その12
里に戻ると私はすぐに『御池』に向かった。『みずぃさま』の嫁は里のどこに行こうと見咎められる心配はない。池のほとりに立ってバッグから小箱を取り出す。入っているのは私の指に光るのとお揃いの銀色の指輪。
「へびさん、聞いてる? ほら、指輪を持ってきたよ。せっかく結婚したのに指輪がなかったでしょ?」
水面を風が渡り、さざ波が立った。
「へびは鉄が苦手ってきいたけど、プラチナなら大丈夫だよね?」
身を乗り出して池の中を覗き込んだけど、へびさんが潜んでいる気配は感じられない。
私は指輪をぎゅっと握りしめると、彼の元に届くように願いを込めた。なけなしの貯金をはたいて地方都市のジュエリーショップで買ってきた指輪。金額を思い出すと手が震えたが、背に腹は代えられない。
池の中央めがけて投げ込むと、ちゃぽんと音を立てて指輪は水底へと消えた。
へびさんが聞いていたかどうかわからないので手紙も書いてきた。防水のフォルダーに挟んで祠の中に入れる。以前に書いた何通もの手紙はそのまま残っていた。読んでくれてないのかな。
もうすぐ日が暮れそうだ。あの日、へびさんと二人で里を見た場所へ立ってみた。
あれ、光が見える。あの時と同じように岩たちの活動が感じられる。どうしてだろう? 隣にへびさんはいないのに。
光の流れが描き出す模様は力強く美しい。けれどもあれはへびさんを閉じ込める忌まわしい檻なんだ。どうやったら檻の蓋を開けられるんだろう。この岩を倒したら、岩たちの働きは止まるんだろうか。精密機械みたいなものなら、どこか一か所壊せば動かなくなるかもしれない。
光の流れを目で追った。どの光の軌跡も一旦里の中心を通って、そこから他の岩へと流れていく。以前、お祭りのような明かりが見えた場所だ。あそこに何かある。
目まぐるしく移り変わる光のパターンを理解しようと、さらに目を凝らした。池の向こうの『キバ岩』からの光が、私の頭上を弧を描いて越えていく。私は池の周りをまわって、岩に近づいた。この岩にも例の蛇とも人ともつかない模様が描かれている。模様はぼんやりとした青白い光を放ち、くねくねと踊っていた。
私は手を伸ばして模様に触れた。その瞬間、私の意識は里のはるか上空へと飛んだ。思わず声を上げたのに自分の声は聞こえない。ただ眼下に里の風景が絵地図のように広がっていた。驚いたけど恐怖はなかった。ここからなら、へびさんを見つけられるかもしれない。
へびさん、どこにいるの? 私は川岸にいる彼の姿を見つけた。でもそれは遠い昔のへびさんで、私の探している彼ではない。彼は私を見上げると優しく笑った。早く会いたいねと言っている。すぐに会いに行くから待っていて。
里の過去はすべてここにある。正しい方向に向かえば未来も見えるはず。収束していく光に乗って、私も里の中心を目指した。そしてそこで私は見た。
ーーああ、そうだったんだ。この岩たちの本当の目的は……
突然にめまいを感じ、元の場所に引き戻される。私は巨石の前にしゃがみこんでいた。
一瞬、何もかもが繋がりそうになったのに、全て消えてしまった。何かがわかったと確かに思ったのに、どうしても思い出せない。『キバ岩』の列に目を凝らしてみても、もう何も見えなかった。今のはなんだったんだろう?
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「風邪ひいたかもしれない」
夕飯の席で私は父に言った。
「大丈夫か?」
『御池』から戻ってからずっと気持ちが悪い。あの奇妙な体験のせいだろうか? 炒め物の匂いにまた吐き気がこみ上げる。食べ物の匂いで気持ちが悪くなるなんて、つわりでもあるまいに。
ーーあれ?
