その11
家のドアを開けると奥から父が迎えに出てきた。泥だらけの私を見て驚いた顔をしている。
「何があった?」
答えずに私はバッグの中身を父の足元に投げつけた。中に入っていたのは大きな瓢箪だったのだ。
「これはなんなの?」
後ろから出てきた村長さんが瓢箪を見て叫んだ。
「直之、お前、『みずぃさま』に何をした?」
「蛇退治に効能があるって聞いて貰って来たんだよ」
父はむっつりした顔で答えた。
「どうして? どうしてこんなことしたの?」
「いくら相手が神様でも、お前の望まない結婚なんてさせられないだろ? あんな得体のしれない奴に娘をやれるか」
「得体が知れないかどうか会ってみないとわからないじゃない。だから最初にお付き合いするっていったんでしょ?」
自分が別れるつもりだったのを棚に上げて父に当たった。父に悪気があったわけじゃないと分かってるのに。彼は私の泣き腫らした顔に気づいて目を見張った。
「菊子ちゃん、『みずぃさま』はどうした?」
村長さんが尋ねた。
「消えちゃったの。探したけど見つからないの」
「どのへんだ?」
私は表に出て車が乗り捨ててあるところを指さした。
「よし、わしも探してみる。菊子ちゃんはもう戻りなさい」
「で、でも」
「長いこと探したんだろう? 身体を温めないと風邪をひくよ」
彼は探るように私の顔を見た。
「そこで別れたということは日没には間に合ったんだな」
夫婦になったのかという意味だと気づき私はうなずいた。
「そうか。あいつはかわいい嫁をおいていなくなるような奴じゃない。すぐに戻ってくるさ」
そういうと、彼は足早に車の方へ歩いて行った。彼の口調に違和感を感じたが、何故なのか考える余裕はなかった。私は自室に戻ってまた泣いた。
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気持ちが少し落ち着いたので、風呂に入って泥を落とした。湯船に浸かり、心を静めてへびさんに気持ちを送る。自覚がないとはいえ神様なんだから、私の呼びかけが届くかもしれない。
彼は死んでしまったわけではない。ちゃんと里の中にいる。私にはその確信があった。心の奥底に彼の存在がじんわりと暖かく感じられるのだ。そのぬくもりに触れているうちに少しだけ気持ちが楽になった。
部屋で髪をかわかしていると父が入ってきた。
「ねえ、瓢箪はいつ貰って来たの?」
昨日へびさんに会ってから準備したとは思えない。
「十年ほど前だ」
「じゃあ、お父さん、『みずぃさま』が本当にいるって知ってたんだね」
「そうだよ。俺たちが里を出たのもそのせいだ。ばあちゃんがお前と『みずぃさま』が仲良くしゃべっているのを見たって言い出してな。『みずぃさま』に見染められたと里の奴らが騒ぎ出したので、ここから逃げたんだ。いい人たちなんだが、蛇神の話となるとおかしくなるからな」
お父さん、私のために里を出たんだ。田舎暮らしが嫌になったんだとばかり思ってたのに。
「『みずぃさま』はどんな奴だった?」
「すごくいい人だったよ」
「そうか。それじゃ余計な事しちまったな。すまなかった」
父が気まずそうな顔をした。
「こっちこそごめんなさい。お父さん、本当は里を出たくなんかなかったんでしょ?」
「それはいいんだ。ここにいると、どうしても百合子のこと思い出しちまったからな。里をしばらく離れたかったんだよ」
「もう大丈夫なの?」
「ああ、あれから二十年だからな。さすがに立ち直らないとあいつも困るだろ」
母の名を聞いて、昨夜盗み聞きしてから気になってたことを思い出した。
「ねえ、お母さんが死んだのとへびさんって何か関係があるの?」
父は後ろめたそうな表情で私を見た。口の両端が下がっている。言いたいことがあるのに、言い出せないときこんな顔をする。
「なんなのよ? 話しにくいの?」
「あの時、百合子を町の病院に入院させちまったのが悔やまれてな」
「え?」
「実家の奴らが設備の整った病院へ移せってうるさかったんだ。新しい治療法を試したいって言ってな。里にいる間は容態は落ち着いていたんだが、家族から頼まれると俺も断り切れなくてな。どうすればいいのか迷ってたんだ」
そんな事があったなんて初めて聞いた。
「そしたらあいつが来たんだよ」
「あいつって?」
「『みずぃさま』だよ。一昨日みたいに草むらから顔を出してな。百合子を入院させろって言ったんだ」
