その4
数日後、例の研究家と会うことになった。軽い気持ちで出したメールだったのに、是非会いたいと返事が来たのだ。
たまには里から出るのもいいかと思い、私は彼のいる町まで遠出することにした。遠出と言っても一時間ちょっとの道のりだ。車に乗り込もうとしていると、細い農道を歩いて康子おばさんが近づいてきた。
「菊子ちゃん、お出かけかい?」
「ちょっと人に会いに行くの」
「きれいな恰好してデートじゃないだろうね?」
きれいな恰好って、ワンピースにカーディガンを羽織っただけなんだけどな。普段は引っ越し用に持ってきた古い服を着ているから、そう見えても仕方ないか。
「まあそんなもんです」
「ひぇっ」
「うそうそ、冗談です。ええと、仕事の関係なの」
おばさんの顔が引きつったので、私は慌てて言い直した。嘘はつきたくなかったけど、正直に話して色々質問されても面倒だ。それにしても私ってデートの相手もいないように見えるんだろうか? そこまで驚くなんて失礼な話だな。
「そうかい。今日戻ってくるんだろ?」
「夕飯までには帰ります」
余計なお世話だとは思ったけど、素直に答えて車を出した。里の出口へと向かう途中、農作業をしている里の人たちが、顔を上げて私の車を見送る。まさかと思うけど、見張られてるわけじゃないよね。やっぱり自意識過剰になってるのかな?
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一週間前に通ったくねくねした山道を走りながら、私は空を見上げた。今日、お天気悪かったっけ? ううん、空は晴れているのになんだかグレーがかって感じられる。里を出てからずっとこんな感じだ。体調が悪いわけでもないんだけど、どうしちゃったのかな?
待ち合わせ場所の喫茶店に入ると、若い男性が立ち上がって出迎えてくれた。茶色い縁の眼鏡をかけたクラスの秀才君といった感じの人物だ。郷土史研究家というから、年配の人を想像していたのに、私とたいして歳は変わらないようだ。
私はまず最初に会ってくれたお礼を述べた。
「いえ、こちらこそありがとうございます。僕もあの里には興味があったので。あなたはあそこの方ですね?」
崎山と名乗るその男性は、はきはきとした気持ちのよい話し方をした。マリの知り合いには一風変わった人が多いので、私は内心ほっと胸をなでおろした。
「はい。でも子供の頃に関東に引っ越して、先週戻ってきたところなんです」
「ああ、なるほど。だからですか」
「どういう意味ですか?」
「あそこには何度か足を運んだんですが、研究者だとわかるとみんな口を閉ざしてしまって。里の方がご自分から連絡をくれるなんて考えられませんから」
「何かを怖がってる感じじゃありませんでしたか?」
「その通りです」
彼は頷いた。
「『みずぃさま』ですね」
「そうです」
「『みずぃさま』って何なんですか?」
「蛇の神様でしょうね。僕の知る限りあの里で信仰されているのは蛇の神様だけなんです。元々は土着の蛇神信仰から来たものではないかと」
「いつから信仰されていたのかわかりますか?」
「かなり古くからのようですね。『みずぃさま』は、『みずがみさま』や『みずちさま』といった言葉が訛ったものだと推測されます。江戸後期にはその名前は定着していたようですが、その前にも違う名前で呼ばれていたかもしれません」
崎山さんは手元の資料に視線を落とした。一番上に広げられているのは里の地図だ。彼は右端の一点を指で差し示した。
「この水源の池を守るとされる存在が祀られるようになったのではないかと思っています。手入れの時以外は池に近づくことはタブーでしたね」
「里の人は『御池』って呼んでました。でも神様なら池じゃなくって神社にいるんじゃないんですか?」
「ご神体というのはいくつもあったりしますからね。住人がお参りしやすいように里の中心近くにお祀りしたのかもしれませんよ」
「でもそんなに大事な神様なのに、参拝している人を一度も見たことがないんです。……あの神社、変ですよね。本当に神社なんですか?」
「僕も妙に思って由来を調べたのですが、何もわからないんです。どこの管轄にも入っていないようですね。現職の村長が宮司を兼ねているようですが、お会いにもなってくださらなかったので」
「村長さんが?」
「ええ」
全然知らなかった。
