その7
いままで私が平穏に暮らしてきた常識で固められた世界が一瞬で崩れ落ちた。指の先まで小麦色になったのを見れば、手品ではあり得ないのは一目瞭然だった。
おばあちゃんも村長さんもお父さんも本当のことを言ってたんだ。里のみんなが正しくて、馬鹿にしていた私一人が間違ってたんだ。今、目の前にいるこの人は里を守る神様なんだ。
思い返せばものすごく失礼な態度をとっていた気がする。私、祟られてしまうんだろうか?
「菊子さん? お気に召しませんか?」
私が黙り込んでしまったので、男、いや、本物の『みずぃさま』は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「い、いえ、ちょうどいい感じです」
「顔色が悪いですよ。何かご心配事でも?」
「怒ってますか?」
思い切って私は聞いた。後から祟りがあるのではと心配するよりは、今祟られてしまった方が気が楽だ。
「え?」
「だって、結婚するつもりで来たのに、お付き合いからなんて言われたら普通は怒るでしょう?」
「いいえ、こうして菊子さんとお会いできるだけで嬉しいんですよ。お付き合いしてくださるなんて夢のようです」
彼は顔を赤くして、ほわんと幸せそうな笑みを浮かべた。日焼けして陰影がついたせいで今や超イケメンになった神様に真正面から笑いかけられて、私の心臓は意思に反してバクバクし始める。
ちょうどその時、美里さんが震える手でアメリカンを持ってきてくれたので私は急いで彼の顔から目をそらした。
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ーー困った。
コーヒーをおそるおそる飲む神様を見ながら私は悩んだ。
再来週には東京に戻らないとまずいのに、里の神様とお付き合いしていることになってしまった。それも結婚前提で。何とか別れてもらわないと面接前に帰れなくなってしまう。神様を怒らせないようにフる事なんてできるんだろうか? 里に災厄が降りかかるとなるとうかつな真似はできないし。
それにしてもイケメン過ぎる。あまり外見は気にしない方だけど、ここまで恰好いいと見惚れてしまう。ドキドキするだけでどうせ惚れやしないんだけどね。何度も繰り返してきたパターンだからよくわかってる。
「コーヒーは初めてです。こんな味なんですね」
神妙な面持ちで『みずぃさま』が言った。
「都会には泡々なコーヒーがあるんでしょう?」
カプチーノの事だろうか?
「飲んでみたいんですか?」
「はい、でも私はここから離れられませんからね」
土地神さまだからどこにも行けないのかな?
「あ、あの、へびさん……」
へびさんなんて馴れ馴れしく呼んでしまっていいんだろうかと急に不安になった。神様だと分かったからと態度を変えるのも癪だけど、里の命運がかかってるんだからもっと言動に気を使わなくては。
「はい」
「『へびさん』なんて呼んで失礼でしたか?」
彼が首を傾げた。
「どうしてですか? 私はへびですから他に呼び方はないと思いますが。菊子さん、さきほどから様子がおかしいですよ。私が気に障ることをしたのでしたら謝ります」
謝るのはこっちのほうなのに反対に謝られてしまった。とりあえず、私のこれまでの不躾な態度は気にしてはいないらしい。私も里もいまのところ祟られてはいないようだ。
それにしても、里の神様ともあろうお方がどうして私なんかを嫁に貰いたいのかさっぱりわからない。理由がわかれば別れる口実も見つかるかも。
「さっきの質問に戻るんだけど、どうして私と結婚しようと思ったの?」
変に気をつかうと彼の方が気にするようなので、私は元のくだけた口調で質問した。
「菊子さんと一緒になるって決めてたからです。だから戻ってきてくれて嬉しかったんですよ
再び神ががった笑顔を浮かべるものだから、私は慌てて目をそらせて攻撃を避けた。この見た目は反則だ。白いままでいてくれた方がまだよかった。顔が赤くなってませんように。好きになったと勘違いされたら厄介だ。
私の動揺には気付かない様子で彼は話し続けた。
「引っ越しされた時には悲しくて。会いに行こうと思ったのですが、大沢のカーブからどうしても先には進めなくて諦めました」
大沢のカーブ? 蛇みたいな大岩があった場所かな。
「それ、私がまだ低学年の時の話よね?」
「ええ、でも菊子さんとの強い絆を感じましたから、成人したらお嫁に来てもらおうと思ってたんです」
今度は絆とか言い出した。里で見かけてなんとなく気に入った、なんてレベルの低い話ではなかったらしい。参ったなあ。どうやったら諦めてもらえるんだろう? 一口飲んだらコーヒーが酸っぱかったので、私は砂糖を足してスプーンで混ぜた。
「私、デートも初めてなのですが、菊子さんは経験がおありなのですよね?」
唐突な質問に私は顔をあげた。
「え? ええと、そりゃ、付き合ってた人がいたから……」
へびさんの表情が曇った。あれ、付き合ってた人って言ったから?
