸惑いながら口にされた、好きだったと言った、その言葉に目の奥が熱くなった。
「ええ、…好きだったわ、ありがとう」
そう言って今度こそカップに口をつけた。柑橘の爽やかな香りが鼻を抜け、温かい紅茶が疲れた身体に沁みた。
確かに昔は好きなフレーバーだった。最近はめっきり飲まなくなったが、昔は頻繁ににこのフレーバーを選んでいた。だが7年もすれば好みは変わる。否、この紅茶は避けていたのだ。
7年以上前、学院に入学してまもない頃。まだエリックを恋愛対象としてはっきり意識する前のことだ。当時から私はエリックに当たりがきつくて。今思えばその態度は興味の裏返しだったのだが。一度だけ、偶然に彼一人で買い物に出ているところに遭遇したのだ。彼はいつも伯爵令嬢の隣にいて、一人でいることの方が珍しかったので私にとっては衝撃的だった。
見かけたのは紅茶の専門店、おそらく主人である伯爵令嬢のために紅茶を選んでいたのだろうが、その時に彼が購入していたのがこのフレーバーだった。
(それから真似して飲みはじめたのだったわ…)
心にまたじわりと熱が灯った。ずいぶん子供っぽいことをしていたものだ。その紅茶を好んで飲んでいたことなど彼に言ったことはなかったと思うが、バレていたのだ。
私は紅茶を飲み干すと、そっとカップをテーブルに戻した。
「ありがとう、美味しかったわ」
「恐れ入ります、またいつでもお申し付けください」
こちらに背を向け紅茶を片付け始めたエリックの背筋の伸びた後ろ姿を見つめる。
子爵領に帰ってきてから心が惑わされてばかりだ。なぜエリックがここにいるのか。どういう目的があるのかはわからない。ただ彼がいま側にいるという事実は想像以上に私を幸福にさせた。