その6
その日は朝から風呂に入れと言われたので、思い切り時間をかけて入ってやった。何が禊だ。私、別に穢れてなんていませんけど。いくら儀式だからって無理やり嫁に行かせるなんて人権もなにもあったもんじゃない。この里は都会に比べても先進的だと感心してたけど、やっぱり田舎は田舎だ。
風呂から上がるとおばあちゃんに儀式の間の心得を伝授された。儀式と言っても私が覚えることは特になく、その都度、指示された通りに振舞えばよいだけらしい。ご不敬があってはならないから、ひたすら礼儀正しく慎ましい態度を崩さぬようにと念を押された。
神様の事を『みずぃさま』と呼ぶのもNGだ。以前村長さんが説明してくれた通り、蛇神様本人は自分が『みずぃさま』と呼ばれているのを知らないからだ。じゃあなんて呼べばいいのかと尋ねると、神様にこちらから声をかけるなどと畏れ多い。そんな心配はしなくてもよいと言われた。
今日は諦めてマリのアドバイスに従おうと思ってたけど、おばあちゃんの真剣な表情を見てると、本当に神様がやってくるんじゃないかと思わずにはいられない。昨夜の不安がまた頭をもたげた。
昼過ぎからは結婚衣装の着付けをするということで、村長さんの家に連れていかれた。奥の座敷ではお迎えの用意が進んでいるようだ。
居間の前を通ったら前回ここで会った里の重鎮さん達が集まって、深刻な様子で話し合いをしている。初老の男性が私がいるのに気づいて顔を上げた。彼の顔に浮かんだ後ろめたげな表情に、私は唐突に理解した。彼らにとってこれはただの形式的な神事ではないのだ。儀式の成否が里の命運に関わると信じている。結婚式の真似事では済まなくなりそうだと私の勘が告げていた。早く逃げないと何が起こるかわからない。
ちょうど台所から出てきたよっちゃんを暗い廊下の隅に引っ張り込んだ。
「あれ、着付けに行ったんじゃないのか?」
「着付けなんかしたら結婚させられちゃうでしょ? よっちゃん、助けてよ」
「無理だよ。ばあちゃんに殺されちまう」
「祟りが怖いんじゃないでしょうね」
「そんなはずないだろ?」
でも私にはよっちゃんの表情でわかった。彼は本当に怯えているんだ。
「もういいよ。裏切者。友達だと思ってたのに」
なんとかして自力で逃げなくちゃ。裏口へ向かおうとした私の肩をよっちゃんの手がつかんだ。
「ちょっと待て。お前さ、昔、俺んちでかくれんぼした時、絶対に見つからなかったろ? 秘密の場所があるって言ってさ」
「はあ?」
そういえば……確かにそんな場所があった。
「隠れろっていうの?」
「俺さ、お前が着いた日に東京に帰れって忠告するべきだったんだ。でも、まさかガチで結婚式なんてするとは思ってなかったし、菊子がいなけりゃ琴乃が代わりにされるっていうし……。すまなかった」
なるほど、彼の好きな子は生贄候補だったってわけだ。
「気にしないで。ありがとう」
「それにな、お前には東京に戻って欲しくなかったんだよ」
彼は不安そうに辺りを見回し、それでも私に向かってにやっと笑うと、反対方向へ歩いて行った。やっぱり彼は困ってる人を助けずにはいられないらしい。私は急いで裏口から抜け出した。
よっちゃんのお陰で隠れ場所を思い出した。村長さんの家の門から玄関までの砂利道の脇に樹齢何百年にもなろうという大きなイチョウの木が立っている。その木の右側に張り出した大枝の上に乗ると、もう誰からも見えなくなるって、誰かに教えてもらったんだ。
駐車された車の陰に隠れてイチョウの木に近づき、大人も軽々支えられる太さの枝に足を載せ、その上の枝に腰を下ろした。なるべく下から見えないように太い幹に身体を寄せて、まだ小さな新緑の茂みの中に縮こまる。どうか誰にも見つかりませんように。
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しばらくすると予想した以上の大騒ぎになった。大の大人達が私の名を呼んで走り回っているのでこっちが恥ずかしくなる。イチョウの木の前を何度も人が通り過ぎたけど、誰も私には気づかない。
騒ぎが収まるまではここに隠れていて、人がいなくなったらすぐに里を出よう。荷物はもう車に積んである。父の事は心配だけど、先に東京に戻って助けを求めた方がいい。
躾がなってないと父を叱っていたおばあちゃんが、通りかかったよっちゃんに声をかけた。
「義明、どこに隠れてるのか心当たりはないか?」
「なんで俺が知ってるんだよ? 緊張して便所にでも籠ってるんじゃねえのか?」
よっちゃん、おどおどと挙動不審だ。怪しまれなきゃいいけど。トランシーバーで話していた駐在さんが村長さんに声をかけた。
「南沢の方でも見かけたものはおらんようだ。もしかしたら、里から出たんじゃないのか?」
「いいや、今日は里からは出られんよ。車も自転車もなくなってはいない。遠くへは行ってないはずだ」
村長さんには確信があるようだ。里から出られないってどういう意味だろう?