「土地の神様を祀って神道の枠組みの中に取り入れてしまうのが普通なんですが、あそこは体裁を整えただけのように見えるんです。入れ物だけ作ったような感じですね」
崎山さんはまた手元の地図に目をやった。
「ご存知ですか? あの里には教会どころか寺院すらありません」
そういえば、里にはお寺がない。言われるまで気づかなかった。
「さすがに葬式や法事はあるんですが、里ではやらずにわざわざ隣の村の寺に出向きます。これほど歴史の古い村に寺がないなんてとても珍しいことです」
「よその神様を里に入れて『みずぃさま』を怒らせるのが怖いから?」
「そうかもしれません。過去に何度か寺を建てる話があったんですが、里の者の反対で建立できなかったようです」
「ここまで徹底的なのは、神様の存在を信じてるからですよね?」
「宗教ってそういうものですけどね」
「私の言ってることわかるでしょ? みんな確信してるんです。あの里の中に怒らせたらまずい何かが存在してるって」
「確かに尋常ではないですね。とはいえ、里の人が恐怖におびえて暮らしているわけではないでしょう? それどころか皆さん、生き生きと生活されてる印象を受けました。この近辺には今にも消えてなくなりそうな限界集落が増えてるんです。あなたの村はそういう意味でも普通ではありませんね」
「本当に神様のご加護があるとでも?」
「里の人はそう信じているのかもしれませんよ」
なるほど、だからこそ余計に神様を怒らせたくないのかもしれない。
「あの岩も神様に関係してるんでしょうか?」
「村境の蛇岩ですか? 蛇をかたどったものですから、蛇神に関連しているものだとは思いますが」
「あれだけじゃなくて里の周りにぐるっとならんでる岩があるんです。里の人は『キバ岩』って呼んでるそうです」
「ああ、環状列石のことですね」
「はあ?」
「ストーンヘンジのように岩が円形に並べられている遺構のことです」
「日本なのに?」
「規模こそ小さいですが日本にもあるんですよ。古代のカレンダーだという説もあります。夏至や冬至の日や祭事の時期を知るのに使っていたと。境を表しているという人もいますね」
「さかい、ですか?」
「ええ、別の世界との境界線です。結界をつくって里に災厄がはいって来るのを防ごうとしたのですね」
「あんな大きな岩をわざわざ持ってきて並べるなんて、よほど悪いことがあったんですね」
「昔は流行り病や戦乱など、締め出しておきたいことはたくさんあったでしょう」
「そういえば戦争の時、里には徴兵がこなかったって聞きました」
彼は身を乗り出した。
「本当ですか? それは聞いたことなかったな」
「村長さんが言ってたんです。お父さんが戦争に行かなかったから、本当の事だろうって」
「興味深いな。この地方には古くから、隠れ里の言い伝えがあるんですよ」
「隠れ里って?」
「一種の理想郷ですね。山で迷っていたら辿り着いたが、また行こうとしても二度と見つけられなかったという話が多いです。心の清い人にしか里には入れない、とかね」
そう言えば迷って里に辿り着けない人が多いってマリが言ってた。そんなにややこしい所にあるわけでもないのに。
「それと……」
彼は言い淀んだ。
「気持ちのいい話じゃないですが、構いませんか?」
「ええ、教えてください」
「本当かどうかはわからないんですよ。でも、戦後まで生贄の風習があったと」
「生贄ですか?」
「人身御供のようなものだと思うんですが、近隣の村で聞いた噂ですし、詳しいことはわかりません」
人身御供? 神様の機嫌を取るために人間を捧げたっていうの? 『みずぃさま』の印象がますます悪くなる。どうして平和な山里で、このような横暴な神様が信仰されてるんだろう?
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里に戻ると私は水源の池を見に行くことにした。人間、見るなと言われると見たくなるものだ。誰も近づいちゃいけないんだから、暗くなってからこっそり行けば見咎められることもないはず。
『みずぃさま』の話を聞く度にぞくぞくと薄気味さは感じたけれど、不思議に怖いとは思わなかった。蛇の神様の存在なんて頭から信じてなかったし、里の非現実的な雰囲気は、例のテーマパークに遊びに来ているような、何をしても危険はないって気にさせた。
里の中には怖いものなんてひとつもないんだから。……あれ? これ、誰から聞いた言葉だろう?
