その9
「菊子さん、どうかされましたか?」
尋ねられても返事ができなかった。生まれて初めて感じた嫉妬という感情に戸惑い動揺していた。
「菊子さん?」
私はこの人を好きになってしまったんだ。本当の恋をしたことがなくてもそのぐらいはわかる。身体が震えて動かない。どうしたらいいのか分からず、ただこたつの天板を見つめていた。涙が込み上げてくるのを感じる。
へびさんは静かにこたつから抜け出ると、私の隣に腰を下ろした。彼の顔が見れない。見れば彼は気づいてしまう。
でも彼は私の顔に右手でそっと触れると、自分の方に向けた。彼の真黒い瞳が私を見つめてる。顔が火照って胸がどきどきして、それでも彼から目が離せない。蛇に射すくめられたカエルってこんな感じ? だけど彼のまなざしは優しくて温かい。
そのまま彼は顔を近づけてきた。キス……されるのかな? この人にキスされちゃったら戻れなくなってしまう。でも逃げられない。身体が動かない。
へびさんの顔が私の顔から数センチのところで止まった。そして舌の先で頬についた涙をペロッとなめた。
「うひゃ、何するの?」
奇声をあげた私にへびさんが謝った。
「すみません、へびなのでつい……。でも、悲しい涙ではありませんね」
「わかるの?」
「はい。へびですから」
お陰で呪縛が解けて動けるようになったけど、自分の気持ちに気づいてしまった今、ますますどうしたらいいのかわからない。面接は再来週だし、彼は里からは出られない。彼と付き合えない事には変わりない。私の動揺に気づいているはずなのに、彼は何もなかったかのように立ち上がった。
「そろそろ行きましょうか。菊子さんに見せたい場所があるんです」
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へびさんが私を連れて来たのは、里の東の水源の池だった。彼は迷わず『御池』へ繋がる急な坂道に車を乗り入れた。登りきると目の前に大きな丸い形の池が広がっていた。
「この池からは昔から絶えず水が湧き出ているんですよ。お陰で里は水不足に悩まされたことがありません」
私は池のほとりに立って、水の中を覗き込んだ。緑色の藻の間を小さな魚が泳いでいるのが見える。
「水が澄んでてきれいだね。前に来たときは夜だったから何も見えなかったの」
「あの道、狭いから夜中に走ると危ないですよ。脱輪で済んでよかったですね」
そうか、彼は見てたんだ。自分で抜けられてよかったけど。完全にタイヤは落っこちてたと思ったのに......。
「……もしかして、あの時、へびさんが助けてくれたの?」
「はい。車を下から持ち上げたらちょうどいいタイミングでアクセルを踏んでくれましたね」
「あの時は怖くなって慌てて踏んじゃたの」
へびさんは自分の頭を指差した。
「ここにタイヤの跡がついちゃいましたよ」
「ええ?」
「大丈夫ですよ。脱皮したらなくなりますから」
「へびだから?」
「はいそうです」
池のほとりには小さな祠がある。向こう岸には『キバ岩』が見え、その背後には夕方の太陽の光を浴びてオレンジ色になった山が幾重にも続いていた。
「私はあの岩より向こうには行けないんです」
「里から出たいと思う?」
「そうですね。広い世界を見てみたいとは思うことはあります。でも贅沢はいいません。私はここで十分幸せですから」
彼は車から持ってきた大きな毛布を柔らかな草の上に敷いてくれた。二人で並んで腰を下ろす。
西の山に太陽が近づいていた。高台のここはまだ夕日に照らされているのに里の家々は山の影に沈んでいく。ぽつりぽつりと電灯が灯った。
「こうやってへびさんと並んで座ってたことがある?」
「思い出したんですか?」
「ううん。でも、なんとなくそんな気がして」
「思い出したいですか?」
「昔、へびさんと会った時のこと?」
「はい、私にお手伝いできると思うんです。もちろん菊子さんが望むならですが」
「うん、思い出したい。お願いしてもいい?」
「手を出してください。セクハラじゃありませんよ」
「そんな心配してないよ」
右手を差し出すと、へびさんが自分の両手で包み込むように握った。手が触れているだけなのに動悸が激しくなる。
「目をつぶってください。目が回るかもしれませんが、少しの間ですので我慢してくださいね」
返事する間もなく身体の下から地面が消えた。周囲の世界がぐるりと反転した。
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私は自宅の納屋の裏の草の上に座っていた。頬を伝って涙がぽろぽろこぼれてるのを感じる。家の中からたくさんの大人が話している声が聞こえてくる。
お母さんが死んでしまった。大きな町の病院に入院したところだったのに、今朝、急に具合が悪くなって死んじゃったんだ。お父さんは病院に行ってるけど、私はおばあちゃんたちとお家で待ってなきゃいけないって。
井戸の陰に白いものが見えたので顔を上げたら小さいへびが私を見てた。私と目が合うと頭をもちあげて首をかしげる。
里の人にはへびを見たら絶対に悪さをしてはいけないと何度も何度も言われていた。へびはみんな『みずぃさま』の『けんぞく』だから石を投げたり捕まえたりしたら怖いたたりがあるんだって。たたりというのは悪いことが起こることだ。
へびはにょろにょろと近づいてきた。雪のように白いきれいなへび。真っ黒い目で私の顔を見つめている。
「あなたはだれ? かみさまのおつかい?」
「わたしはへびです」
へびが言った。へびなのは見たらわかるのに。
「あなたが泣いているから気になったんです。何があったんですか?」
「お母さんが死んじゃったの」
「百合子さんがですか?」