「でも、いつもすぐに別れちゃったけどね」
気の毒になって慌てて付け足した。別れ話に持ってかないといけないのに、気を遣ってどうするの?
「いつもすぐに、ですか?」
おずおずとへびさんが尋ねた。
「うん、そう」
「それは菊子さんが人を好きになれないからですか?」
「え?」
私は彼の顔を見つめた。
「どうして知ってるの?」
「それは…...まあ……」
彼はもじもじと下を向いた。この人は神様なんだしそのぐらいは知ってても不思議はないか。でも、分かってるんだったら話も早い。
「だから、あなたと付き合うって言ったけど、きっと続かないと思うんだ。......騙したみたいでごめんなさい」
これで諦めてくれるだろうか? それとも祟られちゃうのかな?
「まだ、菊子さんが出会っていないだけかもしれませんよ」
へびさんがのんびりとした口調で言った。
「え?」
「それが私だという可能性がないとは言えませんね。ひとは好きになれなくてもへびは好きになれるかもしれませんし」
「……ポジティブなんだね」
彼はまたほわんとした笑顔を浮かべた。
「はい。へびは執念深いんですよ。それを見定めるためのお付き合いなのでしょう? その上で菊子さんがダメだというのなら、私は身を引きます。だから今日は私の初デートに付き合ってくださいね」
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喫茶店の外に出ると、へびさんが優雅な動きで助手席側のドアを開けてくれた。私は、ぽかんと彼の顔を眺めた。
「どうしました?」
さっきから何かを連想させると思ったら、東京でホストをやってる知り合いだ。浅黒い肌の色と明るい茶髪と仕立てのいいスーツの組み合わせ。ここまでイケメンじゃなかったけど、雰囲気がそっくり。
「肌の色も濃くなったんだから、髪の毛の色も合わせて濃くしたらどうかな」
走り出した車の中で、私は提案してみた。いつの間にか相手が神様だからって緊張しなくなっている。私の態度に腹を立てたからって、里に恨みをぶつけるような人にはどうしても思えない。
「このぐらいでしょうかね。ストップって言ってくれますか?」
彼の柔らかそうな髪の色がみるみるうちに濃くなっていく。
「そ、そこでストップ、あ、ちょっと戻して」
「はい」
「もうちょっと赤みを抑えた方がいいかな」
凄い。フォトレタッチのソフトみたい。他にもいじってみたい衝動を私はぐっとこらえた。
「うん、きれいな色。さらに格好良くなったよ」
まだホストっぽさは残ってるけど軽薄な感じはしなくなったかな。
「ありがとうございます」
彼はにこっと笑い、ふいを突かれた私の心臓はまたバクバク言い出した。ああ、だから赤くなっちゃ駄目だって。惚れたって誤解されちゃうよ。
「ほかには?」
「今のところ完璧だよ。ところで、この高そうな車、どうしたの? へびさんが作った幻?」
「いえ、そこの神社の奉納品をお借りしたんです。村長さんがこれに乗って行けとおっしゃるので。歩いて行くと言ったんですが、だめだと言われました」
村長さんとは頻繁に連絡を取り合ってるのかな? そりゃ神様の存在を確信してるわけだ。
「車がダメなら籠で迎えに行くともいわれたんですが、それも時代錯誤でしょう? この車、つい最近奉納されたんですよ。よいタイミングでしたね」
「はあ」
パールホワイトの外国車だなんてどう見ても『白蛇の神様』仕様なんだけどな。へびさんは偶然だと疑いもしないようだ。
「免許は?」
「無免許です。どうせ里からは出られないので駐在さんが見逃してくださるって」
犯罪じゃないか。
「運転はどうやって覚えたの?」
「昔から車には乗るんです。池の辺りの道路は夜になると車がこないので、私が走っても誰も文句を言わないんですよ」
「もしかしてオート三輪?」
「はい。軽自動車も持ってます」
「私と会ったよね」
「はい」
「姿を見なかったけど」
「夜道で声をかけて不審者だと思われたら困りますからね」
オート三輪だけで十分に不審だったけどね。
「神社の境内に倉庫やお家があるんですが、そこの物も自由に使っていいと言ってもらっていて。ここの里のみなさんは昔からお優しいんですよ。私みたいなへびにどうしてでしょうね?」
彼はいかにも不思議だという口調で首を傾げた。
「そうだ、神社に寄っていきますか? 境内の桜がきれいなんですよ」
「ああ、あの桜? 掃除のときは落ち着いて見れる雰囲気じゃなかったの。もっとゆっくり見てみたいな」
へびさんは神社裏の車道から境内に乗り入れると、例の古民家の前に車をとめた。
