6 先生のお誘い
本当になんなんだよ、あの先生。
あの人と関わり初めてから俺の人間関係がどんどんおかしくなってきている。
最近の辻岡はやけに怒りっぽく、俺に恨みでもあるのか、わざと焦がした食べ物ばかり渡す。
もちろんもらえるだけありがたいので気にせず食べているのだが、たまにお腹を壊すのでやめてもらいたい。
伊集院はいつにも増して無茶苦茶になり、暴力的な要求が増えてきた。
クッションにするから皮を剥がせてとか、ハゲの方が似合うからマッチで髪燃やさせてとか。
もちろん全力で拒否しているし、要求を強制されたことはまだないが、いつバイトをやめるか病院行きになるかの二択に直面させられるかわかったもんじゃない。
しまいにはあの真面目な佐藤先輩までもが、まるで別人になってしまったかのように、妙に挑発的な行動をしてくるようになった。
おかげで勉強に身が入らず、効率がガクンと落ちている。
貴重な時間を無駄にするわけにはいかないのでとても迷惑だ。
先生と付き合ってるのかと聞かれて以降、三人ともずっとそんな調子だ。
両親がいなくなって全てを失った俺は底辺から這い上がるために、地道な根回しやプライドを捨てた土下座を駆使して辻岡、伊集院、佐藤先輩との今の関係を築き、食と金と勉強の問題をどうにかしていた。
そんな俺の努力でこつこつと積み上げられた、そこそこ安定した生活が、先生が現れた途端に崩れだしたのだ。
雑に積み上げられたジェンガのタワーのように、グラグラと不安定に揺れる俺の人生を疫病神の先生がツンツンとつついている。
でも、俺はいまだに先生を拒否できていない。
俺が先生を拒否する理由が身勝手なものだからだ。
当の本人はお礼をしたいという善意から動いていて、俺は先生から直接的な害は受けていない。
お金を使わずに美味しい昼食にありつけるようになったのも、とても感謝している。
それなのに先生が疫病神だからという、明らかに俺の思い込みでしかない理由で拒否するなんて失礼すぎる。
だが、まあ……流石にそろそろチャラになってるよな、メグちゃんを助けたお礼。
もうお弁当をもらい始めてから数週間経っている。
先生が本当に疫病神なのかどうかはともかく、ずっと先生の善意に乗っかってるのもダメだよな。
それも同じぐらい不誠実で失礼だ。
やっぱり断ろう。
精一杯のありがとうを告げて男らしく先生の前から去るんだ。
それゆけ俺、やり遂げろ俺!
「待ってました! 隼人ちゃん、一緒に食べましょ」
扉を開いて屋上に踏み込むと、そこには床にピクニックマットを敷いて、その上に正座している先生の姿があった。
彼女の膝元には二人分の小さくて可愛いお弁当箱が置かれている。
「先生、お弁当を作ってくれるのはありがたいんですけど、ああやって教室まで迎えにくるのはやめてくれませんか?」
「私のせいじゃありませんよ? お誘いのメッセージ送ったのに、隼人ちゃんがいつまで経っても携帯を確認してくれないから迎えに行ったんです」
それは……俺が悪いな。
実は先生からのメッセージが届いていたのは知っていた。
ガラケーの特権、バレない既読スルーを駆使してわざと返事を送っていなかっただけだ。
断りの返事を何度もしようとしたけど、どう伝えればよくわからなくてついつい放置してしまっていたのだ。
「早く食べましょ! 昼休みが終わっちゃいますよ?」
「いや、でも……」
ぐぎゅるぐー。
……………………………………断るのはこの腹を落ち着かせてからでもいいかな。
俺はしぶしぶと先生の隣に座り込み、美味しそうな香りを漂わせる、色とりどりのおかずが詰められた弁当箱を手に取る。
半額弁当と試食品が主食な俺にはちょっと気が遠くなるほどのクオリティのランチだ。
果たして俺の貧相な舌は、この芸術品をちゃんと味わうことができるのだろうか。
ぱく。
……う、うまい。
俺がこれまで食べてきたものは一体何だったのだろうか。
果たしてこれを口にする以前の俺は本当に人間として生きていたのだろうか。
そんな思いが脳裏を過ぎり、ほろりと涙が流れる。
「そういえば隼人ちゃんは、おじさんの家の裏庭でテント暮らしをしているんですよね?」
あれ、どうして先生がこのことを……と一瞬疑問に思ったが、そういえば俺が先生にこのことを前に話したんだっけ。
ついついなんでも隠し事なしに話したくさせてしまう先生は罪深い女だ。
「はい、絶対に関わらないことを条件として住まわせてもらってますから」
これにはちょっとした訳がある。
俺の両親は色々と……まあ、はっちゃけた人たちで、悪人だったわけではないのだが家族内ではいつも厄介者扱いされていた。
なので二人が不幸な事故で死に、俺が孤児になってしまった時、親戚の人たちは誰もが俺を預かるのを嫌がり、俺を児童施設へ送るという方向で話は進んでいたのだが、俺はそれに異を唱えた。
今通っている高校は偏差値的にそこそこ上位、授業内容もしっかりしているし、将来役に立つコネクションを築きやすい。
ここから卒業すれば大学入試が間違いなく有利になる。
辺境の児童施設へ送られてしまえば、俺の人生は取り返しがつかないほど遅れを取ってしまうかもしれない。
ただでさえ借金まみれで幸先が悪いのに、そんなハンデを背負えるか。
そう考えた俺は学校のもっとも近くに住んでいたおじさんに頭を下げてお願いし、彼の家族と関わらないことを条件に、裏庭にテントを張る権利を得たのだった。
「うちに泊まりに来ませんか? テント暮らしなんて可哀想ですよ」
「え? でも、迷惑ですよね……?」
「そんなわけないです。一緒に遊んでくれるお兄ちゃんがいたら絶対にメグちゃんも喜びますよ」
「いや、でも先生の旦那さんとかに迷惑じゃ……」
「えっ、そ、その……そ、そういう人はいません! メグちゃんと私は二人暮らしです」
え? そうなの?
