その13
私はへびさんと居間の大きなソファに並んで座っていた。私の妊娠がわかってすぐに村長さんが持ってきてくれたものだ。へびさんは私にぴったりくっついて離れない。
「あの、私、瓢箪のことは知らなくて……」
「それは分かってますよ。触れたのがカバン越しで幸いでした。あれを割ってくれていなかったら回復にもっと時間がかかっていたと思いますよ」
「あの時、急に無口になるしどうしちゃったのかと思った」
「あんなところで菊子さんを一人残していなくなるわけにはいきませんから、体が動くうちに家まで送ろうと焦っていたんです」
自分が危ないっていうときに人の心配をするなんてへびさんらしい。さっきは尻尾の先にあった指輪は今は指にはめられている。彼は私の手と自分の手を重ね合わせてうっとりと言った。
「結婚指輪だなんて素敵な習慣ですね。でも男性側が購入すべきものではないんですか?」
「そんな決まりはないでしょ? それにへびさん、里から出られないから買い物もできないじゃない」
「ネットの通販が使えるんですよ」
「支払いは?」
「村長さん名義のカードを貸していただいてます」
「何か買ったことあるの?」
「村の経費で落とすそうなので高いものは買いませんが、本はよく買いますね」
「あそこにあった本だね。私も読んだよ」
「日本各地にいろんな伝承があって面白いですよね。どうしてそんな荒唐無稽な物語が生まれたのか考えるとわくわくしませんか?」
「あれ、自分の事、調べてたんじゃないの?」
「いいえ?」
自分が荒唐無稽の一例だという自覚はなかったようだ。
「へびさん、『キバ岩』を動かしちゃえば里から逃げられたんでしょう?」
「私は岩には触れないんです」
「でも、人に頼めばやってくれたかも」
「確かにそうすれば私は自由になれますね。でも菊子さんと一緒に暮らせなくなるかもしれませんよ」
「そうなの? それは困るな」
「岩の輪の内側は、外の世界とは切り離された異界なんです。あなたが私と一緒にいられるのは、私の側の世界にいるからなんですよ」
「ええ? じゃあ里の人達も異界に住んでるの?」
「はい。どなたもお気づきではないようですけどね」
「会えなくなっちゃうのは嫌だし、へびさんには狭い里で我慢して貰うしかないのかな?」
「私は菊子さんといられればそれで幸せなんですよ」
へびさんは顔を紅潮させてもじもじしている。
「どうしたの?」
「ええと、キスしてもいいですか?」
「うん」
子供まで作っておいて、いまさら遠慮するへびさんが愛おしい。彼は赤い顔を近づけると私の鼻の頭にキスをした。
「そこ?」
「いえ、緊張して狙いを外してしまいました」
へびさんはそう言いながら慎重に狙いを定めると、今度は唇にキスしてくれた。
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私たちは境内の古民家でそのまま暮らすことにした。へびさんはずいぶんと恐縮していたけど、何千年も無償で里を栄えさせてきたのだからこのぐらいは遠慮なく使わせてもらえばいいのだと私が言い張った。
就職は逃してしまったけれど、仕事はネットを介して続けている。よっちゃんのお兄さんの会社からも依頼が来るのでありがたい。
副業として『みずぃさま』のご神託をうける巫女みたいなバイトもしている。もちろん村長さんの計らいだ。ニセモノ神社のニセモノ巫女だけど、小遣い程度の給料は出る。へびさんの伝言を、メモ書きの代わりに私が伝えに行くだけの話なんだけどね。
へびさんの正体を知っている父と村長さんはよく遊びに来る。よっちゃんも仕事帰りに顔を出す。次期宮司及び村長候補として神様と親しくしておいた方がよいと村長さんが言ったからなんだけど、よっちゃんとへびさんは最初からとても気が合うようで、最近は日が暮れると一緒に見回りに出かけて行ったりもする。
ある日の午後、村長さんのところから戻って境内に入ると、へびさんは大きなへびの姿に戻って、緑の葉が生い茂る桜の木の下で思い切り体を伸ばしていた。しばらく雨の日が続いたから、太陽の光を楽しんでいるみたい。
それにしてもでかい。私を呑めるぐらい大きいと言ってたけど、象だって丸ごと呑みこめるんじゃないかな。へびさんの身体で小さな境内は埋め尽くされている。インスタレーションアートみたいだなあとスマホで写真を撮った。誰にも見せられないのが残念。