へびは驚いたように首をひょいと持ち上げた。
「お母さんの事、知ってるの?」
「ええ。里にお嫁に来られた時から知っています。とても優しい人でした」
へびは下を向いてしばらくそのまま首をゆらゆらさせていた。お母さんのことを悲しんでるように見えた。
「もっとこっちにおいでよ」
「いいんですか? 私が近くに行くとみんな怖がるんですよ」
「こんなにかわいいのに?」
「かわいいなんて言われたのは初めてです」
へびは私のすぐ隣まで這ってくると、くるくると丸くなった。
「触ったらたたりがあるの?」
「たたりなんてないですよ?」
「じゃ、触ってもいい?」
「どうぞ」
指の先で頭に触るとひんやり冷たい。
「持ってもいい?」
「つかまれると苦しいんです。両方の手でお椀を作ってください」
へびは私の手のひらに滑り込んで、またくるくると丸くなった。
「真っ白だね」
「白蛇ですから」
「ねえ、お母さんが死んじゃったのもたたりなの?」
「違いますよ。たたりなんてありません」
「じゃあどうして死んじゃったの?」
「私では百合子さんの病気を治せなかったからです」
私はびっくりしてへびを見た。こんなに小さなへびにお母さんを助けられっこないのに。
「町のお医者さんなら治せるかもしれないと思ったのですが……残念です」
「へびさんのせいじゃないよ」
へびは首を伸ばすと私の涙をちろっとなめた。
「おいしいの?」
「おいしくないです。悲しい涙ですから」
「じゃどうしてなめたの?」
「菊子さんの悲しみを分けてもらおうと思って」
「へびさんは悲しみが欲しいの?」
「私がもらった分、菊子さんの悲しみが減るかもしれないでしょう?」
悲しみが減ったかどうかわからないけど、このへびは優しいへびみたい。
「お母さん、いなくなちゃってこれからどうしたらいい?」
「私にはわかりません」
へびはチロチロと舌を出した。
「百合子さんの代わりはできないですが、私がいたら少しは寂しくなくなりますか?」
「へびさんが私といてくれるの?」
「はい」
後ろから誰かが近づいてくる音が聞こえた。振り返るとよっちゃんのところのおばあちゃんがびっくりした顔で私を見ている。へびに触ってるところを見られたと思って私は震えあがった。
「怒られちゃう」
「大丈夫ですよ」
へびは身体を伸ばして私の体に巻き付いた。小さかったはずのへびはいつの間にか何倍にも大きくなって、私を守るようにぐるぐると二巻きしてから、おばあちゃんの方を向いた。
おばあちゃんは母屋の方に走っていってしまった。
「へびさん、大きくなったり小さくなったりできるの? 凄いね」
「はい。いつもはちっちゃいへびなんですよ。みんな怖がるから」
「へびさんの家族は?」
「いないんです」
「へびさんも寂しい?」
「はい」
「じゃあ一緒にいようよ」
「いいんですか?」
「うん。これからも一緒にいてね」
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気づいたら私は小さなちゃぶ台で絵を描いていた。外では雪が降っている 。風が吹くと縁側と部屋の間のガラス戸がガタガタと鳴った。ちっちゃなへびは私のマフラーにくるまれて膝の上で気持ちよさそうに丸くなっている。へびだから寒いのは苦手なんだ。へびさんはひょこっと顔を出して私の描いている絵を覗き込んだ。
「それは誰ですか?」
「よっちゃんのお兄ちゃん」
「菊子さんは義明さんのお兄さんが好きなのですか?」
「うん、かっこいいんだよ。自転車で小川を跳びこえちゃうんだよ」
五つ上のよっちゃんのお兄ちゃんは勉強もスポーツもできるので、女子の間で人気があった。へびさんは何も言わずにまた膝の上で丸くなった。
「どうかしたの?」
「菊子さんは私と義明さんのお兄さんとどちらが好きですか?」
よっちゃんのお兄さんはかっこいいけど、しゃべったこともない。そりゃ毎日遊んでくれるへびさんの方が好きに決まってる。
「へびさんの方が好きだけど」
私がそう言うとへびさんはまた頭を持ち上げた。
「ねえ、菊子さん、私のお嫁さんになりませんか?」
真っ黒い目が私の顔をまっすぐに見ている。
「結婚は大人にならないとできないんだよ。それに人間とへびは結婚できないでしょ?」
「大人になってからの話です。菊子さんがお嫁に来てくれるのなら私は人間になりますよ」
へびさんはいつも本当の事しか言わなかったので、私は彼の言葉を信じた。
「よっちゃんのお兄さんぐらい恰好いい人間になれる?」
「はい。なれると思います」
「お父さんとお母さんみたいに仲良く暮らせる?」
「はい。結婚するというのはそういうことですから」
「それならいいよ」
へびさんはまた膝の中で丸くなった。私は緑色の折り紙を出して白いクレヨンでへびさんの絵を描いた。
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私はまた泣いていた。今日は引っ越しの日で、私は東京になんか行きたくなかった。よっちゃんやおばあちゃんにも会えなくなるし、へびさんとも遊べなくなってしまう。
「東京に行ったら私や里の事は忘れてください」
私の膝の上でへびさんが言った。へびさんはいつもよりももっと小さくて、なんだか灰色っぽく見えた。
「どうして? 私、へびさんのお嫁さんになるんでしょ?」
「都会にはとてもたくさん人がいるんです。菊子さん、きっと素敵な人に出会えますよ」
「そんなの嫌だよ。ほかの人なんか好きにならないよ。絶対に好きにならないから、へびさん、私を待っててよ」
お父さんが大声で私を呼んでいる。私が振り返った隙に、へびさんは草むらに滑り込んで見えなくなってしまった。