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「ここ、へびさんの神社だね」
境内に敷き詰められた白い砂利を踏んで歩きながら私はへびさんに話しかけた。並んで歩くと私より頭一つ分ぐらい背が高い。背の高さも肌の色と同じで調節可能なんだろうけど。
「いえ、違いますよ。『みずぃさま』の神社です」
へびさんは驚いた顔をした。
「でもご神体は白蛇だよ。へびさんをお祀りしてるんじゃないの?」
「私と『みずぃさま』を里の方は混同されているようなんです。大昔に誤解をとこうとしたこともありましたが、どうも分かっていただけなくて。私は神様などではありませんから」
彼は申し訳なさそうに社の方に目を向けた。
「じゃあ『みずぃさま』は別にいるの?」
「さあ、神様というのは目には見えないものでしょう? 私みたいなへびにはわかりませんね」
どう考えてもこの神社はへびさんを祀るために建てられたものなのだけど、ご神体には自覚がないようだ。
「神様じゃないんだったらへびさんって何者?」
「へびですが」
「でも普通のへびじゃないでしょ?」
彼は首を傾げた。
「そうですね。深く考えたことはありませんでしたが、動物も長生きしすぎるとモノノケになるといいますから、そういう類のものなのかもしれませんね」
このセリフ、おばあちゃんには聞かせられないな。
「ちょっと待ってくださいね。里の方からの伝言は、なぜかこのお社の中に届けられるんですよ」
へびさんは社に近づくと中を覗き込んだ。
「今日はなにもないみたいですね。どうもよそ様の郵便物を失敬しているようで落ち着きません。ほかの所に郵便受けでもつけてくれるといいんですけど」
「それは気にしなくてもいいと思うよ」
自分の社の前で恐縮している神様を、私はかわいいと思った。
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二人でベンチに座って桜を眺めた。盛りを過ぎて少し散り始めている。東京で見た桜よりも鮮やかに見えるのはなぜだろう。まるで花びらの一枚一枚がオーラを放っているみたいに。
「きれいだね」
日曜日なのに誰もいない。都会なら花見の名所になっていても不思議はないのに。
「皆さん、河原の桜を見に行かれるんですよ。ここには清掃の方しか来られませんね。へびが怖いのかもしれません」
へびさんは寂しそうに言った。
「でも、蛇は何もしないでしょう? この里にはマムシは出ないって聞いたし」
「マムシは見かけたら私が食べちゃいますからね。少ないと思いますよ」
「え、食べちゃうの?」
「呑んじゃうって言った方がいいですか?」
「食べちゃうでいいけど。でも毒蛇もいないのにどうして蛇を怖がるの?」
言ってから私は気づいた。みんなが怖がる蛇ってこのへびさんのこと言ってるんだ。祟られたら怖いから、蛇神の神社には用がない時には近寄らないんだ。でもこの穏やかなへびさんが祟りなす神様だとはやっぱり信じられない。
へびさんはひらひらと舞い落ちて来た花びらに手を伸ばした。
「毎年一人で桜を見てたんです。誰かとお花見できるなんて素敵ですね」
そうか。私が東京に戻ったらまた一人になっちゃうんだ。最初から付き合うつもりもないのに、彼に期待を持たせてしまった。こんなに優しい人なのにみんなに怖がられて、ずっと一人でいたなんて気の毒すぎる。
無邪気に喜ぶへびさんに私の心は傷んだ。遠距離恋愛じゃ納得してくれないかな? でも私の方が続けられないだろうな。時々遊びに来るぐらいはできると思うけど、この人が求めてるのはただの友達なんかじゃない。なんとかしてあげられればいいんだけどな。
里には他にも同年代の独身女子がいるはずだ。私にずいぶんと執着してるようだけど、他の子と付き合ってみれば、案外うまく行くかもしれない。せっかく私の好みに合わせてイケメンになってくれてるのに、他の子には渡すのはもったいない気もするけどね。
へびさん、格好いいし人柄もいいし、三年前に付き合ってた自称ミュージシャン程度には気に入っちゃったかな。あの時は自分が恋をしていると信じていた。同棲もして結婚まで考えてた。彼に「お前、俺の事好きじゃないだろ」と指摘されるまでは。そのまま父の家に戻ってそれっきり。別れて悲しいとは思わなかったけど、彼を傷つけたのは申し訳なくて、それからは誰とも付き合っていない。
だからこの人にも希望は持たせないほうがいい。早い方が傷は浅くて済むんだから。