「あ、あれ……」
よっちゃんが驚いた声を上げて道路を指さした。イチョウの葉の間から覗くと白い車がこちらに向かっているのが見えた。あんな車、里で見かけたことないな。
里の人は慌てて車道の両側に並び始めた。門を通って乗り入れて来たのはパールホワイトのアウディ。周りの風景から完全に浮いている。本当に神様が来ちゃったっていうの?
よっちゃんが駆け寄りうやうやしく運転席側のドアを開けると、スーツ姿の男が足を踏み出した。異様に白い肌をした陶器の人形のような顔に私は目を奪われた。髪の色素も薄いのに、瞳だけは真っ黒い穴が開いたようだ。
この人が『みずぃさま』? 村長さん、今日の儀式のために花婿役を雇ったんだろうか? マリが依り代の話をしてたけど、もしかして物じゃなくて人間に神様が宿った事にして式を挙げるつもりなのかも。
里の人たちは全員頭を下げている。まるで彼の姿を見るのを避けているみたい。最初に村長さんが顔をあげた。私がいなくなったので、どう進めたらいいのか悩んでいるんだろう。気の毒な気もするけど、嫁に行かされるのは彼じゃない。このまま隠れてやり過ごそう。
村長さんから男に視線を戻して悲鳴を上げそうになった。彼の目がまっすぐに私を見つめていたのだ。
里の人たちが慌てて道を開ける中を男は迷いなく近づいてくる。イチョウの木の下まで来ると立ち止まって私を見上げた。見つかってしまった。ううん、最初からバレてたとしか思えない。里の人たちはまだ私に気づかないようで不安そうに顔を見合わせている。私は覚悟を決めて枝の上から飛び降りた。薄く化粧はしてるけど、身につけているのは着古したコットンのシャツに穴の開いたジーンズ。こんな格好じゃ儀式もできないでしょ。さっさと諦めて帰ってよ。
男は驚く様子も見せず私の顔を見つめ続けている。里の人たちは私が急に現れたので仰天したようだけど、だれも声も上げなかった。声を出したら祟られるとでも思ってるの? 村長さんが慌てて駆け寄ってくると、私の手を取ろうとした。このままだとこの得体のしれない男と式場に連れて行かれてしまう。焦った私は、村長さんの手を振り払い男に声をかけた。
「あ、あの、すみません」
男の切れ長の目が少しだけ大きくなった。
「私、あなたとは結婚できないんですが……」
村長さんが喉の奥からくぐもった音を出した。ちらりと周りを見ればその場の全員の顔が男と変わらぬぐらい蒼白になっている。この男が神様だと信じ切っている表情だ。例え依り代だとしても神様が宿ってる建前なわけだから、怒らせるわけにはいかないんだろう。
毅然とした態度で断るつもりだったのに、おばあちゃんが今にも卒中を起こしそうな顔をしているのを見ると決心も鈍ってしまう。このままだとお父さんだって村八分にされちゃうかも。予定外の言葉が口から出た。
「だ、だから、まずはお付き合いからというのはどうでしょう?」
真っ白い男の頬に赤みが差した。
「お付き合い……ですか?」
初めて発せられた男の声は容姿に似合わず柔らかく、なんとなく間が抜けていた。
「はい。ほら、初対面なわけだし、相性が合うかどうかもわからないでしょう?」
村長さんがまた奇妙な音を立てたが私は無視した。
「お付き合いといいますと、デートしたりするあれでしょうか?」
男がおっとりとした口調で尋ねた。
「そうです」
男の顔がさらに赤みを帯びた。
「その方がよいとおっしゃるのなら、私はそれで構いませんよ。菊子さんの納得できる形で進めてください」
そう言うと、彼は私に向かって深く頭を下げた。
「申し遅れましたが私はへびです」
私が先に声をかけたのだから申し遅れたのは彼のせいではないのだが、礼儀正しい人のようだ。それにしてもへびってなによ?
「ええとへびさん?」
「はい、そうです」
周りからの視線が突き刺さる。いたたまれなくなった私は提案した。
「でしたらさっそくデートしませんか?」
「はい?」
里の人達の間を抜けて私が車に近づくと、父が駆け寄ってきた。
「なにしてたんだ?」
周りに聞こえないように私の耳元でささやく。
「隠れてたのよ。変な儀式に付き合わされちゃたまらないでしょ?」
「ほら、これを持っていきなさい」
父は私の手に大きく膨らんだスポーツバッグを押し付けた。大きさの割にはずいぶんと軽い。
「なんなの?」
「危なくなったら出すんだ。いいな」
「はあ?」
男が助手席のドアを開けてくれたので、急いで乗り込んでカバンを後部座席に放り込んだ。よっちゃんが不安げに私たちを見ている。男は自分も車に乗り込み、窓の外に並んでいる里の人たちに頭を下げると、車を発進させた。
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呆然としている村長さんたちを後にしてほっとしたのも束の間、正体不明の男と二人っきりになってしまった。
この人、村長さんに雇われてるんだよね。それなら式次第については聞いてると思うんだけど、こんな展開になっちゃって構わないのかな。
男の白い顔がこっちを向いた。どうらんでも塗ったのか真っ白で分かりにくいが、近くで見ると顔の造作はなかなかのものだ。古くからの儀式らしいし、こういう化粧をするのがしきたりなんだろうか?