そういえば生理も遅れてるような……。
「ねえ、お父さん、風邪じゃなくて妊娠かも」
「なんだって? 父親は誰だ?」
「へびさんに決まってるでしょ?」
「ああ?」
「結婚したんだから」
父は目をぱちくりさせた。
「お、おう、そ、そういうことか」
今やっとその意味に気づいたらしい
「ちょっと待て、村長に知らせる」
ご飯の途中なのに慌てて駆け出して行った。なんでも村長さんに相談するのが癖になってるらしい。娘を気遣うのが先じゃないのかな。
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翌朝、おばあちゃんは産婆さんを連れてやってきた。気が早いったらありゃしない。検査の結果はやはり陽性。妊娠だと気付いた瞬間にもう確信があったので驚きはしなかった。簡単な検診を終えて産婆さんが帰ると、おばあちゃんは私に打ち明け話をしてくれた。
「七十年前わしは『みずぃさま』に嫁ぐはずだったのじゃ」
「おばあちゃんが?」
「これでも里一番の美人だったのだぞ。だが、わしは宮司の息子に恋しておってな、毎晩泣いておった。里に祟りがあってはならんと思うて、嫁ぐつもりでおったからな」
そういえばおばあちゃんの若いころの写真を見たことがある。勝気な顔をした綺麗な人だった。
「式の当日、『みずぃさま』が現れての。当時は神社の境内でお迎えしたのじゃがな」
「おばあちゃんもへびさんに会ったの? 同じ顔だった?」
「いや、はっきりは思い出せぬが、もっとのっぺりしておったな。当時の美男子はそんな感じじゃったからのう」
「それでどうなったの?」
「その場で宮司の息子に嫁ぐよう告げられて帰られたのじゃ。『みずぃさま』直々のお達しじゃったから、その日のうちに嫁に行かされたわ。わしの想いなど誰からも隠しておったつもりだったのに『みずぃさま』にはお見通しだったのじゃな」
おばあちゃんは懐かしそうに笑った。
「優しい神様じゃったよ。菊子ちゃんも幸せになれるじゃろうて。はよう戻って来てくださるとええな」
さんざん脅かしておいてなんなのよ?と思わない事もなかったが、おばあちゃんも村長さんと同じでへびさんを守りたかったんだろう。
「へびさん、どうして戻って来ないんだろう? 本当に生きてるのかな?」
おばあちゃんは力付けるように私の手を握った。
「里を見てごらん。今日も活気に満ちておるじゃろう? 『みずぃさま』がご無事でおられる証拠じゃよ」
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この里に着いた時には結婚の可能性すら考えてなかったのに、たったの数か月で何もかもが変わってしまった。子供ができたのはまだ里の重鎮さん達しか知らないようだ。都会で遊んでできた子じゃないかと疑ってる人もいるようだけど、私は気にしない。
近頃はおかしなものを見かけるようになった。奇妙な姿の生き物達が草むらで遊んでいたり、里の上空を巨大な何かが横切ったり。お腹の子もへびさんみたいな力を持ってるのかな。へびさんがいなくても『キバ岩』の動きが見えたのは、この子が力を貸してくれたからかもしれない。
赤ちゃんか。へびさんがいたら喜んでくれるだろうなあ。おばあちゃんが持ってきた妊娠についての本や雑誌を眺めながら、私はため息をついた。へびさん、早く戻ってきてよ。結婚生活も経験しないままにシングルマザーになるのは嫌だよ。
別の雑誌を手に取ってパラパラとページをめくる。妊娠中の食事って思ってたより制約があるんだな。そういえば昔話でイケメン武士に化けた蛇に騙される話があったっけ。蛇の子を身籠ってしまうのだけど菖蒲やヨモギで子供を殺してしまうんだ。ヨモギ餅、好きなんだけど避けた方がいいのかな?