「へびさんが?」
「ああ。で、すぐに町の病院に移したんだが、治療が始まって数日したら容体が急変してな……」
父は一度たりとも母がどのように亡くなったのか話してくれたことはなかった。大人達の話から推測してなんとなくは分かっていたけれど、こうやって父の口から聞くと、物語の中の出来事だった母の死が現実だったのだと初めて実感できた気がした。
「だから……お母さんが死んだのはへびさんのせいだと思ったんだね」
「そうだ。この先、里の奴らみたいにあいつを信じていいのか、俺には分からなくなったんだよ。そんな奴に娘を渡せないだろう?」
私は取り戻したばかりの記憶の中の、へびさんの言葉を思い返した。
「へびさんね、自分の力じゃ治せなかったって言ってたよ。里にいてもお母さんが長くないのが分かってたんだと思う。だから大きな病院へ移った方が、少しでも希望があるって思ったんじゃないのかな」
「そんなこと、俺には一言も……」
父は考え込んだ。
「あれ、言ったかもしれないな……」
「はあ?」
「はっきり覚えてないんだよ。蛇が出てきてしゃべりゃ誰だって動転するだろ?」
「それじゃお父さんも納得してお母さんを病院に移したってことじゃないの」
「そういうことだな」
「じゃあ、へびさんのせいにしないでよ」
「でも神様に言われちゃ期待しちまうだろ?」
「へびさんはね、神様じゃなくてただのへびなんだって」
「そうなのか? ただの蛇はしゃべらないだろう?」
「本人には神様の自覚がないみたい。でも神様みたいに皆を助けようと一生懸命勉強してるの。だから許してあげて」
「よくわからんが、いい奴みたいだな」
父はため息をついた。
「俺には百合子がいなくなった事が耐えられなかったんだ。きっと百合子の死を自分以外の誰かのせいにしたかったんだろうな」
お父さんとお母さん、いつも仲良くしてた。自分にも好きな人ができた今、父がどれほど苦しんだのか、やっと理解できた気がした。私まで不幸になるんじゃないかと思ったら、何かせずにはいられなかっただろう。
「これからどうするんだ」
「結婚したからここにいる。へびさんが戻ってくるのを待ってるよ」
「ああ? 式場から逃げ出したってのに結婚したのか?」
「会ってみたらいい人だったからね」
「じゃあなんで瓢箪を使ったんだよ?」
「うっかり触っちゃったの。そんな危ないものが入ってるなんて思わないでしょ?」
「お守り代わりに渡したつもりだったんだが、まさかここまで効き目があるとはなあ」
私の表情が曇ったのを見て父が慌てて言った。
「明日は俺も一緒に探しに行くよ。里の神様がかそんなに簡単に退治されたりしないだろ?」
「うん……」
彼は里の中にいる。でもどこにいるのかは分からない。私の元にいつ戻って来るのかも。
「泣くなよ。すっかり惚れちまいやがって」
「お父さん、うるさい」
「朝から探しに行くんだろ? 早く寝ろよ」
父はにやりと笑って出て行った。
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瓢箪のことは私と父と村長さんしか知らない。村長は無事に儀式が執り行われたと発表し、里はまた以前ののどかな里に戻った。とは言え、儀式の詳細まで知っているのは里の重鎮さん達だけのようだけど。
私は毎日へびさんを探して回った。時間がある時にはよっちゃんも付き合ってくれた。彼には何があったか全て話した。へびさんが古民家に戻っている様子はない。『御池』にも毎日通ったけど、なんの痕跡も見つけることはできなかった。どこに隠れてるんだろう?
胸が苦しかった。初めて好きになった人なのに、こんなにもすぐに失ってしまうなんて。彼に会いたい。会いたくてたまらない。へびさんだってきっと同じ気持ちでいてくれるはず。それなのに出てきてくれないなんて、よほど具合が悪いのかな。生きてると私が信じたいだけで......死んじゃったのかもしれない。
この里は最初から何かがおかしかった。こんなに辺鄙な場所にあるのに、さびれた様子もないなんて、ありえっこないのに。今となっては理由がわかる。へびさんが守ってきてくれたから、ここは誰もが夢に描くような理想の田舎でいれたんだ。
へびさん、あなた、いつからここにいたの? ずっとこの小さな谷間に閉じ込められていたの?