意外だ。
明らかに男受けしそうな性格と容姿、おまけに料理上手。
こんな優良物件が誰からも手を出されずに放置されているとは信じられん。
日本男児どもよ、年々草食化しているのは知っていたが、もう少し頑張らんかい。
それとも、もしかして問題は先生の方なのか?
例えば先生はDV夫と結婚していた過去があって、命からがらメグちゃんと逃げ出して、大人の男性恐怖症になっているとか。
……まあ、何か過去に不幸な出来事があったのかもしれないし、俺にそれを興味本位で掘り返す権利なんてないよな。
変な詮索はせずに話題を変えよう。
「先生、別に俺なんかのためにここまでしなくてもいいんですよ? もう何度もお弁当を貰いましたし、お礼はもう十分です。ものすごく感謝してます」
「もーう、子供なんですからそんなに遠慮しないでください。隼人ちゃんは恩人ですよ? これだけじゃまだ全然足りないぐらいです」
先生は感謝の気持ちを体現するようにばっと横から抱きついてきた。
たわわんな二つの水風船が俺の肩にむぎゅっと押し付けられ、ふかふかなベッドの上に横たわったかのような錯覚を覚える。
「さっきも言いましたけど、先生、ここ学校ですからそういうのはやめてくれませんか?」
「じゃあ、学校じゃなかったら、こういうことをしてもいいってことですね〜。やっぱり先生の家に引っ越しませんか?」
いや、そういう意味じゃないから。
まったく……。
この先生は俺を子供扱いしすぎる。
だからこんなことをしたり、平気な顔で同棲しませんかまがいのセリフを言えるのだ。
確かに身長は平均以下だが、俺だって一応健全な青少年なんだし、こうも積極的にくっつかれるとそのうち襲われるぞ?
……まあ、そんな度胸ないけど。
「朝ごはんも、晩ご飯もいつでも作ってあげますよ? それにちゃんと暖房も冷房もありますし、布団もあります」
「……少し考えさせてください。保護者のおじさんとも相談しないといけないんで。今日の夜に返事を送ります」
***
おじさんと相談しなければいけないというのは嘘だ。
俺とおじさんに血縁はあれど実質的には他人。
あいつは俺が攫われようが野垂れ死のうが気にしないだろう。
寝袋の中で悶々としながら、俺はテントの壁をぼんやりと眺めている。
俺が先生の提案をすぐに受け入れなかったのは少し冷静に考える時間が欲しかったからだ。
あのおっぱいと輝く笑顔とさらさらの髪の毛に迫られながら、一緒に暮らしませんかと言われて、平常な男子高校生が冷静な答えを出せるわけがない。
下心に決断を委ねるなんてバカなことを俺はしたくなかった。
先生の提案を受け入れることが有益なものなのかを客観的に考えてから結論を出したい。
先生と仲良くなると辻岡、伊集院、そして佐藤先輩との関係が悪化するのは歴然。
そのリスクを負ってまで先生の提案は受け入れる価値があるものなのだろうか?
先生と一緒になっても飯にありつけるのか?
先生と一緒になってもお金は手に入れられるのか?
先生と一緒になってもちゃんと勉強を続けられるのか?
……いや、待てよ?
先生は飯を作ってくれると言っていたし、先生なんだから勉強を教えるのも容易なはず。
しかも先生と同棲すれば、メグちゃんを入れて三人暮らしなので、まとめ買いで色々とコストを節約できる。
先生一人で三人分のメリットを得られるような気がするんだが……。
いやいや、でも先生は年頃の大人の女性だ。
今はたまたま旦那や彼氏がいないらしいが、いつそのような人間ができてもおかしくない状況にある。
もしそのような人間が現れたら、俺は間違いなく追い出されるし、辻岡と伊集院と佐藤先輩からも助けが得られない絶望的な状況に陥ってしまう。
……だが、待てよ?
それは辻岡と伊集院と佐藤先輩も同じじゃないのか?
三人とも今はフリーらしいが、高校生なんだし美人なんだし、いつ彼氏ができても全くおかしくないじゃないか。
伊集院に関してはあの性格があるんで、まあ大丈夫だろうが、それでも俺のライフラインをあの三人に委ねるのはやはりかなりのリスクを伴っている。
『先生、今付き合っている人はいるんですか?』
いてもたってもいられなくなり、俺はそんな突拍子もない内容のメッセージを先生に送っていた。
返事は瞬く間に返ってきたので後悔する暇はなかった。
『隼人ちゃん……二十代後半なのにまだ独身な先生をいじめてるんですか? 今はメグちゃんのお世話で手一杯なので、そういうことは当分考えないことにしてます』
これだ! 俺は先生に全てを賭ける。