私は地面に腰を下ろすとへびさんの体にもたれかかった。しばらく陽に当たっていたのか、ほんのりとあたたかい。
「ああ、おかえりなさい。早かったですね」
大きな頭を持ち上げて眠たそうにへびさんが言った。
「『うわばみ』ってこんなのかな?」
「あんなのと一緒にしないでくださいよ。なんでも呑んじゃう下品な生き物じゃないですか」
「人を呑んだことある?」
「ありませんよ」
「何も食べなくてもお腹はすかないの?」
「すきませんね。そんなことより地べたに座ったら身体が冷えますよ」
そういうと頭の上からへびさんの尻尾が降りてきた。
「この上に座ってください」
尻尾に座って胴体にもたれると蛇皮のソファに座ってる感じ。あまり柔らかくはないから座り心地はまあまあだけど。今度はへびさんの頭が降りてきた。
「頭のてっぺん、掻いてもらえませんか? この間からむずむず痒くってたまらないんです」
「皮が剥げてきてるよ。そろそろ脱皮するの?」
「まだ時期ではないはずなんですけどね。あなたと結婚してから、ずいぶんと成長が早くなってる気がします」
両手を使ってごしごし掻いてあげると、へびさんは気持ちよさそうにじっとしている。よく見ると少し離れたところにまだタイヤの跡が残ってる。気になるから早く脱皮しちゃってよね。
へびさんは頭を傾けて真っ黒い目を私に向けた。
「ねえ、さっきから考えてたんですが、菊子さん、つまりはそこの神社の神様と結婚した扱いになってるんでしょう?」
「妬ける?」
「姿のない相手に妬くことはないですけど、なんだか寂しい気もしますね」
「じゃあ、ご神体に就任したら?」
「嫌ですよ。私はへびなんですから、神様になんてなりたくありません」
日の光を浴びて、艶やかな身体からゆらゆらと虹色の湯気のようなものが立ち上っている。
「ねえ、蛇って歳を取ると竜になるんでしょう?」
「昔からそう言われてますけど、ただの言い伝えだと思いますよ。竜なんて空想上の生き物ですからね」
恐竜より大きな蛇にそんな事を言われても説得力がないんだけどな。苦笑いしながら、私は境内の裏山に見える『キバ岩』に目をやった。
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へびさんが戻ってきてからも『御池』のほとりで見たものが気になって、私は里の中心に行ってみた。岩たちにそこに行けと言われた気がしたからだ。
そこには田んぼの中に浮かんだ島のような小さな森があり、立ち入り禁止の立札を無視して足を踏み入れると、地中に半分埋もれた巨大な岩が頭を覗かせていた。私は岩に触れ、岩はすべてを教えてくれた。
古代の人々はたしかにへびさんをここに封じ込めた。けれど彼らの真の目的は、自分たちの生活を守ってもらおうなんて利己的なものじゃなく、気高く崇高なものだった。
遠い遠い未来、その時が来るまでへびさんをこの場所で守ろうとしていたんだ。岩たちの力では抑えきれきれなくなるほど、彼が強く大きく成長する日まで。穢れのない存在のまま、優しい神様として旅立っていける日まで。
長い年月の間、彼が孤独を感じないよう伴侶も与えた。人身御供の周期は人の寿命に合わせたつもりだったんだろう。
岩たちの輪の中心で私には未来が見えた。この小さな楕円形の里は『竜』の卵。優しい彼のことだから、いつかここを去る日がきても、里だけじゃなく子孫たちが暮らすこの世界もきっと守ってくれるはず。
私はへびさんの頭に目をやった。かゆいと言ってた辺りから金色に光る小さな角が二つ頭を覗かせている。本人が気づくと大騒ぎしそうだから、しばらく黙っておこうかな。
願わくば私の生きているうちに化けてくれますように。そうすれば本物の泡々なコーヒーを飲みに、どこにだって連れていってあげられるのに。
「菊子さん、なんだか楽しそうですね」
「幸せだなあって思って」
「本当にそれだけですか? さっきから顔がにやけてますよ」
私はへびさんの尻尾の上にごろんと寝転がって空を見上げた。梅雨晴れの少しけぶった空に、高みへと登っていく真っ白な竜の姿が見えたような気がした。
- おわり -