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「村長さんは岩のこと、知ってたんでしょ?」
私は村長室の椅子に座ってお茶を飲んでいた。毎朝へびさんがいそうな場所を回って、最後にここに立ち寄るのが日課のようになっていたのだ。
「岩ってなんのことだ?」
「『キバ岩』のこと。知っててへびさんを閉じ込めてたの?」
「『みずぃさま』は...…へびの奴は気にせんと言っておった。知っていながら里に尽くしてきたのだよ」
「へびの奴って?」
村長さんはため息をついた。
「わしはあいつと子供の頃からの友達なんだよ」
「村長さんが?」
「ガキの頃、『御池』に忍び込んだことがあってな」
「ええ? 祟りが怖くなかったの?」
「お袋があまりに『みずぃさま』の事でうるさいんで、反抗してみたくなったんだよ。それに、池には魚や小エビがどっさりいるって噂だったからな」
村長さんは懐かしそうに笑った。
「で、網を持って魚を追いかけてたら、足を滑らせて深みにはまっちまった」
「へびさんに助けてもらったんだ」
「そういう事だ。けど、秘密にしておけよ 。特にお袋には言わんでくれ。心臓発作をおこされちゃたまらん」
「よかった」
「ああ?」
へびさん、友達がいたんだ。
「じゃあ、へびさんが祟らないってわかってるんでしょ?」
「へびの奴が祟りなどするものか」
「じゃあ、どうしてみんなを怖がらせるの?」
「畏怖の念を失えば信仰心も薄れてしまうだろ。人間は単純だ。里の者には怖がってもらった方がいいのだよ。へびの奴があんなお人よしだとバレてみろ。利用しようとする奴も出てくるかもしれん」
それはわかる気もする。
「わしの家は代々『みずぃさま』をお守りしてきたのだ。この寒村が栄えてきたのはへびの奴がいたからだ」
「でも、へびさんがかわいそうでしょ? あんなにいい人なのに」
「だから少しはいい目を見させてやりたくてな。菊子ちゃんを嫁にやろうと思ったんだよ」
「そんな勝手な」
「菊子ちゃんも間違いなく惚れると思ったんだがなあ」
村長さんが冷やかすように言った。まあ、当たってましたけどね……。
「七十年に一度、若い女の人をへびさんのところに送ったんでしょう?」
「知ってたのか。でも言い伝えでは長いこと嫁を取ることはなかったらしい」
「奥さんが忘れられなかったんだって言ってたよ。凄く好きだったって」
「そうか。それじゃよっぽど菊子ちゃんのことを気に入ったんだろう。心配するな。すぐに戻ってくるよ」
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『みずぃさま』は神様だから失踪中だと疑われることはないみたい。古民家は私とへびさんの新居ということになっていたから私は毎日のように足を運んだ。へびさんが戻ってくるとしたらきっとここだろうし。もう掃除の人もこないので散らかしても何も言われることはないんだけど、いつ彼が戻ってきてもいいように毎日簡単に掃除をした。手掛かりが欲しくて古民家にあった民俗学や考古学の本にも目を通した。
昔話の中には蛇が嫁を取りにくる話がいくつかあった。多くの場合、糸車や瓢箪で蛇は退治されてしまう。嫁に行くと約束しておいて殺して逃げるなんて酷い話だ。これ、実話が元になってなきゃいいんだけどな。
お父さんはこういう昔話や伝承を参考にして、藁にでもすがる思いで瓢箪を探してきたんだろう。こんな妖怪退治のアイテムが実在するなんて信じられないけど、そんなことを言うとへびさんの存在自体あり得ないことになってしまう。
里について調べているうちに、岩を調べに来た大学の研究者の報告書にたどり着いた。なんと『キバ岩』と呼ばれる環状列石が建てられたのは、縄文後期の可能性があるらしい。
へびさん、そのころから閉じ込められてたの? 源平合戦どころの話じゃないよ。
その大学はそれほど遠くはなかったから連絡を取ってみると報告書を書いた教授はまだ在籍していた。私はすぐに面会の予約を取り付け会いに行った。
「調査の結果は読めばわかると思うんだがね。何を知りたいんだね?」
積み上げられた本や書類の間に、おかしな形の岩や土器のかけらが置かれた狭い研究室の中で、特に迷惑がる様子も見せず、真っ白いひげの教授は尋ねた。
「他の同じような報告書に比べてずいぶんと簡潔に思えたものですから、書いていないこともあるかと思ったんです」
「里の方があまり協力的ではなかったのでね。調査を切り上げるしかなかったんだ。また調査するにしても優先度は低いかな。あれほど良好な状態で今も残ってるなんて珍しいけどね。まるで今もまだ使われてるみたいだ」
「使われてるって言ったら驚きますか? あれは神様を逃がさないために作られたものなんです」
彼が何かを知っている気がしたので、私は正直に話してみた。頭がおかしいと思われても、もう会うこともない人だし構わない。彼は観察するように私を見た。
「君はあそこの子かい?」
「はい」
「そうか。本当に神様がいらっしゃっても不思議はないほどの美しい里だったな。神様っていってもね、昔の人はよくわからない存在の事を全部ひっくるめて神様って呼んだのさ。いい神様だけじゃない。悪い神様もいる。よい神だと逃がしたくないからね。そうやって捕まえたのかもしれないね」
「神様なんてつかまえちゃって怒ったりすることはないんですか?」
「だから色々な方法を使って鎮めたんだ。祀ったり人身御供を捧げたりしてね」
彼はまた私を見た。面白がっているようにも見える。彼はへびさんがいるのに気づいたのかな? 調査を止めたのには別の理由があったのかもしれない。
「まだ神様はあそこにいるのかい?」
「わからないんです。私には見えなくなっちゃいました。もしまだいるのなら、どうやったら自由にしてあげられますか?」
教授は考え込むように真っ白い顎ひげを右手で撫でた。
「そうだね。籠の蓋を開ければいいんじゃないかな。でもまずは神様がどうしたいのか伺ってみないとね」