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「里には生えてないだろ? 見つけたら抜くのが習慣になってるしな」
父の家の縁側でお茶を飲みながら村長さんが言った。
「ヨモギが? どこにだって生えてると思ったのに」
「菖蒲を植える家もないはずだぞ。昔から里には『みずぃさま』の嫌われるものは持ち込まんのだ。煙草を吸う奴も少ないだろ。蛇はヤニが苦手と言うからな」
この里の喫煙率の異様な低さはそういうことだったのか。
「ヨモギも昔から蛇が嫌うと伝えられているから、誰かが気を聞かせて駆除し始めたんだろうな。へびの奴には瓢箪も効いたから、伝承とはいえ気を付けたほうがいい」
村長さんは他に人のいないところではへびの奴と言う。
「そうだ。あの瓢箪も処分した方がいいな。お腹の子の力を吸い込んでしまうかもしれんぞ」
「怖いこと言わないでよ。あそこの棚に置いてあるから捨ててきて」
「わかった。菊子ちゃんは触らないほうがいい。わしが処分しておこう」
村長さんは善は急げとばかりに立ち上がると、棚から新聞紙で包まれた瓢箪を下ろしてきた。持っていこうとする彼を私は呼び止めた。
「待って、やっぱりそれ、そこに置いて」
彼が瓢箪を地面に置くと、私は縁の下に転がっていた大きな石を抱えあげた。
「おい、妊婦が重い物持っちゃいかん」
「この瓢箪、ぶっ壊さないと気が済まないの。触らないようにするから」
思い切り石を打ち下ろしたら、くしゃっと乾いた音がして瓢箪がぺっちゃんこになった。
ーーああ、すっきりした。
瓢箪がつぶれた瞬間、驚くほど気持ちが軽くなった。世界もさっきよりも明るくなったようだ。
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それから数日後の午後、古民家の掃除を終え父の家に戻ろうと玄関の引き戸を開けると、そこには電柱ほどの太さのある巨大な白蛇がとぐろを巻いていた。
「へ、へびさん!?」
「すみません。戻ってくるのが遅くなってしまいました」
どこから聞こえるのかわからないけど、それは確かにへびさんの声だった。
ーー生きてたんだ。
足の力が入らなくなって土間にぺたりと座り込んだ。涙がぼろぼろと流れ出す。
へびさんはすべるように土間に入ってくると、ぐるぐると私の身体を包み込むようにとぐろを巻いた。
「大丈夫ですか?」
大きな蛇の頭が私を覗き込む。
「もう会えないかと思ってたから嬉しくて力が抜けちゃった」
「菊子さん、瓢箪を壊したんじゃないですか?」
「うん」
「やはりそうでしたか。おかげで力が戻って来たようです」
「あ、そうか。あれがへびさんの力を吸い込んでたのよね。壊せばいいだなんて思いつかなかった。ごめんね」
「いいんですよ。戻って来られたんだから」
「でも、壊したの、もう三日も前だよ」
「はい、指輪がなかなか見つからなかったもので」
「わざわざ探しに行ってたの?」
彼は尻尾を持ち上げて、先っぽにはまっている銀色の指輪を見せてくれた。
「あのう、私、別にあの池の中に住んでるわけじゃないんですよ。魚じゃありませんし、潜るのは苦手なんです」
「ごめんなさい。指輪なんて探さなくてもよかったのに」
「だって菊子さんがくれた指輪ですから」
そう言うとへびさんは私をぎゅっと締め付けた。
「ひゃ」
「すみません、苦しかったですか?」
「ううん、蛇にハグされたの初めてだからびっくりした」
「ああ、慌てて這ってきたので忘れてました」
そう言ったかと思うと、へびさんは人の姿になって私の前に膝をついていた。あの優しい笑顔で私の顔を覗き込むものだから、私はまた泣きそうになった。
「やっぱりへびさんは蛇なんだ」
「はい、へびですよ」
「大きいんだね」
「本当はもっと大きいんですよ。菊子さんを丸呑みできるぐらいはあるんです。でもあまり大きいと邪魔になるでしょう?」
「自分の本当の姿がわからなくなったりしない?」
「正直にいいますと、元々がへびだったのかどうかも定かではないんです。とりあえず一番居心地のいい姿でいるんですよ」
「やっぱり神様じゃないのかな?」
「それだけはないと思いますけどね。さ、立ってください。お茶でも飲みながら話しましょう」
私を立ち上がらせながら、へびさんが怪訝そうに眉を寄せた。
「菊子さん、雰囲気が変わりましたね」
「どんな風に?」
「なんだか人間とは違う匂いがします。何かに憑りつかれてやしませんか?」
「おかしなこと言わないでよ」
「この辺から感じますよ。ほら、お腹の辺り……え?」
彼の驚いた顔に私は笑い出した。
「私の……ですか?」
「へびさん以外にいないでしょ? 浮気でもしたと思った?」
「いいえ、でも、戻ってきたら二児の父親になってるなんてびっくりもするでしょう?」
「ええ? 双子なの?」
今度は私が驚く番だった。