「どこに行きましょうか? デートというとカフェや映画館に行くのが定番ですよね。でもこの村にはそのような施設はありませんし」
村長さんに電話をかけて指示を仰ぐんだろうと思ってたのに、本気でデートをするつもりらしい。この人だって雇われた時間の分、仕事はしないといけないだろうし、このまま付き合わせてしまえばいいか。
「一時間も走れば近くの街まで行けるよ?」
「すみません。私、里からは出られないんです」
男は申し訳なさそうにちらりと私を見た。
「ええ、そうなの?」
「はい」
「そういう契約なんだね」
「まあそんなところです」
なんだ、雇われたってあっさり認めてる。口調と同じで間抜けな人だな。
「じゃあ、この先の喫茶店は?」
「美里さんのお店ですね」
知ってるってことはこの里の人なのかな? 最近越してきた人だろうか。
「行ったことある?」
「いえ、入ったことはないんですよ。窓から中を覗いたことしかありません」
変なの。
『純喫茶 美里』とかかれた看板の前に車を駐めて中に入ると、店のオーナーの美里さんは村長さんと同じような奇妙な音を出した。白い男が雇われ神様だという事は知っているらしい。
「ど、どちらのお席に?」
彼女に案内されて私たちは窓際の席に向かい合って腰しかけた。
喫茶店の片隅にはレトロなジュークボックスが置かれている。テーブルの上には星占いの機械。流行を一周しておしゃれなお店だと言えないこともない。
男はまた私の顔をじっと見つめた。こんなに見られちゃ落ち着かないな。何か話さなきゃ。
「ええと、今日は何時まで雇われてるの?」
「はい?」
「花婿役に雇われたんでしょ?」
「はい?」
男は何を言ってるのかわからないといった様子で目をぱちぱちさせた。
「だってあなた、へびじゃないでしょ?」
「いえ、へびですよ」
彼は困った顔をした。あくまでも神様を演じるつもりらしい。それも契約のうちなんだろうし、騙されたつもりで付き合ってやるか。
「わかったわ。じゃあ、聞くけど、へびさん、どうして私なの? 会ったこともないのに」
「私のこと、覚えてないですか?」
「はあ?」
「よく一緒に遊んだでしょう?」
突然に知り合いだったと明かされて私は焦った。昔から里にいる人だったのか。年齢は私と同じぐらいのようだけど、こんな感じの男の子、里にいたっけ? 小さな小学校だったから生徒の顔は全員覚えてるはずなんだけど。
「ごめんなさい、覚えてないみたい」
「そうですか」
男は本気でがっかりしたように見えたので、私は少しだけ申し訳なく思った。
「でも、あの隠れ場所は覚えてたんですね」
「え?」
「あそこは私が教えたんですよ。誰にもみつからなかったでしょう?」
そうか、だから彼には私の居場所がわかったのか。
「でもあなた、へびなんでしょ?」
「はい、へびです」
「人に見えるけど」
「ええ、人の姿で来ましたから」
穏やかな口調で淡々と返すので、質問してる私の方がおかしい気がしてきた。それにしても、彼の顔はどこかで見た気がする。それもかなり最近。
「あなたの顔、見覚えがあるんだけど……大人になってからどこかで会った?」
「ああ、菊子さんのお好きな芸能人の顔を真似てみたのでそのせいだと思いますよ。同じ顔になっても困るので何人か混ぜたのですが、バランスは悪くないですか?」
「真似……したの?」
何を言ってるのか分からない。ま、まさか今日のために整形したんじゃ……。いや、さすがにそこまではやらないか。私の好きな芸能人って村長さんがリサーチしたの?
「菊子さんのお好みではないですか?」
「恰好いいとは思うけど、どうしてそんなに真っ白なの? 吸血鬼のコスプレしてる人みたい」
カウンターの後ろでおばさんが何かを落とした音がした。立ち聞きはやめてほしい。
「変ですか? 私、白い蛇なんで色白の方がそれらしいかと……。もうちょっと日に焼けてた方がよかったですかね?」
「うん、その方が自然に見えたと思うよ。里の人、みんな畑仕事でまっ黒でしょ?」
そう言った瞬間、男の顔は健康的な小麦色になっていた。
「は?」
私の顔を見て男が顔を曇らせた。
「焼け過ぎですか?」
少しだけ肌の色が明るくなる。
「このぐらいでしょうかね?」
「え? えええええ~!?」
ーーこ、こ、こ、この人、本物の神様なの!?