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丘の上は真っ黒だった。懐中電灯とわずかな月明かりを頼りに『御池』のふちに近づく。どこもかしこも真っ暗だけど、水面に映る星空のおかげで池の位置はわかった。水底に無数の宝石が沈んでいるみたいだ。こんなに見事な星空は東京では拝めないな。池の周りを見渡せば向かい岸に『キバ岩』の一つが立っているのがぼんやりと見える。
水面が揺れてるけど風のせいかな? ここに『みずぃさま』が住んでるわけか。確かに何かいても不思議はないような幻想的な雰囲気だ。
「『みずぃさま』、そこにいるの? いるんだったら出てきてよ」
小さな声で呼んでみる。巨大な蛇がネッシーみたいに顔を出すところが頭に浮かんだ。私って馬鹿みたい。
池も見たので車に戻ろうと振り返ると、西の方角に里の家々の明かりが見えた。ここからは里が全部見渡せるんだ。昼間にまた景色を見に来てみたいな。立ち入り禁止にしちゃうなんてもったいない。
里の中心辺りに明かりが揺れていた。遠すぎて定かではないけれど、提灯やたいまつの明かりのような暖かい色の光がゆらゆらと輪になって動いている。お祭りでもしてるのかな?
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丘を下ってしばらく走るとバックミラーにバイクのライトらしきものが映った。だんだんと近づいてくる。バイクにしては横幅があるみたい。でも自動車にしては形が変だ。あれってもしかしたらオート三輪? あんなレトロなものがまだ現役なんだ。
この道、夜は入っちゃいけないはずなのに、私みたいにこっそり走ってる人がいるのかな。ミラーに注意を奪われて、路肩に近づきすぎているのに気づいた。慌ててハンドルを切ってブレーキを踏んだけど、左前輪が路肩を乗り越えてしまった。
ーーまずい、脱輪した。
ドアを開けて外に出た。辺りには電灯もなく、ヘッドライトの明かりが届く範囲しか見えない。星の光が映っているところを見ると、道の両側には水を張った田んぼが広がっているようだった。しゃがみこんで懐中電灯で照らしてみると、前輪のタイヤは道路から一段低い田んぼの土手にのっかっている。たいした段差でもないけどバックして出るのは難しいかな。板でもあればいいんだけど。
周りを見回すと後ろを走っていたオート三輪が、数十メートル離れた位置で止まっているのに気づいた。あの人に助けてもらおう。すぐに誰か降りてくると思ったのにその様子はない。ここからでは誰が乗っているのかもわからない。ふと池からここまでは一本道なのを思い出した。途中で車なんて一台も見かけなかったのに、一体どこから現れたの?
気味が悪くなって慌てて車に乗り込んだ。ギヤをバックに入れ、駄目元でアクセルを踏み込んだら、がくんと衝撃があって車が動きだした。
バックミラーの中でオート三輪が小さくなっていく。よかった。ついて来る様子はない。やがて小さな車は器用にUターンすると『御池』の方角へ走り去った。
この先、民家なんてないのに、どこへ戻って行くんだろう?
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「昨日、お祭りか何かあった?」
不思議な光が気になったので、ガレージでバイクを磨いていたよっちゃんに聞いてみた。
「この時期に祭りはないけどな。どうして?」
「里の真ん中辺りで提灯の光みたいなのが見えたんだけどな」
「心当たりないなあ。狐にからかわれたんじゃねえのか?」
村長さんとこのよっちゃんが知らないということは、お祭りではなかったということか。
「ねえ、いまだにオート三輪なんて使ってる人いるんだね。さすがド田舎」
よっちゃんが青くなった。
「どこで見たんだよ」
「ええと……」
「あそこは入っちゃダメだって言ったろ?」
「知ってるの?」
「あの辺りに出るんだよ。ばあちゃんは『みずぃさま』のお車だっていうんだけどな」
「神様が車に乗るの?」
「知らねえよ。ばあちゃん、おかしなことがあると全部『みずぃさま』の仕業にしちまうからな。見たって誰にも言うなよ。祟りがあるって騒ぐからな」
また祟りか。最初は面白いと思ったけど、いい加減、疲れて来た。里の暮らしは快適だけど、ここは早めに切り上げてそろそろ東京に戻ろうかな。